阪本さん之助
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阪本 釤之助(さかもと さんのすけ、安政4年6月24日(1857年8月13日) - 昭和11年(1936年)12月16日)は、日本の官僚、政治家、詩人。俳号・三橋、雅号・蘋園(ひんえん)。尾張国愛知郡鳴尾村に、永井匡威の3男として生まれる[1][2]。 いつ?元老院議官阪本政均の婿養子となり[1]、内務官僚等を経て、1902(明治35)年から福井県知事、1907(明治40)年から鹿児島県知事要出典を歴任[3]。1911(明治44)年7月4日から1917(大正6)年まで、名古屋市長を務めた[1]。
また1911年8月24日から1934年まで要出典貴族院勅選議員を務めた[1][4]。名古屋市長退職後、日本赤十字社副社長、維新史編纂会副総裁を歴任[1]。1934年、枢密顧問官[5]。1920年から尾張徳川家の御相談人となった[1]。
詩書を得意とし、名古屋市長時代は「蘋園市長」と呼ばれて親しまれた[1]。
栄典
家族・親族
系譜
- 永井氏 … 詳細は永井久一郎を参照のこと。
脚注
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- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 香山 2016 122
- ↑ 永井家は帯刀を許された豪農であった(永井 2000 219)
- ↑ 香山 (2016 122)。同書では1909(明治42)年鹿児島県知事、1910(明治43)年熊本県知事、としている。
- ↑ 『官報』第8454号、明治44年8月25日。
- ↑ 1936年まで在任。
- ↑ 『官報』第6148号「叙任及辞令」1903年12月28日。
- ↑ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ↑ 『官報』第7606号・付録「辞令」1908年10月31日。
- ↑ 9.0 9.1 9.2 小谷野 2007 86-87
- ↑ 小谷野 2007 86-88
- ↑ 11.0 11.1 小谷野 2007 85-88
- ↑ 小谷野 2007 85,87
- ↑ 小谷野 2007 87
参考文献
- 香山 (2016) 香山里絵 「尾張徳川美術館」設計懸賞 pdf 金鯱叢書 43 徳川美術館 2016-03 2188-7594 103-131
- 小谷野 (2007) 小谷野敦 [ 日本の有名一族‐近代エスタブリッシュメントの系図集 ] 幻冬舎新書 幻冬舎 2007-09-30 978-4-3449-8055-6
- 秦 (2002) 秦郁彦 [ 日本近現代人物履歴事典 ] 東京大学出版会 2002 9784130301534
- 永井 (2000) 永井荷風 [ 下谷叢話 ] 岩波文庫 岩波書店 2000 1926 9784003104286 219-220
- 福田 網野 (1984) 福田清人 網野義紘 [ 永井荷風 ] 人と作品 43 清水書院 全国書誌番号:85023720
- 馬場 (1934) 馬場守次 阪本釤之助氏 [ 楊城縉紳集 ] 珊珊社 1934 NDLJP 1031714/189 354-357
- 長江 (1916) 長江銈太郎 阪本釤之助君 [ 東京名古屋現代人物誌 ] 柳城書院 1916 1912 NDLJP 955846/12 7-12
- 手島 (1915) 手島益雄 阪本釤之助 [ 名古屋百人物評論 ] 日本電報通信社名古屋支局 1915 NDLJP 954765/15 1-7