本田仙太郞

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本田 仙太郞(ほんだ せんたろう、生年不詳 - 没年不詳)は、広島県出身の日蓮正宗の信者。大日本救世団を組織して日蓮主義的な軍人と交流を持ち、『東京日日新聞』や『読売新聞』などにしばしば日蓮主義の宣伝広告文を掲載したことで知られる。

経歴

広島県の豪農の一人息子として生まれる[1]

大正初期に夫妻で上京[1]

キリスト教の信仰などの宗教遍歴の後、日蓮正宗に帰依[1]板垣退助とも面識があったといわれる[1]

また自慶会を通じて本多日生と交流があり、妹尾義郎とは同じ広島県出身ということもあり、親交があった[1]

日蓮主義的な軍人達とも交友し、大迫尚道陸軍大将を団長として大日本救世団を組織。[1]

東京日日新聞』や『読売新聞』などに「南無妙法蓮華経、謹みて紀元節を祝い奉る。大日本救世団長本田仙太郎謹白」といった文面の大小の広告をしばしば掲載することで知られていた[1]

労働争議の斡旋役や受刑者の貰い下げ、孤児の救済などにも携わっていたが、日蓮の名を用いた霊感商法も行っていた[2]

1920年(大正9)6月26日に日比谷公園で大日本救世団が開催した「尼港殉難同胞六百人の追悼会」では、涙を流しながら「真摯の追悼以て殉難の霊魂を慰められたし」と絶叫して「南無妙法蓮華経」を唱えた。これを見ていた妹尾義郎は「一考狂気の如き感ずるものあらん」と述べながらも純真な信仰のためだろう、と感想を書き残している。[3]

1921年(大正10)4月、足尾銅山の労働争議事件で、自慶会の活動の一環として調停にあたるも、資本家の手先とみなされ、労働者側の不信を買う[4]

付録

脚注

参考文献

  • 妹尾 (1974b) 妹尾鉄太郎・稲垣真美(編)『妹尾義郎日記 第2巻』国書刊行会、1974年、JPNO 73020138
  • 中濃 (1974) 中濃教篤「解説」(妹尾 1974b 439-450)