鹿島建設爆破事件
鹿島建設爆破事件(かしまけんせつばくはじけん)は、1974年12月23日に東京都江東区の鹿島建設本部内装センターPH工場で起きた爆破事件。「抗日パルチザン義勇軍さそり」が「(…)鹿島建設は植民地人民の生血をすすり死肉をくらい獲得したすべての資産を放棄せよ。」との犯行声明を発表した。
背景
花岡事件 (遺骨発掘・送還運動) も参照 1950年代から1960年代にかけて、花岡事件や日本各地の華人労務者使役事業所での死没者の遺骨を発掘し、当時日本と国交がなかった中華人民共和国へ送還する運動が展開されたが、1960年代の後半に、中国の窓口争いによって日中友好協会が分裂したことを契機に、中国人強制連行事件に関する日本政府や華人労務者使役企業の責任を追及する運動は退潮した[1]。
1971年に、本多勝一・古川万太郎が『朝日新聞』に連載した『中国の旅』により日中戦争の実録が注目され、日中戦争の実録の刊行ブームが起きたが、1972年にキッシンジャーの訪中以降の米中接近によって、日中間の国交回復が日中間の交渉に拠らずに実現し、日中共同声明で中国が日本に対する戦争賠償の請求を放棄したことにより、中国人強制連行の問題が日中政府間交渉において取り上げられる見込みは薄くなり、むしろ日中友好の気運になじまない過去の出来事として排除・無視されるようになった[2]。
事件
1974年-1975年にかけて、学生運動の中でも「戦争責任を追及する」運動を行っていたグループが過激化し、東アジア反日武装戦線は、三菱・三井・大成・帝人・鹿島・間などの企業に対して爆弾闘争を展開した[3]。
1974年12月23日に同戦線・「抗日パルチザン義勇軍さそり」が東京都江東区にあった鹿島建設本部内装センターPH工場を爆破し、「(…)鹿島建設は植民地人民の生血をすすり死肉をくらい獲得したすべての資産を放棄せよ。」との声明を発表した[3]。
付録
脚注
参考文献
- 石飛(2010) 石飛仁『花岡事件「鹿島交渉」の軌跡』彩流社、2010年、9784779115042