丸田祐三

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丸田祐三

丸田 祐三(まるた ゆうぞう,1919年3月30日 - 2015年2月17日)は、将棋棋士である。九段。平野信助七段門下。棋士番号43。

経歴[編集]

母親の里帰り出産により1919年3月30日長野県長野市で出生し[1]、東京市(現東京都)浅草で育つ。東京保善商業学校(現保善高等学校)中退。 昭和11年に平野信助七段に弟子入りした。奨励会時代の昭和15年、三段の時に太平洋戦争に召集され、陸軍の衛生兵としてヤップ島で終戦を迎えた[2]。復員後は特例で四段に昇段し、順位戦を12勝2敗の成績を収め、当時の勝ち星点数加算制度により三段跳びの七段に昇段。さらに翌年も昇段を決め、戦後の混乱期とはいえ、四段から二年で八段というスピード昇段記録を持っている。 2015年2月17日夜、多臓器不全による肺炎のため死去。満95歳没。これにより、大正生まれの将棋棋士は全員物故者となった。

戦績[編集]

  • 1961年の名人戦などタイトル戦登場4回、棋戦優勝10回、A級は通算24年。
  • 勝ち抜き戦のNHK杯テレビ将棋トーナメントでは1959年、1965年、1968年の合計3回優勝している。

棋風[編集]

  • 歩の使い手であることから「小太刀の名手」と呼ばれた。
  • ひねり飛車を得意戦法とし、「丸田新手9七角」は丸田流ひねり飛車とよばれる。
  • 加藤一二三は、丸田は棋理に明るく、作戦巧者だと評している
  • 先崎学は、丸田の中盤戦における発想が柔軟で、駒がぶつかった瞬間にさっと身を翻すような手を指す、と評している
  • 1961年(昭和36年)度の名人戦(大山康晴名人に挑戦して1勝4敗で敗退)の第4局(丸田が勝利)について、記録係を務めた河口俊彦は、序盤・中盤・終盤と完璧な指し回しであり、丸田の強さに瞠目した、と評している
  • 投げっぷりがよいので有名であるが、ここ一番のときは粘り強かった。

人物[編集]

  • 1969年5月-1973年5月に将棋連盟会長に就任した。
  • 1981年に藍綬褒章、1995年に勲四等旭日小綬章。
  • 加藤一二三は、理事・会長としての丸田は公平無私の人柄で大きな支持を得ていた、と評している。
  • 河口俊彦は、丸田が官庁に入っていれば、必ずや幹部に昇進しただろう、と評している。
  • 事務処理能力が高く、棋士の報酬(給与、対局料など)体系を作り、また順位戦制度の整備をして現在の形にしたとされる。順位戦の所属リーグと連動して基本給が決まり、段位・タイトル・年功などの実績による上乗せ、休場や成績不振による報酬減少の緩和などを加味して実際の報酬額が決まった。報酬体系は非常に複雑で、完全に理解していた者は丸田の他に一人しかいなかったという
  • 酒は苦手な下戸だった。
  • 1952年(昭和27年度)の第1期王将戦第6局で起きた陣屋事件の時、丸田祐三は副立会人だった。陣屋の近くの旅館にいた升田幸三の所に、王将戦の主催社である毎日新聞の記者と丸田が赴いたが、そこで何があったのかは不明。河口俊彦は、この対局が中止になったこと、連盟がいったんは升田に一年間の対局停止処分を科したことは、丸田の意向によるものだろう、と述べている。
  • 浅草育ちのため「おっ、うまいこと言うねえ」、「と、こうきたね」など、粋な江戸っ子言葉を話す。
  • 写真家丸田祥三の父。息子の話をすると機嫌がよかった。
  • 丸田八段は口の堅さに定評があり、仲間から信頼されていたといわれる。

門下生[編集]

門下生には松浦隆一七段、武市三郎六段。

出典[編集]

  1. 河口俊彦『最後の握手』 株式会社マイナビ,ISBN:978-4-8399-4999,2013年。
  2. 戦争を経験した昭和の名棋士・丸田祐三九段NHK,2013-08-15