足利事件

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足利事件(あしかがじけん)とは、1990年5月12日に、栃木県足利市内のパチンコ店の駐車場から女児(4歳)が行方不明になり、翌朝、近くの渡良瀬川河川敷で遺体となって発見された事件。

2009年5月の再鑑定により、犯人とされ服役していた菅家利和のDNAと、遺留物のDNAが一致しない事が判明した。

概要、経過[編集]

事件発覚から逮捕まで[編集]

1990年5月12日
父親が足利市内のパチンコ店でパチンコに熱中している間に、同店駐車場から女児(4歳)が行方不明になる。
5月13日
女児の遺体を、渡良瀬川の河川敷で発見。
1991年12月2日
同市内に住むスクールバス運転手・菅家利和(当時45歳)を、猥褻目的誘拐殺人の容疑で逮捕。
逮捕の決め手は、「女児の下着に付着していた体液DNA型と、菅家のDNA型が一致した」こと。

取調べ、裁判[編集]

菅家は、警察や検察の取り調べ時に犯行を一旦は自白した。しかし、第一審の途中から否認に転じ、無罪を主張した。

当時、DNA鑑定警察庁科学警察研究所に導入されたばかりであり、弁護側は「信頼性に疑問がある」としていた。しかし、最高裁2000年7月17日に「DNA型鑑定の証拠能力を認める」初判断を示し、第一審の無期懲役判決が確定。菅家は千葉刑務所服役した。

DNA再鑑定[編集]

2008年1月
日本テレビが、ニュース特集で足利事件の問題点を報道。自供の矛盾点やDNA鑑定の問題点などを指摘し、DNA再鑑定の必要性を訴えた。その後も継続して放送を行う。
10月
東京高裁は、DNA鑑定を行うことを決定(逮捕から17年目に当たる)。
2009年2月
検察側と弁護側の両者が推薦した弁護人2名が、DNA再鑑定を開始。
5月
再鑑定の結果、菅家のDNA型と女児の下着に付着した体液の型が一致しなかった。
真犯人のDNA型が判明したが、従来に言われていた型ではなかった。[1][2]
  • 事件は時効が成立。
6月
服役中の菅家を釈放。記者会見で菅家は「検察と栃木県警に謝罪してほしい」と涙ながらに語った[3]
栃木県警元幹部は事件の捜査について妥当だったと語り、さらに足利事件を思い出したくないと語った[4]

参考文献[編集]

  • 小林篤『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか?』草思社、2001年1月、ISBN 978-4794210234
  • 佐久間哲『魔力DNA鑑定 足利市幼女誘拐殺人事件』三一書房、1998年9月、ISBN 978-4380983009
  • 日本テレビ報道局『ACTION日本崩壊 五つの難問を徹底追跡する』新潮社、2008年12月、ISBN 978-4103133315

脚注[編集]

  1. 「足利事件:再鑑定の結果「DNA不一致」…東京高裁に提出」毎日jp(毎日新聞社)2009年5月8日
  2. 第2章スタートACTIONコラム(日本テレビ)2009年5月26日。その他、「北関東連続幼女誘拐・殺人事件」など。
  3. 「警察と検察に謝って欲しい」菅家さん、支援者への手紙で : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
  4. 【足利事件】「捜査は妥当だった」「思い出したくない」 栃木県警元幹部ら - MSN産経ニュース

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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