天野浩

提供: Yourpedia
2015年4月5日 (日) 13:59時点におけるFromm (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「天野浩教授の娘 '''天野 浩'''(あまの ひろし、1960年9月11日 - )は、日本の[[工学者|電子工学...」)

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索
天野浩教授の娘

天野 浩(あまの ひろし、1960年9月11日 - )は、日本の電子工学者工学博士名古屋大学)。専門は、半導体工学名古屋大学大学院工学研究科教授、同大学赤﨑記念研究センター長、名城大学LED共同研究センター運営委員。

赤崎勇と共に、世界初の青色発光ダイオード(青色LED)の開発に成功した。2014年、左記の業績により、赤崎勇、中村修二とともにノーベル物理学賞を受賞。

人物・来歴

静岡県浜松市スズキ技術者の子として生まれる。静岡県立浜松西高等学校首席卒業を経て、名古屋大学大学院工学研究科修士課程修了後、就職を考えていたが、大学4年から指導を受けていた指導教官の赤崎勇教授から「何でもこなせる学生」であると高く評価され、強い勧めを受けて博士課程に進学。1989年名古屋大学 工学博士。論文の題は「GaNのMOVPE成長と光電物性及び青色発光素子への応用に関する研究」。 名古屋大学工学部助手を経て、1992年から、赤崎研究室が名城大学に移ったことに伴い、退官し、名城大学理工学部講師に着任。名城大学理工学部教授を経て、2010年から名古屋大学大学院工学研究科教授。研究熱心であることで知られ、大学の研究室は、平日、休日、正月など、常に夜遅くまで明かりが灯っており「不夜城」と呼ばれた。

小学校ではサッカーソフトボールに、小学校高学年から中学にかけてはアマチュア無線に熱中。ソフトボールではキャッチャーを、サッカーではゴールキーパーを務めた。中学校までは勉強が嫌いだったが、数学は得意だった。高校入学直後のテストで学年10位となるなど、高校からは勉強や研究の目的は人の役に立つことであると考えから、勉強に真剣に取り組むようになり、毎日夜遅くまで机に向かっていたという。高校受験時に、学区内トップの静岡県立浜松北高等学校(旧制浜松一中)ではなく、学区内ナンバー2の静岡県立浜松西高等学校(旧制浜松二中)にしたり、大学受験時には、大学共通第1次学力試験の結果が予想を下回ったため、志望校を京都大学工学部から1ランク落とし名古屋大学工学部に変更するなど、「何でも1ランク落として安全圏を歩く。」と母からは評される。また、楽観的かつ温厚な性格で、研究室の学生によると、怒っているのを見たことがないという。

年譜

  • 1960年 静岡県浜松市出身
  • 1973年 浜松市立広沢小学校卒業
  • 1976年 浜松市立蜆塚中学校卒業
  • 1979年 静岡県立浜松西高等学校卒業(首席・卒業生総代)
  • 1983年 名古屋大学工学部電子工学科卒業
  • 1985年 名古屋大学大学院工学研究科電気工学・電気工学第二および電子工学専攻士前期課程修了
  • 1988年 名古屋大学大学院工学研究科電気工学・電気工学第二および電子工学専攻博士後期課程単位取得満期退学
  • 1988年 名古屋大学工学部電子工学科助手(文部教官)
  • 1989年 名古屋大学から工学博士の学位を取得(課程博士)
  • 1992年 退官、名城大学理工学部講師
  • 1998年 名城大学理工学部助教授
  • 2002年 名城大学理工学部教授
  • 2010年 名古屋大学大学院工学研究科電子情報システム専攻電子工学分野半導体工学講座教授、名城大学LED共同研究センター運営委員
  • 2011年 名古屋大学大学院工学研究科赤﨑記念研究センター長、名古屋大学工学研究科附属プラズマナノ工学研究センター運営委員

家族

栄典・受賞歴

  • 1991年 電気学会論文発表賞
  • 1994年 オプトエレクトロニクス会議特別賞
  • 1996年 米国IEEE/LEOS エンジニアリングアチーブメント賞
  • 1998年 応用物理学会賞C(会誌賞)
  • 1998年 英国ランク賞
  • 2001年 丸文学術賞
  • 2002年 武田賞
  • 2003年 SSDM Award
  • 2008年 日本結晶成長学会論文賞
  • 2009年 応用物理学会フェロー
  • 2014年 ノーベル物理学賞
  • 2014年 文化勲章文化功労者
  • 2015年 浜松市名誉市民(予定)

外部リンク

テンプレート:ノーベル物理学賞受賞者 (2001年-2025年) テンプレート:日本人のノーベル賞受賞者