北条氏直

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北条 氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名相模戦国大名小田原城主。後北条氏の第5代当主である。父は北条氏政、母は武田信玄の娘黄梅院。父と共に後北条氏の最大版図を築き上げたが、豊臣秀吉による小田原征伐で、後北条氏の関東支配は終焉を迎えてしまう。

生涯

家督相続

後北条氏は氏直の祖父・北条氏康の時代に甲斐武田氏駿河今川氏甲相駿三国同盟を締結していたが、父の氏政はその一角である甲相同盟において武田信玄の娘黄梅院を正室としており、氏直は永禄5年(1562年)に氏政の次男として小田原城で生まれる(兄の新九郎は早世)。幼名国王丸仮名は新九郎。武田義信武田勝頼の甥にあたる(義信は母黄梅院の兄で、勝頼はその弟にあたる)。

永禄11年(1568年)末には武田・今川間の関係悪化により武田氏の駿河今川領国への侵攻が行われ(駿河侵攻)、氏直は没落した今川当主・今川氏真(叔母の早川殿は氏真の正室だった)の猶子として家督を相続し、将来の駿河領有権を得たという(但し、駿河は武田領国化されたため現実のものとはならなかった)。元亀2年(1571年)には祖父が亡くなり父が当主となり、武田との甲相同盟が回復する。

天正5年(1577年)3月に元服し、古河公方足利義氏にはじめて書状を送った。11月に上総初陣した。この戦は氏政・氏直が優勢に戦いをすすめたとみられ、安房里見義弘と和睦し、氏政の娘が里見義頼に嫁ぐことで北条氏と里見氏は年来の敵対関係から同盟関係に入った(房相一和)。

天正8年(1580年)8月19日、父の隠居により家督を継いで北条家の第5代当主となる(『戦国遺文』後北条氏編 - 2197号)。これは氏政出陣中に隠居を行った異例のもので、後北条氏は天正6年(1578年)の越後上杉氏における御館の乱甲越同盟の締結を契機に再び甲斐武田氏と敵対関係に入り、尾張織田信長と同盟を結び、氏直と信長の娘の婚姻を達成してさらに同盟を強固なものとして勝頼との戦いを有利に運ぶためであったといわれ、実権はなおも父が握っていた。

武田氏遺領争い

天正9年(1581年)、叔父・武田勝頼と三島で戦ったが、決着はつかずに終わった。翌天正10年(1582年)3月、信長の侵攻で勝頼などが討死して武田氏が滅亡し(甲州征伐)、甲斐の遺領は信長の家臣河尻秀隆信濃の一部と上野の西部は滝川一益に与えられ、一益は関東管領を自称した。

しかし6月に信長が本能寺の変横死し、甲斐の河尻秀隆が土豪一揆に殺害され、同国が無主の国となると、氏直は叔父の北条氏邦らと共に4万3千を称する大軍をもって上野侵攻を開始し、6月16日には倉賀野表(群馬県高崎市)に進出する。本庄に本営を置き、富田、石神に布陣、18日には金窪城で滝川軍と北条軍は激突し、初戦では氏邦が率いる先鋒が敗退したが、19日神流川の戦いで氏直本軍が一益軍に勝利した。そして敗走する一益を追って上野から信濃に侵攻し、佐久小県郡を支配下におさめ、諏訪へ進軍し諏訪頼忠を味方に付けた。更に木曾義昌(叔母・真竜院の夫)とも連絡を取り信濃の中央部を制した。

8月には甲斐に侵攻してきた徳川家康軍と甲斐若神子において対陣した。「甲斐は祖父(武田信玄)の旧領国」ということで領有を強く望む氏直と、徳川軍との対陣は80日間に及んだ(天正壬午の乱)が、一益敗退後に北条に帰参していた真田昌幸や木曾義昌が離反し、家康方の依田信蕃がゲリラ活動を行い北条軍の補給路を脅かし、別働隊の北条氏忠北条氏勝が甲斐黒駒において徳川方の鳥居元忠らに敗退すると戦線は膠着した。その後、織田信雄信孝兄弟の調停もあり、10月27日、上野は氏直、甲斐・信濃は家康が領有し、家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立する。そしてこの結果として、天正11年(1583年8月15日、家康の娘・督姫が氏直に嫁いだ。

小田原合戦から最期

家康と同盟を結んだ後、氏直は下野常陸方面に侵攻して勢力を拡大し、佐竹義重結城晴朝太田資正らを圧迫した。しかし中央で信長の死後、その重臣だった豊臣秀吉が台頭し、関東惣無事令が発令されて私戦が禁止されたため、氏直は秀吉との戦いを意識して天正15年(1587年)から軍備増強に務めた。一方で秀吉の実力も認識していたようであり、天正16年(1588年)春には家康の仲介も受けて、8月に叔父の北条氏規を上洛させて秀吉との交渉に臨んだ。

なお、父や叔父の北条氏照ら強硬派が氏直・氏規ら穏健派と対立したとされているが、上野沼田城受取り後の氏政は上洛に前向きであることが各種書状で明らかとなっているため、氏政が強硬派とは一概に決めつけることはできない。また、氏規が上洛した直後に氏政が政務に一切口出しをしなくなったことが確認される。

しかし天正17年(1589年)の秀吉の沼田裁定による沼田城受取後に、猪俣邦憲による真田昌幸の支城・名胡桃城奪取事件が起きて、これが惣無事令違反であるとして、秀吉との関係は事実上破綻した。このことについて、氏直は名胡桃城は北条が乗っ取ったのではなく、既に真田に返還していることと、この件について真田方の名胡桃城主と思われる中山の書付を進上するので真理を究明してほしい旨を、秀吉側近の津田信勝富田知信に対して弁明するとともに、家康に対しても同様に執り成しを依頼した。ところが家康は秀吉から小田原征伐に関する軍議に出席するよう求められたため、既に上洛しており、家康への依頼が実を結ぶことはなかった。

天正18年(1590年)から秀吉による小田原征伐が始まった。氏直はこれに対して領国内に動員令をかけるとともに、小田原城をはじめとする各支城を修築し、さらに野戦の場合を想定して、3月に箱根の屏風山等の陣場を巡検した。しかし山中城落城により結局小田原城で籠城することになる。籠城は4月から3カ月に及んだが、秀吉の大軍による小田原城の完全包囲、水軍による封鎖、支城の陥落などに加え、重臣・松田憲秀の庶子・笠原政晴が秀吉に内応しようとした(氏直が事前に政晴を成敗した)ことなどから、7月1日には和議を結ぶことを決意し、5日に秀吉方の武将・滝川雄利の陣所へ赴いて、氏直自身が切腹することにより将兵の助命を請い、秀吉に降伏した。

しかしながら秀吉は氏直の申出について感じ入り神妙とし、家康の婿であったこともあり助命された。他方、氏政・氏照及び宿老の大道寺政繁・松田憲秀は切腹を命じられ、11日に氏政・氏照が切腹。12日に氏直は紀伊高野山へ登ることに決まり、21日氏房直重直定・氏規・氏忠・氏光等の一門及び松田直秀山角直繁遠山直吉山上久忠等の家臣を伴って小田原を出立し、8月12日に高野山に到着した。その後、高室院にて謹慎生活を送った。以後「見性斎」と称す。

天正19年(1591年)1月から氏直は赦免活動を開始し、2月には秀吉から家康に赦免が通知される。5月上旬には大坂で旧織田信雄邸を与えられ、8月19日には秀吉と対面し正式に赦免と河内及び関東において1万石を与えられ豊臣大名として復活した。さらに小田原に居住していた督姫も27日に大坂に到着し、家臣への知行宛行、謹慎中の借財整理をおこなっていたが、11月4日に大坂で病死した。多門院日記によると死因は疱瘡と記述されている。享年30。氏直の死後、従弟で氏規の嫡子である氏盛が氏直の名跡と遺領の内4,000石を相続し、慶長3年(1598年)に氏規の跡を継いで1万1千石の大名となり、北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続した。

氏直には娘が2人いたが、長女は夭折、次女は池田利隆の許婚となったが慶長7年(1602年)に17歳で病死している。

人物・逸話

  • 生存していれば翌年には秀吉より伯耆一国を与えられ、国持大名としても復活が予定されていたと軍記物に記載があるが、裏付ける史料等はない。
  • 北条記』では、「五世の氏直君はずいぶん判断力にも富んでいたが、惜しいかな虚弱な体質であったため、余りみずからで動けなかったために、ついにその家を失うこととなった」との記述に有るように、決して愚鈍、暗愚などでなく、有能であった事がわかる。つまり、虚弱な体質でさえなければ氏直は中々の大器になったであろう事が窺い知れる。氏直残念。惜しい。
  • 現在のところ、氏直発行の文書は家督相続以前の物も含めて264通が確認されているが、何故か「北条」を名乗った文書は1通も存在していない(左京大夫氏直、見性斎氏直などと署名している)。
  • 氏直は秀吉の使者として小田原城開城の説得にあたった黒田孝高に感心したとされ、家宝の刀剣、北条白貝などを贈っている。

墓所

ファイル:Late Hōjō Clan's Graves.jpg
早雲寺の北条五代の墓。左端が氏直の墓。

神奈川県箱根町の金湯山早雲寺

現在の早雲寺境内に残る氏直を含めた北条5代の墓所は、江戸時代寛文12年(1672年)に、北条氏規の子孫で狭山藩北条家5代当主の氏治が、北条早雲の命日に当たる8月15日に建立した供養塔である。

氏直の本来の墓所として、広島市西区草津町の海蔵寺に墓が現存しているが、真偽の程は定かでない[1]

偏諱を与えた人物

脚注

  1. 西国街道を行く 己斐~草津(墓所の画像あり)
  2. こちら より

参考文献


テンプレート:後北条氏歴代当主