仙山トンネル
仙山トンネル(せんざんトンネル)は、東日本旅客鉄道仙山線の奥新川駅 - 面白山高原駅間にある、同線で最長のトンネル。宮城県仙台市太白区と山形県山形市の境となっている。一般に面白山トンネル(おもしろやまトンネル)ともいわれている。全長は5,361mあり、標高は約440m。1937年(昭和12年)に貫通した。
概要[編集]
本トンネルのルート選定に当っては、奥羽山脈横断に適した地形を選ぶ必要があり、南部の笹谷峠や、北部の関山峠を通り奥羽本線の神町駅へと結ぶ「仙神線」(山形地域の反発があり実現しなかった)も候補であった。開通当時は上越線の清水トンネル、東海道本線の丹那トンネルに次ぎ、日本で第3位の長さを誇った。
勾配は東(仙台)からが1000分の3、西(山形)から1000分の5の上り坂で、トンネル内に最高点を持つ[1]。
トンネル内および山間部は開通当初からこの区間を含む作並駅 - 山寺駅間のみ電化された。当初は直流電化であったが、1955年(昭和30年)に陸前落合駅 - 熊ヶ根駅間を日本初の交流電化とし、各種の試験が実施された後、1968年(昭和43年)に直流電化であった作並駅 - 山形駅も交流電化に変更され、全線が交流電化となった。通過電車の最高速度は85km/hに設定。電車では約4分で通過出来る。トンネル内の山形県側に近いエリアに面白山信号場が設けられており、トンネル内で列車交換をする場合もある。トンネルの前後は険しい谷間で、どちらの入口付近もカーブ及び急坂で、ギリギリ上れる地点まで高度を稼いでいるのが特徴である。
工事[編集]
工事は鉄道省が直轄し、はじめ東は盛岡建設事務所、西は秋田建設事務所で分担したが、1935年(昭和10年)5月1日から秋田建設事務所に一本化した。掘削は東では1935年(昭和10年)3月18日、西からは4月1日に始まり、翌年9月8日に貫通した[2]。これは当時の土木技術では異例とも言える速度で、完成は1937年(昭和12年)12月8日であった。約50万人の作業員が掘削に従事し、1日当りの作業量は5mであったという。
この工事では様々な事故で6名の作業員が亡くなった。原因は、不発ダイナマイトの爆発、倉庫内の資材の崩落、除雪中の雪の崩落(2名)、電車と柱の間に挟まれたため、電車とホームの間にはさまれたため、である。工事後の1937年(昭和12年)12月25日に殉職碑がトンネルの東出口に建てられた[3]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 宮城町誌編纂委員会『宮城町誌』本編、宮城町役場、1969年。
外部リンク[編集]
このページはウィキペディア日本語版のコンテンツ・仙山トンネルを利用して作成されています。変更履歴はこちらです。 |