東京・三鷹バス痴漢冤罪事件
東京・三鷹バス痴漢冤罪事件とは、バス車載カメラで痴漢不可能な状態が確認されたにもかかわらず、倉澤千巖裁判官が女の言い分のみを丸呑みし有罪判決を出した事件である。2014年7月15日の第二審で逆転無罪が言い渡された。
事件の概要
2011年12月22日、JR吉祥寺駅から京王線仙川駅にむかうバスの車内で「スカートの上からお尻をなでた」として津山正義さん(公立中学校教諭、起訴休職中)が逮捕された。
津山さんは、吉祥寺で同僚たちと懇親会で飲食した後、学校に置き忘れた財布を取りに駅前の停留所から仙川行きのバスに乗った。津山さんは、脱着がしやすいよう肩ひもを伸ばしたリュックサックをお腹側にかけて乗車していた。
吉祥寺から八つ目の停留所の手前で、前にいた女子高生がこちらをにらんで何かつぶやいたので、津山さんは「何か気にさわるようなことがあったのか」と思い、トラブルを回避するつもりで「ごめん、ごめん」と言った。
すると女子高生は津山さんの手を掴んで「降りましょう」と言うので「勤務校へ向かうバスで騒ぎはいやだ」と思い、一緒に降車した。
降りた停留所で、痴漢をしてないことをはっきり言って、その場を立ち去ったところ、一台後から来たバスの運転手と若い男が無駄な正義感を振りかざしながら追いかけてきて、津山さんは「痴漢冤罪の犯人」として取り押さえられた。
この事件で、女子高生は痴漢行為を見たわけでも、痴漢をしている手をつかまえたわけでもなかった。女子高生の「さわられた」という供述があるだけで、これを補完する目撃証言など客観的な証拠は存在しない。
逆に、逮捕後に行われた「微物鑑定」では津山さんの手から女子高生のスカートの繊維はまったく検出されなかった。スカートの繊維はウール100%で壊れやすく、さわれば必ず繊維が手に付着する。実際、弁護団の実験では何回実施しても、スカートをさわれば必ず手から繊維片が検出されている。
また、津山さんは車内で携帯メールを作成・送信し、その直後、女子高生と一緒にバスを降りている。検察側は降車前の時間帯に特に執拗な痴漢行為があったとしているが、バスの車載カメラの映像ではこの時間帯の津山さんは「左手でつり革、右手でメール」の状態で痴漢はまったく不可能である。
映像では乗車時、リュックサックを左肩だけにかけていた津山さんの姿が確認できる。これが女子高生の臀部に接触することは同じ身長の人を相手にした再現実験でも明らかである。事件の真相は、リュックが女子高生の体にあたり「痴漢」とカン違いさせたことが原因である。
2013年5月8日、東京地裁立川支部は「女子高生」の供述を鵜呑みにし、「左手でつり革、右手でメール」の映像については、左手が隠れた短時間をとらえて「犯行が不可能とはいえない」などとして、無理やり辻褄を合わせた事実認定をおこない、津山さんに罰金40万円の不当判決を下した。津山さんと弁護団はただちに控訴し、現在東京高裁でたたかっている。無罪にすれば弾劾裁判で罷免されることを恐れる公平性や「疑わしきは被告人の利益に」という理念を全く理解してない裁判官が金と名誉のためによくやる最悪の事例が見事に証明された裁判となった。
2014年7月15日、東京高裁は女子高生の勘違いと判断。地裁判決を破棄し無罪を言い渡した。
司法過誤が若者の未来を奪う!―三鷹バス痴漢冤罪事件
手をひらいても証拠は出ず、防犯カメラでもそれに該当する行為は映っていない。もちろん、つかまった本人も強く容疑を否認している。あるのは被害を訴える人間の勘に頼った(あいまいな)“証言”だけ。こんなことで“犯人”にされてはたまらないが、これが、〈三鷹バス痴漢冤罪事件〉と呼ばれる事件だ。
(1)中学校教諭津山正義さん(当時27歳)は、2011年12月22日、バス車内で前に立つ女子高校生の臀部をさわったとして、迷惑防止条例違反(痴漢行為)で逮捕される。
(2)バスの車載カメラによれば、津山さんは左手でつり革を持ち、右手では携帯電話のメールを打っていた。体の前には、左肩からかけていたリュックサックがあった。
(3)逮捕当日に警察でおこなった手のひらの微物鑑定(スカートの繊維片などの鑑定)では、一切繊維片は検出されなかった。
ところが東京地裁立川支部の倉澤千巖裁判官は次のように判決で書き、津山さんに「罰金40万円」の有罪を言い渡したのである。
「しかしながら、着衣の上から触るという痴漢行為の態様であっても、その手指に、後に検出されるほどの着衣が付着しないこともあり得るのであって、そのような事実は(中略)、被害者供述の信用性を左右するまでの事情とは言えない」
「(前略)そうすると、被告人が、被害者が移動を開始する直前ころに右手で痴漢行為をすることができたのは、3秒程度しかなく、それは不可能と言うに近い。しかし、被告の左手の状況を見ると、33分52秒ころから34分12秒ころまでの間、被告人の左手が吊り革を掴んでいることは車載カメラの映像によって確認できるものの、それ以外の時間帯の被告人の左手の状況は不明である。この点、被告人はバスが揺れていたので、右手で携帯電話を操作している間、左手で吊り革を掴んでいた旨を供述する。確かに、バスが揺れている状況下で、右手で携帯電話を操作しながら、左手で痴漢行為をすることは容易ではないけれども、それが不可能とか著しく困難とまでは言えない」
5月8日に出た東京地裁立川支部判決について、6月26日、都内で「三鷹バス痴漢冤罪事件・東京高裁で勝利をめざすつどい」と題した集会が開かれ、雨が降りしきる中、120名もの人たちが集まった。会場では、津山正義さんや代理人弁護士、それに類似事件の当事者らが登壇し、本事件の高裁での勝利に向け、それぞれ意見を述べた。
まずは、今村核弁護士――。「本件は、右手に携帯を持ち、左手はつり革につかまり、津山さんの腹の部分にリュックがあり、そのリュックがぶつかったに過ぎないのです。ところが、判決の言うことは、手が3本無ければできないようなことです。判決は、小学生でもわかるような論理の破綻をきたしています」
「判決は、おしりの感覚はにぶいと言います。だから指2本でさわったか4本でさわったかは正確にはわからないが、手がふれたのかリュックがふれたのかは『接触が1回に限りとどまる場合には、両者を誤解することがありうるとしても、接触が複数回繰り返された場合には、いかに臀部の皮膚感覚が鈍いとしても、両者を勘違いすることはやはり常識的に考え難い』と書いています。では、本当にリュックと手との識別ができるのか、私たちは鑑定書を提出しましたが、裁判所はそれを採用せず却下しています」
「今まで私はいくつかの痴漢事件の弁護をして来ましたが、その中でもこの判決のひどさはワーストワン、とうてい是認できない判決です」
続いて、池末彰郎弁護士も判決のお粗末さに穏やかな口調で怒りをぶつける。「判決は証拠に基づいて下されるべきものです。ところが、5月8日の立川支部での判決は、こちらの提出した証拠に基づかず、まったくひどいものでした」
「たとえば、微物鑑定で手のひらに繊維が1本もついていないということが検察から出されているわけです。それを倉澤裁判官は何と言っているか――あとで検出されるほどの着衣が付着しないこともあり得るのであるのであって、そのことから、被害者の供述の信用性は影響されないというようなことを述べています」
「そして、私たちがその女子高校生の制服と同じ生地を使った実験をして、その結果を2つ出しているにもかかわらず、それを証拠として採用もしないわけです。つまり、裁判官個人の予断と偏見だけで判決を書いているとしか言いようがありません。判決では『尻の感覚はニブイが、指とリュックの違いはわかる』とあるのです、いったいそのことはどこの証拠に基づいて言っているのですかと私は倉澤裁判官に尋ねたいです!」
「いったいそのことはどこの証拠に基づいて言っているのか?」――池末弁護士のこの問いを、誰もが倉澤裁判官の書く判決文のかなりの箇所に発したくなるはずだ。
「バスが揺れている状況下で、右手で携帯電話を操作しながら、左手で痴漢行為をすることは容易ではないけれども、それが不可能とか著しく困難とまではいえない」――コウ判決デ書ク倉澤裁判官、コレハ、アナタノ経験則デスカァ???
会場では、同じように痴漢事件で争っている I さん(男性)からの体験談に会場からは失笑が漏れた。I さんのケースは、埼京線車内でのできごとだというが、警察での取り調べで、I さんはこう言われる――〈あなたがやっていないと言うなら、その証拠を出してくれ!〉
これは、立証責任をすり替えるある種の詭弁で、世の中の殺人事件でも何でも、疑われる側に立証責任を押しつけたら、誰もが簡単に“真犯人”になってしまう、会場での笑いは、そういうことを取り調べ室で警察官が言うことへの失笑であった。
さらに、I さんの次の発言には大きな拍手も起きた――「やっていないなら、その証拠を出してくれと言われて、証拠を出しているにもかかわらず、〈痴漢をした〉とされてしまったのが津山さんではないでしょうか!」
本事件への支援を呼びかける、津山さんの友人。集会では津山さんも登壇し、バスのつり革を再現して当時の状況を具体的に説明した。
今後、審理は東京高裁第4刑事部で審理されるが、1審判決文を通読して強く感じられるのは、倉澤裁判官は、物的証拠には一切注意を払わず、すべて被害者とされる女子高校生の供述に〈おんぶに抱っこ〉で判決文を書いているということだ。
たとえば、次の箇所がそうだ――「被害者の供述の内容を見ても、被害者が痴漢であると感じ、さらにそれを確信した経過に、不自然・不合理な点は見当たらない。被害者供述には、触れられた指の本数等について曖昧な点があるが、それはむしろ、上記の皮膚感覚の鈍さによって説明できることであり、指の本数の識別と痴漢か物の接触かの識別とは次元を異にするから、上記の曖昧な点も、被害者供述の信用性を左右せず、弁護人の主張は採用できない」
まるで、近所のオジイちゃんが、孫にメロメロになって「孫の言うことはすべて正しい」というような論調である。どこかの家庭内ならいざ知らず、職業裁判官が女子高生のことばかり鵜呑みにし、「客観的証拠に基づいて判断する」「疑わしきは被告人の利益に」といった裁判の大原則を忘れるようでは、事態は深刻である。
判決文の中で、倉澤裁判官は、津山さんが「ごめん、ごめん」と謝罪の言葉を発したことを痴漢の根拠の一つとするが、私たちは社会生活の様々な場面で「ごめんなさい」「失礼しました」「すみません」「これは失敬!」などの言葉を口にする。
「立ち去る/逃げる」ことについてもそうだ。いまのご時世で「あなたは痴漢をしましたね。話を聞きますから駅の事務所まで来て下さい」と言われて、言われるがままについていく世の男性がはたしてどれだけいるだろうか。
駅の事務室に行けば警官が待っており、次は「ちょっと警察までお願いします」となり、そこで現行犯逮捕――。
何か言おうとしても「取り調べの時に言ってくれ」となり、そのまま身柄が拘束され家に帰れなくなる。容疑を否認し続ければ10日×2で20日の拘留、その間「認めれば出してやる」式の〈人質司法〉の憂き目に遭う。
つまり身に覚えのないことに「やっていない」と言えば、それだけで拘留が長引き、職を失う可能性も出て来るのだ。だから、「痴漢をしただろう」と詰め寄られて、それに続く〈ゆるやかな身柄の拘束〉にバカ正直に応じるのは極めてリスクが高いことは今や常識ですらある。だから、そのはじめの段階で、関わりを避けるために立ち去るのは、むしろ賢明な選択とも言えるだろう。
この立川支部(倉澤千巖裁判官)の判決は、日本の司法の抱える大きな病巣を浮き彫りにさせている。
ひとつは、最近紙面をにぎわせた〈布川事件〉〈東電OL殺人事件〉あるいは映画『約束』で改めて注目されている〈名張事件〉などだけが冤罪事件ではないという点だ。
語弊を恐れずに言えば、予断と偏見に満ちた裁判官らによって冤罪事件は日常的に起きており、本来は、裁判と何の関わりを持たなくてもよい無実の人たちが、自らの冤罪を晴らすために貴重な人生の何年間かを浪費させられている…というのが記者の実感である。
但し、その日常的に起きている冤罪も、2つのことによって、人々の意識にのぼらないようにされている。ひとつは、そのことを取り上げないマスコミの偏向報道によって。そして、もう一つは、私たち自身の「裁判所は、専門的な法的判断を下すところであり、判決に納得できなかったら控訴すればよい」といった“マインドコントロール”によってである。
医師は患者のいのちを救うのがその責務であるが、時に〈医療過誤〉という形で患者が死に至るケースがある。病院の責任者が会見を開き、ミスを認めて再発防止を約束するというニュース映像は誰しも記憶にあるだろう。
それと同じく、裁判官が〈司法過誤〉を犯した場合、その判断ミスは「控訴」とは別の形で検証されなければいけない。なぜなら――「控訴」で争われるのは、訴えた側・訴えられた側が共通して認めるある事実への〈法的判断〉〈法的解釈〉であるべきだからだ。
今回のように、「証拠に基づいて判決を下す」「疑わしきは被告人の利益に」といった裁判の大原則が無視されて、きわめて独断的に「痴漢行為があった」とするような判決は、医療事故で言えば「患者の取り違え」や「臓器の取り違え」と同じレベルである。このようなあいた口のふさがらないような裁判官の仕事ぶりに対して、訴えられた側(主権者)が、控訴という形でしか汚名を濯ぐ手段が無いというのは、そのこと自体が、私たち主権者への重大な人権侵害である。
現在、最高裁判所の裁判官は、形だけの〈国民審査〉があり実質的には「絵に描いた餅」になり果てている。それ以外の裁判官は〈弾劾裁判〉の制度があるものの、さらにそれは実効的ではなく、個々の裁判官の“非行”を問うすべが主権者である私たちには無い。
過去の〈弾劾裁判〉は、「盗撮裁判官・華井俊樹」などに適用されているが、それは本質を取り違えた運用で、〈弾劾裁判〉は、個々の裁判官の職務について、つまり個々に出した判決の内容についてのものでなければならない。
記者はこの時に「微物鑑定でも繊維片は出なかった」旨を聞き、地裁での判決の結果(=無罪)を予測していたのだが、「罰金40万円/有罪」との判決結果を聞いて耳を疑った。
最後に、いちばん大事なことをひとつ――。津山さんは、6月26日の集会では毅然とした態度で事件について説明し、今後とも「無罪を勝ち取るためにたたかう」とコメントしていた。しかし、逮捕当時は留置場では何もノドを通らず、それでも「体をこわしたら何にもならない」と考えて、「出されたごはんを無理やりお茶で流し込んだ」という。
保釈されたあと1週間は精神的な落ち込みで家から一歩も出られなかったとも聞く。そして、いま現在も、裁判で係争中との理由から、教壇に立つことが許されていない。
つまり、「医療過誤が患者を殺す」ことがあるように、職業意識に欠けた、きわめて無責任でずさんな裁判官の司法過誤が、有意な若者を社会的に抹殺するのである。これは、私たち社会全体にとって大きな損失であり、そのような裁判官を放置しておくことは害毒の垂れ流しに等しい。
現在、最高裁の裁判官は月給(俸給)約150万円(ボーナス別)、東京地裁の裁判官は月額約53万円(8号給)から約120万円(1号給)まで段階がある。ここで改めて考えたいのは、今回のような判決文を書く裁判官に、私たちの税金からそれだけの給与を払う必要があるかということだ。
誰からも自らのおこないを指弾されない限り、今後とも倉澤千巖裁判官はこの手の判決文を乱発するだろう。有意な青年が社会的に抹殺されること、そして、その背景にある人権意識の欠如した不良裁判官が放置されている現状を目にすると、司法制度の抜本的な改善の必要性を感じる。控訴審でようやく本人の冤罪が晴らされるような制度は、どう考えてもおかしい。 そしてこの裁判は世の女性達に対して痴漢冤罪は無知な検察官や裁判官・そして警察官がいる限り上手くいけばサイドビジネスにもなるという間違った認識を植え付けるかもしれない 危険な裁判ともいえるだろう。