哲学

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定義

哲学(てつがく、希:φιλοσοφια=愛知、羅:philosophia、独:Philosophie、仏:philosophie、伊:filosofia、英:philosophy、露:философия、亜:فلسفة)は、前提や問題点の明確化、概念の厳密化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な主題について論じる、学問の一種。また、そのような思考を通じて形成される立場も哲学と呼ばれる(ソクラテスの哲学、など)。

フィロソフィという語

ギリシャ語の「philos」(愛)+「sophia」(知)の結合であり、「知を愛する」という意味が込められた語である。この語はヘラクレイトスヘロドトスによって、形容詞や動詞の形でいくらか使われていたが、名称として確立したのはソクラテスプラトンが用いるようになってから、とされている。また冒頭に示したように、多くの言語でこのギリシャ語の語に音写した語となっている。

歴史的には、19世紀までのヨーロッパにおいては、多くの直接に実用的ではない学問に対して哲学という名称が与えられており、現代の目からすれば学問・科学(ラテン語 scientia)の同義語であったとも言える(たとえばニュートンガリレオも自然科学者ではなく自然哲学者であった)。今日のような狭義の哲学という学問領域が成立したのは、19世紀中頃、哲学者ヴントの新しい学問分類によって学問の総称の地位が哲学から科学に移行してからである。

哲学の主題

学問としての哲学で扱われる主題には真理正義存在時間知識本質同一性理性因果意識自他などといった事柄が含まれる。一般に、哲学の主題は抽象度が高い概念であることが多い。

これらの主題について論じられる事柄としては、定義(「神とは何か」)、性質(「理性は人間にとって生与のものか」)、複数の立場・見解の間の整理(「諸存在の本質はひとつであるとする立場と、諸存在の本質は多様であるとする立場の主な争点は何か」)などがある。そして、頭の中で、言葉なくして思考し、言葉を表出させることである。

過去を振り返る哲学

このような意味での哲学は、より具体的には、とりわけ古代ギリシア、中世のスコラ哲学、ヨーロッパの諸哲学(イギリス経験論、ドイツ観念論など)などをひとつの流れとみて、そこに含まれる主題、著作、哲学者などを特に研究の対象とする学問とされることも多い(哲学一般から区別する場合にはこれを特に西洋哲学と呼ぶことがある)。

また、諸学問の扱う主題について、特にこうした思考を用いて研究する分野は、哲学の名を付して呼ぶことが多い。例えば、歴史についてその定義や性質を論じるものは「歴史哲学」と呼ばれ、言語の定義や性質について論じるものは「言語哲学」と呼ばれる。これらは哲学の一分野であると同時にそれら諸学の一部門でもあると考えられることが多い。

広義の哲学

更に広義には、哲学は、思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みであり、そのような営みの結果形成されたり、選ばれたりした思想、立場、信条を指す。例えば、「子育ての哲学」、「会社経営の哲学」、などと言う場合、このような意味での哲学を指していることが多い。

また、哲学は、個々人が意識的な思索の果てに形成、獲得するものに限定されず、生活習慣、伝統信仰神話伝統芸能や慣用表現、その他の文化的諸要素などと結びついて存在している感受性、価値観世界観などを指す場合もある。つまり、物事の認識・把握の仕方、概念、あるいは発想の仕方のことである(こうしたものは思想と呼ばれることも多い)。このような感受性や世界観は、必ずしも理論体系として言語によって表現されているわけではないが、体系性を備え、ひとつの立場になっていると考えられることがしばしばある。

翻訳語としての「哲学」

なお、日本語「哲學」(希哲の学)という訳語は、明治時代初期に元津和野藩西周 (啓蒙家)(にしあまね)によって作られた日本語の単語である。「philosophy」(ギリシア哲学)の訳として「賢哲を希求する」という意味で最初「希哲學」を当てていたが、最終的に「哲學」に固定した。これはそれまでギリシア語「Φιλοσοφία」の音訳しかなかった西洋世界にもない意訳であり画期的なことであった(ただし、このことにより日本では哲学への誤解が生じた)。なお西周はほかに主觀・客觀・概念・觀念・歸納演繹命題・肯定・否定・理性悟性・現象・藝術(リベラルアーツの訳語)・技術などの西欧語のそれぞれの単語に対応する日本語を創生している。

なお、この日本生まれの熟語は、中国語にも移入された。中国語でも「philosophy」に相当する語は「哲学」である。

特徴

時代や状況によらず、思索により独自に共通の高み(結論の類型)を獲得することは哲学に見られる顕著な特徴である。後世の著作物の中に太古の思索の形跡が見つけられたしても、その著作家が先哲の思索を継承したのか、独自に着想を得てその高みに至ったのかは即断できない。一方で思索は極めて属人的な営みであり、思索家の死や沈黙、著作物の散逸などにより容易に失われる。思索の継承と橋頭堡を打ち立てた先哲に対し敬意を払い続ける態度もまた哲学の顕著な特徴である。現代哲学では哲学が「産業化」してきている。そこでは哲学は個々の思索というよりは集団的な思考の営みという性格が強くなっており、偉大な先哲の議論ではなく同時代の同じ問題関心を有する哲学者の議論に対する論及がもっぱらとなっている。

他の学問と哲学を区別する特徴となるような独自の方法論が哲学にあるかどうかというのはなかなか難しい問題である。すくなくとも近代哲学においては、デカルト以来、たゆみなく懐疑する態度、できるだけ明晰に思考する態度、事物の本質に迫ろうとする態度が哲学を特徴づけてきたといえるだろう。ただ、これだけであれば学問の多くに共通する特徴でもあるし、逆に、理性常識を信頼するタイプの哲学が哲学でないことになってしまう。分析哲学においては概念分析という道具を手にすることで、自然科学とは異なる独自の思考形態が成立したが、これも哲学すべてを特徴づける思考形態であるとは言いがたい。

自然科学との差異

自然科学と哲学は(そもそも19世紀に至るまでは、自然科学を指す言葉として「自然哲学」という言葉が使われていたことからも分かるように)、伝統的には切れ目のないひとまとまりの領域として扱われてきたが、その中においても今から振り返って、「自然科学的」な部分と「哲学的」な部分を区別することができる。そうした「自然科学的」部分は、伝統的に人間の作為を含まない対象(自然)を観察、分類することを主眼としてきた。また近代に至っては、実験という形で積極的に自然に介入することを重視する実験科学が登場し、さらに19世紀以降には、目に見えるものからその背後の秩序を推測してモデル化する、という営みが科学の中心となってきた。一方「哲学的」な部分では、昔も今も、観察や実験が果たす役割は限定的である。例えば、時間について考察する哲学者は、同じ問題を扱う物理学者とは違い、観察や実験の積み重ねによらず結論を導くことがある。また、哲学者は物理学の成果を参照し、それを手がかりに哲学的思索を行うことはあるが、現代において物理学者が(自然)哲学の成果を積極的に参照することは少ないようである(もっとも、物理学の哲学の一分野としての時空論においては、哲学者と物理学者のより密接なコラボレーションが実現している)。

こうした分離や性格の差が生じた理由はいくつか考えられるが、知識の取得法(方法論、データのとり方、理論の当てはめ方、論争の決着のさせ方など)が確立した分野が順次哲学から分離していった結果、哲学はデータのとれないことについて考える領域なのだ、という了解が後から成立してきたという事情はおそらくあるだろう。先の時間の例について言うなら、われわれの主観的経験や、世界を捉えるためのもっとも基本的な形而上学としての時間は、未だに物理学はもちろん心理学でもうまくとらえきることのできない対象であり、そのために哲学的な時間論の対象となるわけである。逆に、主観的経験について客観的なデータをとる手法が確立したなら、現在哲学的時間論の対象となっている問題の少なくとも一部は、哲学を離れて心理学の一分野となるであろう。客観的データになじまないもうひとつの領域が規範の領域、つまり「実際にどうであるか」ではなく「どうあるべきか」を論じる文脈である。これもまた自然科学が不得手とする領域である。

哲学も決して自然科学的知見を無視するわけではないので、自然科学によってもたらされる新たな発見は、しばしば旧来の哲学に重大な脅威を与えてきた。自然科学が自然哲学から分化して以降、哲学者は自然科学者の成果を重視し、両者の親和性を失わないよう不断の努力を行ってきた。また一方で、科学者たち自身が扱わないような非常に基礎的な問題(科学方法論の原理論や科学的実在論といった問題)については、むしろ哲学者が率先して考察を行ってきた(科学哲学の項参照)。あるいは、科学が他の姿をとりうる論理的・現実的可能性を論じることで、一度は忘れられた仮説を再発掘する原動力となったり、新しい科学理論の形を呈示したりする場合もある。歴史的に有名な事例としては、すべての力が引力と斥力の二つに集約されるというドイツ観念論のテーゼが、電力と磁力の統合というエルステッドの発見に結びついたといった例がある。

なお、近年の英米哲学では、自然主義という名のもとに、哲学を自然科学の一部とする動きがたかまっている。その観点からは、自然科学と哲学を対立させる本項の記述も批判されることになるであろう。

論理学との差異

伝統的に、論理学は哲学の一分野として研究されてきた(ただし近年では数学基礎論コンピュータサイエンスとの学際化が進展しており、哲学の一分野とは言いにくい状態になりつつある)。 論理学は伝統的にわれわれの推論のパターンを抽出することを目的としてきた。特に伝統的な論理学においては、前提が正しければ確実に正しい結論を導くことができる手法としての三段論法が主な研究の対象であった。 推論の厳密さを重視する哲学においては、論理学は主要な研究の対象であり、政治や弁論術、宗教、数学や科学の諸分野において論理学は重要な研究の対象であり続けた。古代の哲学者たちはしばしば現代でいう論理学者や数学者を兼ねていた。論理学の直接の関心は推論の妥当性や無矛盾性にあり、かならずしも人間や社会や自然の諸事象が考察の焦点にならない(この点で論理学は哲学の他の分野とは性格が異なる)。しかし、もし疑いようのない前提から三段論法を用いて人間や社会や自然の諸事象についての結論を導き出すことができるなら、それは非常に強力な結論となりうる。哲学者たちが論理学を重視してきたことは当然といえるだろう。ただし、逆にいえば、三段論法の結論の厳密さはあくまで前提の正しさに依拠するものであり、前提がとんでもないものであれば結論もとんでもないものが出てしまう。たとえば「すべてのカラスは黒い。この鳥は黒くない、したがってこの鳥はカラスではない」といった推論では、最初の前提がまちがいで本当は白いカラスもいるような場合、結局あやまった結論にたどりついてしまう。 また、哲学的論理学においては、しばしば推論規則そのものの哲学的な正当性が問題となってきた。古典論理については排中律の是非が問題となってきたし、帰納論理については、そもそも帰納論理なるものが成立するのかどうか自体が問題となった。こうした検討は認識論や科学哲学といった他の分野にも大きな影響を与えてきた。

人文科学との関係

また、一部の哲学は、理知的な学問以外の領域とも深く関わっている点に特徴がある。ソクラテス以前の古代ギリシャ哲学はと分かちがたく結びついていたこと、スコラ哲学仏教哲学のように、信仰・世界観・生活の具体的な指針と結びついて離れない例があること、などが指摘できる。理性によって物事を問いながらも、言葉を用いつつ、人々の心に響く考えやアイディアを探すという点では、文学などの言語芸術や一部の宗教と通じる部分が多い。哲学者の名言が多いのは、そのためでもある。日本では主に文学部の中の「哲学科」で哲学を学ぶが、欧米には「哲学部」という学部が存在する。

哲学への批判

哲学は、「諸学を統べる究極の学である」すなわち「万学の王」とされた時代も過去にはあり、その時代には、特にその伝統が培われた西洋の諸学問の中では、極めて重要な位置を占めていた。

だが、現代では、「哲学はむしろ根本的な欠陥を抱えている」、「非生産的で無価値な学問分野である」、などとして、しばしば厳しい批判にも晒されている。学問分野として全面的な否定や揶揄の対象にされることが多い点も、哲学ならではの特徴といえる。

ちなみに、この批判の中には、哲学者とされる者によって展開されるものも含まれ、そのような批判が一つの哲学的立場になっている場合もある。

実証性を伴わず、概念的な整理や体系化などに活動が集中していること、抽象的な思索であるために現場や実践と結びつきにくいこと、などから哲学の価値に疑問を呈する見方があるため、哲学という学問分野に関わる人間には、その真の価値を成就する為にも哲学の単なる客体としての研究や、過度に抽象的な思索・議論に留まらず、哲学する事、即ち、哲学を自ら実践する事が求められるところである。

それと関連して、抽象的な概念を巡る定義や論争などは、証拠によって決着を着けたり、万人が合意するような立場に辿りつける可能性が薄く(あるいはそのような可能性が皆無で)、結論が出ないままに延々と議論だけが続く、非生産的な学問であるとの見方もある。神の存在証明を巡る中世のスコラ哲学などは、その典型であったといえよう(もっとも、証明方法の洗練によって、論理学の発展にはかなり貢献した)。

また、大学の哲学教員など現代の職業哲学者の従事する学問としての哲学は、理性と言語による思考に特化しており、必ずしも詩や宗教などと密接に結びついているわけではない。これに関して、理性や言語による思考には限界や欠陥があり、人間の豊かな感性、感情を見落としがちであり、哲学は学問分野としてそのような本質的限界、欠陥を抱え込んだ分野である、と批判されることもある。

また、理性や言語を重んじる価値観は、近代以降の西洋の諸文化に特徴的なものであると見做して攻撃する立場もある。既存の哲学が「西洋哲学」中心であることや、習慣などに埋め込まれて存在していて言語化されたり、理性的な吟味の対象にならない思想を哲学の一種として扱わない傾向にあることなどを、そのような価値観の表れと考え、問題視する立場もある。 1990年代半ばより、現代思想の哲学者並びに思想家が、数学物理学などの自然科学の理論や用語を、その意味を理解しないままに模倣したり、読者を煙に巻いたりしていることへの批判が起こった。哲学者のこうした欺瞞を批判した最も著名な例としてソーカル事件がある。彼らの論文に用いた数学らしき記号の羅列は、数学者でなくとも自然科学の高等教育を受けた者なら、それが出鱈目であることはすぐに見抜けるお粗末なものだったのである。

日本の哲学への批判

自然科学以外の日本の学問は、単なる翻訳ものと揶揄されることもいささかあるが、そのもっとも顕著な分野が哲学であるといえる。日本においては、真に独創的な哲学者・思想家は意図的に無視あるいは軽視される傾向が強く、単に哲学知識を持つだけの学者を哲学者と定義する傾向にあるのが事実である。原因の一つは、明治初期に西洋哲学が導入されたとき、西洋哲学の思想があまりにも詰屈な漢熟語で翻訳されてしまったためであるといえる。先述のように、「哲学」という用語そのものがその代表例であった。ドイツにおいては、それらは伝統や日常によって裏付けされたものだったが、日本における哲学は、多くの人の日常から懸け離れたものとなってしまう。その傾向は、ドイツ観念論に対する漢熟語から外来語をそのまま使う英米流の分析哲学フランス現代思想が主流となった現代でもあまり変わらない。資質として真に哲学的な性向をもつものの中には、こういった知識のみの人たちを揶揄して、「哲学輸入業者」・「哲学学者」などと呼ぶことがある。むろん、中には偉大な哲学者も幾人もおり、独自の思想を展開していった西田幾多郎大森荘蔵井筒俊彦廣松渉などは、その例であるといえる。

哲学と女性

欧米でも日本でも、女性の哲学者は珍しくはないにしても、圧倒的に少ない(日本哲学会における女性会員の比率は1割に満たない[1])。哲学そのものの男性性や、哲学界の男性優位の風潮、男女の脳の違いなどがその理由としてあげられることもある。

分類と専門分野

哲学は様々な形で細分化される。以下に挙げるのはその内特に広く用いられている分類、専門分野の名称である。

  • 形而上学 存在とは何か、存在の本質などを問うもの
  • 認識論 認識について検討するもの
  • 倫理学 倫理・道徳について検討するもの
  • 美学 美や芸術をめぐる価値判断の方法や、その根拠について検討するもの
  • 哲学史 哲学思想の歴史的な変遷を研究するもの
  • 言語哲学 言語とは何か、言葉の正しい意味の確定や物事の正しい表現はどのように可能なのか、などを検討するもの
  • 自然哲学自然・物質の本質的原理について形而上学的に検討するもの
  • 科学哲学 科学的な研究について検討するもの
  • 物理哲学 空間、時間、物質など物理学で用いる基本概念について検討するもの
  • 論理哲学 論理について検討するもの
  • 心身問題の哲学 人間の意識や心と身体の関係、自由意志の有無などについて検討するもの
  • 宗教哲学 神の存在等、宗教的概念について検討するもの
  • 政治哲学 政治、様々な統治のあり方、政治的正義、政治的自由、自然法、などについて検討するもの
  • 法哲学 法について哲学的に検討するもの
  • 戦争哲学 戦争について考察するもの
  • 歴史哲学 歴史の定義、客観性についての考察、記述方法などを行う。
  • 教育哲学 教育の目的、教育や学習の方法論について検討するもの
  • 生命倫理学 医療行為、環境破壊、死刑など生命にまつわる物事について、その善悪をめぐる判断やその根拠について検討するもの

主な学派や立場

哲学では、しばしば多くの「学派」が語られる。これは、通常、特定の哲学者の集団(師弟関係であったり、交流があったりする場合も少なくない)に特徴的な哲学上の見解、立場である。

大陸合理主義 - イギリス経験論 - 超越論的哲学 - ドイツ観念論 - 生の哲学 - 現象学 - 実存主義 - 解釈学 - 論理実証主義 - 構造主義 - プラグマティズム

特定の学者や学者群に限定されない「立場」についても、多くの概念が存在している。

頻繁に言及されるものに、実在論唯名論要素還元主義相対主義合理主義一元論全体主義独我論懐疑主義、などがある。

関連項目