ケネディ大統領暗殺事件

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暗殺直前のケネディ大統領夫妻。前列がコナリー・テキサス州知事夫妻。

ケネディ大統領暗殺事件(ケネディだいとうりょうあんさつじけん、John F. Kennedy assassination)は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディ1963年11月22日金曜日、現地時間(CST) 12:30 (UTC 18:30) にテキサス州ダラス暗殺された事件である。

事件概要

暗殺事件のタイムライン(現地時間:CST
6月6日 ケネディジョンソンコナリーがテキサス遊説を提案する
9月 テキサス遊説の発表する
9月25日 オズワルドメキシコシティに行く
10月第3週 オズワルドがテキサス教科書倉庫に職を得る
11月21日 自動車パレードのコースを発表する
11月22日
Dallas Morning News紙上にケネディをお尋ね者とする広告が掲載される。大統領・副大統領一行がテキサス州フォートワースで商工会議所主催の朝食会に列席。ケネディ最後の演説を行う。
11:40 ケネディがダラス、ラブ・フィールド空港に到着する
11:50 ダラス・ダウンタウンでパレードを開始する
12:15-20 オズワルドがカフェテリアで目撃される
12:15 武装した男が貯蔵所の西側窓で目撃される
12:16 武装した男が貯蔵所の東側窓で目撃される
12:25 パレード車列がディーリー・プラザに進入する予定時刻
12:29 パレード車列が実際にディーリー・プラザに進入する
12:30 ケネディが銃撃される
74-90秒後 オズワルドと警察の最初の遭遇
12:30-39 大通り沿いにある草深い丘の駐車場と鉄道操車場を捜索する
12:40 テレビでニュース速報が放送される
13:00 パークランド病院で二人の神父により終油秘跡が行われ、ケネディの死亡を宣告する
13:15 ライフル銃が発見された教科書ビルの捜索を開始する
13:35頃 オズワルドが劇場に入るところを目撃される
13:38 ケネディの死亡が公表される
13:40 オズワルドがテキサス劇場内にいるという警察の発表
13:50 警官がテキサス劇場内のオズワルドを逮捕しようと試みる
13:56 オズワルトを逮捕、警察に送致する
14:15 ケネディの遺体がパークランド病院からエアフォース・ワンに移送する
14:38 ジョンソンが大統領就任宣誓
18:05 エアフォース・ワンがワシントンD.C.近くのアンドルーズ空軍基地に到着し、海軍病院に移送する
19:00 オズワルドがティピット殺害の罪で逮捕される
23:36 オズワルドがケネディ暗殺の罪で逮捕される
11月23日 遺体を海軍病院からホワイトハウスに移送する
11月24日
11:21
オズワルドがジャック・ルビーに射殺される
13:07 オズワルトの死亡が発表される

テキサス遊説の背景

ケネディ大統領は11月22日のダラス遊説を三つの理由から決定した。

  • 1964年11月の大統領選挙に向けて民主党選挙戦資金の寄付を求めるため。
  • 再選へ向けての選挙活動の開始。
  • ケネディ-ジョンソンのテキサス州での辛勝(ダラスでは共和党に敗北した)から、政治的に対立していたテキサスの民主党有力メンバーとの関係回復のため。

ダラス郊外の「ダラス・トレードセンター」でスピーチを行うために、自動車パレードはダラス・ラブフィールド空港からディーリー・プラザを含むダウンタウンを通過することが計画された。

防弾カバー使用拒否

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透明な防弾カバーをかぶせたリンカーン・コンチネンタルのオープントップ・リムジンに乗るケネディ(1963年6月27日、アイルランド訪問時)

ケネディ大統領夫妻とコナリー知事夫妻らがラブフィールド空港から乗車した車は、1961年式のリンカーン・コンチネンタルをオープントップに改造したパレード専用のリムジンであった。

当初、所轄のダラス市警察本部とシークレット・サービスは、狙撃や投石などに対する保安面の見地から、無防備なオープントップでのパレードではなく、透明な防弾カバーをオープントップにかぶせた上でパレードを行うよう主張した(なおこの様な防弾カバーは、これまでに数回利用されていた)。

実際に前月には、市を訪れた国連大使が暴漢に殴られたり、11月22日のダラス・モーニング・ニューズ紙上に、反ケネディ派による、ケネディ大統領を「お尋ね者」とする黒枠付きの全面広告が掲載されるなど、反ケネディ派による襲撃が懸念されたにもかかわらず、翌年に再選に向けた選挙を控え、国民に対して「親しみやすいイメージ」と「毅然としたイメージ」をアピールしたいと願っていたケネディ大統領とその側近は、ダラス市警察本部とシークレットサービスによる防弾カバー使用の主張を退けた[1][2]

国民に対するイメージ戦略を過度に重視したあまり、保安面を軽視することとなったケネディ大統領とその側近によるオープントップ・リムジンの防弾カバーの使用拒否が、その後のケネディ大統領の命運を大きく左右することとなった。

C123輸送機によりワシントンから運ばれたパレードに使用されるリムジンにバブルトップと呼ばれる防弾ガラスの屋根をつけるかどうかは、その日の天気次第とされていた。当日のダラスの天気予報は終日雨の予報であったが到着の1時間前から天候は回復し、空は晴れあがり結局リムジンにバブルトップが付けられることはなかった。

パレード

ラブフィールド空港からのパレードにおけるケネディ大統領の同乗者は妻のジャクリーン・ケネディ、テキサス州知事ジョン・コナリー、その妻ネリー、ホワイトハウスのシークレット・サービス第三助手ロイ・ケラーマン、シークレット・サービスでドライバーのビル・グリアーであった。

リンカーン・コンチネンタルを中心にしたパレードの車列は 12:00 少し前にラブフィールド空港を出発し、ダラス市内を 10mi/h (≒16km/h) 前後のスピードを保ったまま「ダラス・トレードセンター」に向かってゆっくりと進んだ。ダラスの至る所、特にパレードルートに沿ってケネディに批判的ないくつかの団体がプラカードを掲示しビラを配布した。手製の抗議サインは車列の見物人達によって高く掲げられた。しかし車列は、ケネディが数人の修道女および数人の児童と握手するために二度止まる以外はほとんど何事もなくその全ルートを通過した。大通りに入ったリムジンの前に一人の男性が走り寄ったが、シークレット・サービスによって地面へ押し倒され車列から遠ざけられた。

12:30にケネディのリムジンはテキサス教科書倉庫の正面にゆっくり接近した。次にリムジンはゆっくりと120度方向を変え、教科書倉庫の直接前からわずか20メートル離れた位置にあった。

狙撃

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犯人が狙撃したと言われる教科書倉庫のビル
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「ザプルーダー・フィルム」で撮られた、最初の銃弾が命中し喉を押さえるケネディ大統領
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「ザプルーダー・フィルム」で撮られた、最後の銃弾がケネディ大統領に命中した瞬間

リンカーン・コンチネンタルが教科書倉庫を通過した時、およそ 6-9 秒の間にケネディは狙撃された。暗殺の間リムジンの時速は 9 マイルから 13 マイルであった。ウォーレン委員会はその後、三発の銃弾の内一発は車列を外れ、一発がケネディに命中貫通しコナリーを傷つけ、最後の一発がケネディの頭部に致命傷を与えたと結論を下した。ほぼ全ての者がケネディに少なくとも二発の銃弾が命中し、頭部への銃弾で死亡したことを認める。

第一射の後群衆から様々な反応が起こった。多くの者は後に爆竹かバックファイアが鳴ったと思ったと証言している。撃たれてパニックに陥ったコナリー知事が「ノー、ノー、ノー!大変だ、皆殺しにされるぞ!」と叫び、それによってドライバーのビル・グリアーは状況を知った。狙撃の最中にグリアーは素早く振り向き、叫んでいる知事と大統領を確認し、再び前方を見た。彼は再び後方を振り向き(この時点でリムジンのブレーキランプが点灯している様が撮影されている)頭部に致命傷を負ったケネディを実際に目の前で目撃したただ一人の人物であった。

ケネディが頭部を銃撃されたとき、彼はわずかに前進し25 - 50mm倒れた。次に起こった事態は暗殺調査が継続されることになった一つの原因である。彼の頭部右側の傷が頭蓋を開き、右肩は前方にねじれ僅かに上向きになった。その後彼は後部座席のクッションに垂直にぶつかり、死んだように崩れ落ち、彼の胴体はすぐに妻のいた後方左側に移動した。ケネディが致命傷を負った後、リムジンは速度を上げディーリー・プラザを出てパークランド・メモリアル病院へ向かった。

負傷者

大統領のリムジンに同乗していたジョン・ボウデン・コナリー知事は重傷を負ったが生き残った。コナリーの負傷はケネディの最初の負傷直後に発生した(同一の弾丸によるものと考えられたが、これには疑問が提示され議論の対象となっている。「魔法の銃弾」参照)。医師はコナリー夫人が彼女の膝の上に知事を引き上げたことで、胸の傷(傷口から直接肺へ空気が流入していた)が閉じられ、結果として知事の生命を救うこととなったとその後語った。

ジェームズ・ターグ(James Tague/暗殺を目撃した観衆の一人)は、ケネディが銃撃された位置から前方およそ80メートルの地点に立っていたが、発射弾の破片によると思われる傷を右の頬に受けた。

記録された暗殺

パレード車列が通過する地点は重要なものと考えられなかったため、ラジオおよびテレビは暗殺現場を生で中継しなかった。KBOX-AMはその日のニュースの抜粋で銃撃の音をLPレコードで放送したが、それはオリジナルの録音ではなかった。車列の後方に位置したメディアを除いて、ほとんどの報道機関は「ダラス・トレードセンター」でケネディの到着を待っていた。

しかしながら、ディーリー・プラザでの暗殺現場はサイレントの 8mm フィルムに 26.6 秒間記録されていた。アマチュアカメラマンのエイブラハム・ザプルーダーが撮った物である為、後にザプルーダー・フィルムの別名で呼ばれるようになった。486 コマのこのフィルムが多くの研究に用いられたのは、暗殺の直接の資料になるからである。

ザプルーダー・フィルムはビデオ化された映画『JFK』(オリバー・ストーン監督)などで容易に見ることができる。大統領の頭部は致命的と見られる射撃によってひどく破壊され、後方に動いている。その致命的な射撃は前方から行われたようにも見えることから、この映像はオズワルド以外の狙撃者の存在について様々な議論を生んだ。その際、飛沫は前方に飛び散っている。直後に大統領夫人が動揺した様子で後方に目を移し、オープンカーの後方部分に這い出て、護衛にすぐ引き戻されている映像が独立した複数の映像から確認できる。大統領夫人自身はその行動を認め、後方に吹き飛んだ大統領の頭部破片を拾うために這い出たことを後に裁判で証言している。実際、彼女は大統領の頭部の骨片を医師に渡している。ザプルーダー・フィルムには幾つかの版があり、損傷によりフィルムの数コマが欠落したものもある。

下院暗殺調査委員会(1976年ー78年)によると、暗殺前後の数分間、ダラス警察の白バイ警官のマクレーン(H・B・McLain)の無線は「送信」状態にされ、警察無線の通信指令席でレコーダー(プラスチックベルト)に記録されたとされる。下院暗殺調査委員会は、この口述録音機用録音テープの証拠の研究から、銃声は4発であるとして、狙撃者はオズワルド以外にもう一人いた可能性が高いと結論した。このテープはアメリカ国立公文書記録管理局に保管されているが、証拠能力には議論がある。下院暗殺調査委員会は音声記録の証拠認定を後に取り消している。

その他の目撃者

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メアリー・モーマンが撮影した画像

暗殺を現場で目撃し、記録した者は、ザプルーダー1人ではなかった。いずれも、ザプルーダーのフィルムに比べて遠くからではあるが、狙撃の瞬間をフィルムに撮影した者は他に3人いることが知られている。その他にも、暗殺時刻あたりで現場やその周辺をフィルム撮影した者は、ディーリー・プラザに多数いたことが知られているほか、暗殺時ケネディの車列が通行していたエルム通りの南側で、身元不明の青い服を着た女性がフィルム撮影を行っていたことが分かっている。写真(静止画)撮影も多くの人々によって行われている。事件発生時、ディーリー・プラザには32人ものプロ、アマの写真家がいた。その中でプロの写真家は、アイク・アルトジェンというダラスのAP通信のジャーナリスト唯一人であった。アルトジェンが撮影した写真は、この暗殺事件を撮影した写真の中でも最も有名なものの一つである。

大統領が撃たれた場所の前方の丘の上(グラシー・ノール grassy knoll)に関する複数の一般人の証言がある。

メアリー・モーマン(Mary Moorman ジーン・ヒル(Jean Hill)の隣に立つ姿が、ザプルーダー・フィルムに記録されている。)は、グラシー・ノールと頭部に致命傷を受けた直後(約0.17秒後)の大統領をポラロイド写真機(Polaroid Highlander Model 80A)で撮影した。その際、暗殺犯とその発砲の瞬間(バッジマンと呼ばれる)が撮影されたとする説がある。研究家ゲーリー・マック(Gary Mack)は「モーマン写真」を拡大すると「バッジを付けた人物と煙かマズルフラッシュ(発射炎)のような像」が確認できることを発見した。この説は1988年にEngland's Central Independent Televisionが製作したTVドキュメンタリー「The Men Who Killed Kennedy」でも紹介された。この像は人間ではないとする説もある。ゴードン・アーノルドの証言やロスコー・ホワイト(Roscoe White 遺族によってケネディ暗殺犯とされたが、後に誤りであることが判明した警察官)と結びつける主張もある。

オズワルドの逮捕と射殺

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オズワルドがジャック・ルビーに狙撃される瞬間を撮った写真

リー・ハーヴェイ・オズワルドは、警官J・D・ティピットを殺害した容疑で、ケネディ暗殺の80分後に現場近くの劇場で逮捕され、その夜遅くケネディ暗殺容疑で再逮捕された。暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送される際に、ダラス市警察本部の地下通路で、ダラス市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビー(本名:ジャック・ルーベンシュタイン)に射殺された。なお、この時の模様はアメリカ中にテレビで生中継されており、数百万人のアメリカ人が生中継でこの瞬間を見ることになった。

ルビーがオズワルドを射殺した理由は「夫が暗殺され悲しんでいるジャクリーン夫人とその子供のため」、「悲しみに暮れるケネディの妻・ジャクリーヌが法廷に立つ事を防ぐ為」という不可解な理由であったが、ウォーレン委員会はおろかマスコミでさえその不可解さを取り上げることはなかった。しかも、この事件とも何の関係もない、かつ警察関係者でもマスコミ関係者でもないルビーがなぜやすやすと警察署内に入り込めたのかという理由について、ウォーレン委員会はダラス市警察本部の事前警戒の不備を厳しく批判してはいるものの、その理由については最終的に満足な説明は何一つ為されなかった。

また、事件後には、ルビーがオズワルドと複数の人物を介して知人の関係であった上、なぜか暗殺事件発生直後からオズワルドの行動を随時追いかけていたことが複数の人物から証言された。なお、ルビーはこの事件について多くを語らないまま4年後にがんにより獄中で死亡した。

ケネディの死亡宣告

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ケネディ暗殺事件直後、エアフォースワン内部で臨時の就任宣誓を行う副大統領リンドン・ジョンソン

ケネディを担当したパークランド病院第一外傷室の係員は、ケネディが「瀕死」状態だったと語った。これは病院到着時既に生存の可能性がなかったことを意味する。午後1:00に心拍が停止し、立ち会った司祭が病者の塗油(終油の秘跡)を与えた後に大統領の死亡が宣告された。ある医師は「我々には彼の命を救う希望が持てなかった」と語った。ケネディの病者の塗油を行った司祭は、大統領は病院到着時既に死亡していたとニューヨーク・タイムズに語った。司祭はひたいに油を塗るために顔にかけられたカバーを開けなければならなかった。ケネディの死亡は午後1:38に公式発表された。コナリー知事は緊急外科に運び込まれ、その日の内に二度の手術が行われた。司法長官であった実弟のロバート・ケネディは自宅で、FBI長官からの電話で、副大統領ジョンソンより先に死亡の事実を知らされた。

午後二時数分過ぎ、テキサス州法に則り、遺体を州内で解剖しようとするダラス警察と、首都に遺体を一刻も早く搬送しようとする政府高官との間で 10-15 分の悶着の後、ケネディの遺体はパークランド病院からエアフォース・ワンに搬送された。搬送中の機内は、ケネディ派とジョンソン派の対立から、重苦しい雰囲気であった。

リンドン・B・ジョンソン副大統領はケネディの2台後ろの自動車に乗っていたが難を逃れ、大統領の死に際しアメリカ合衆国大統領に昇格することとなり、ジョンソンはラブ・フィールド空港のエアフォース・ワンの機内で離陸前に就任宣誓を行った。

ジョンソンとジャクリーン夫人らを乗せたエアフォース・ワンは、史上初めて2人の大統領を乗せてワシントンD.C.郊外に着陸した後、事前のジョンソンの計画では、棺を降ろした後、未亡人とジョンソンがタラップを並んで降りるはずであったが、ロバート・ケネディの指揮の元、ケネディの遺体は検死のために未亡人とともにベテスダ海軍病院に搬送された。ジョンソンは、独り機内に取り残され新たにつけられたタラップを利用して機を降りた。

検死は3人の軍医によって行なわれ、三十人以上の軍人が目撃した。二人の FBI 捜査官が、ケネディは右側頭部に大きな傷を受け、別の傷はスーツのエリの部分から 5.5 インチ下、背骨の右部分にあり、三番目の傷は彼の喉仏の下の部分にあったことを明らかにした。数枚の写真およびレントゲン写真が検死のために撮影された(それらの数枚は公式記録から消えた)。

暗殺への反応

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ワシントンD.C.で行われた葬儀

銃撃後ケネディの死が公表されるまでの間、大きな混乱が巻き起こった。冷戦下の時代でもあり銃撃が、アメリカ合衆国に対する大規模な攻撃の一部なのか、また、副大統領ジョンソンは無事なのかはっきりしなかった。ワシントンD.C. では、午後1:43 EST (ダラス時間 12:43)に電話網が 59 分間散発的になった。回線はニューヨークを経由させることとなったが、結局つながらなかった。人々は最新の情報を得るためラジオやテレビに張り付いた。

ダラスからアンドルーズ空軍基地にケネディの遺体が戻り、その後空港で記者会見したジョンソン新大統領の強いテキサス訛りのある英語と、ケネディの小気味のよいボストン英語の対比に、アメリカ国民は、大統領交代を実感したという。

ケネディ暗殺のニュースは世界中に衝撃を与えた(ヨーロッパにも波及した。小説『オデッサ・ファイル』の冒頭でも描写されている)。ニューヨークを始めとして世界中で多くの男女が公然と泣き、多くの人々がテレビ報道を見るためにデパートに群れをなし、祈りを捧げる者達もいた。いくつかの地区での交通は、ケネディの死に関するニュースが車から車へと伝えられ、停止することとなった。アメリカ合衆国やカナダの学校では、学生を下校させた。また「テキサス州およびテキサス人」に対する怒りの声も聞かれた。暗殺直後、ソ連が「我々が手を下したのではない」と国際表明を行っていることからみても、その衝撃は大きなものであった。日本でも、折しも当日実施されていた通信衛星による初の日米間のテレビ伝送実験において即座に事件の詳細が伝えられ、視聴者に大きな衝撃を与えた。

ベテスダ海軍病院での検死後にケネディの遺体は埋葬の準備がなされ、ホワイトハウスに移送され東の部屋に24時間安置された。翌日、国旗に覆われたマホガニー製のケネディの棺は国会議事堂まで運ばれた。昼夜に渡っておよそ250,000人の人が弔問に訪れた。ケネディの弔問をするため、10時間もの間、凍り付くほどの気温の中で行列に並び、その行列は40ブロック先にまで及んだ。

ケネディの追悼式は直ちに組織され世界的に行われた。合衆国政府はケネディの国葬の日、11月25日(月)を全国的に喪に服す日とすることを宣言した。葬儀にはソ連ニキータ・フルシチョフ首相、日本の池田勇人内閣総理大臣など、92か国から首脳・政府高官等220人が参加した。追悼式の後に、棺は埋葬のためにケーソンに載せられアーリントン国立墓地に運ばれた。

ケネディの葬儀は日本ではNHKで26日午前7時-8時 (JST) に放送され、ビデオリサーチ・関東地区調べで38.5%の視聴率を記録した。

暗殺の背景と陰謀説

暗殺者と暗殺の背景については多くの説があり、いまだに結論が得られていない。暗殺者については、

  • リー・ハーヴェイ・オズワルド単独犯行説
  • リー・ハーヴェイ・オズワルドを含む複数犯行説
  • オズワルドを替え玉とする説

などがある。証拠物件の公開が政府によって不自然にも制限されたり、また大規模な証拠隠滅が行われたと推測できる事象が多くあるとする説もある。例えば、暗殺犯とされたリー・ハーヴェイ・オズワルドは、ダラス市警察本部でジャック・ルビーに射殺された。この射殺事件やジャック・ルビーの死亡とは別に、ケネディ暗殺事件の多くの目撃者、関係者が変死している。

これらの不可解な状況が相次いだことにより、今日までに下記のような多くの仮説、陰謀説が提示されている。

  • 「マフィア主犯説」は、かつてジアンカーナらがケネディ本人や父のジョセフ・ケネディ・シニアによる依頼を受けて、大統領選挙におけるケネディ陣営の資金集めや不正を手伝ったにもかかわらず、その後ケネディがフーヴァーやロバートの忠告を受けてジアンカーナや共通の友人であるフランク・シナトラらとの関係を突然断った上に、ケネディ政権がロバートを中心にしてマフィアに対する壊滅作戦を進めたことを「裏切り」と受け取ったジアンカーナらを中心としたマフィアが、「裏切り」への報復と壊滅作戦の停止を目論んで行ったとするものである。なお実際に、ケネディによる一方的な関係断絶に対しシナトラは激怒し、ジアンカーナや、ルビーやオズワルドとの面識もあったテキサス州を縄張りとするマフィアのカルロス・マルセロらは、マフィア壊滅作戦を進めるケネディの暗殺をほのめかすような発言を繰り返していたことが、FBIの盗聴により明らかになっている。
  • 「軍産複合体の意を受けた政府主犯説」は、「ケネディの南ベトナムからのアメリカ軍による軍事顧問団の縮小計画と、その後に予想された軍事顧問団の完全撤収が『軍産複合体の利益を損ねる』と恐れた政府の中の一部勢力が、大統領の警備を弱体化して犯行に及んだ」とするものである。ケネディはその大統領就任中に、ベトナム戦争からの早期撤退を計画した(ドキュメンタリー映画「フォッグ・オブ・ウォー マクナマラ元米国防長官の告白」、当時のマクナマラ国防長官の証言を参照)。ケネディはテレビインタビューに答えて言った、「(南ベトナム)政府がたいへんな努力をして支持されない限り、ベトナムで勝とうとは思わない。最終判断として、ベトナム戦争はベトナム人の戦争であり、勝つのも負けるのも彼らである。」。しかし、撤退計画はケネディ暗殺によって頓挫し、後任のジョンソン大統領によってベトナム戦争への介入は逆に押し進められて、ベトナム戦争は泥沼化した。ケネディの急進的なベトナム戦争撤退の方針が産軍複合体の利害と対立して、ケネディ暗殺につながったという一説がある。映画JFKはこの可能性を追及して話題となった。

上記の2つの説以外にも、

などの説がある。なお、1963年当時7月1日より1964年の財政年度が始まっていたが、重要な13の予算法案のうち9つが議会を通過せず、議会の議事妨害(フィリバスター)によってケネディ政権は行き詰まっていた。それゆえ、1964年の再選は絶望的とする見方も存在した。

政府側の調査

二つの公式調査が、ディーリー・プラザのテキサス教科書倉庫従業員リー・ハーヴェイ・オズワルドが暗殺者だったと結論を下した。一つの調査(ウォーレン委員会)はオズワルドが単独で行動したと結論を下し、重要な証拠とされた口述録音機用録音テープの証拠は後に証拠認定を取り消されている。

ダラス市警察本部

オズワルドを逮捕し現場で物的証拠を収集した後、ダラス市警察本部長ジェシー・カレーは彼の言う「ワシントンの人々」へ物的証拠を全て送るよう午後 10:30 に命じた。しかしながらオズワルドは FBI ダラス支局に送られることとなった。

FBIの調査

FBI は捜査を行った最初の機関だった。暗殺のわずか17日後、1963年12月9日にFBIの報告書はウォーレン委員会に提出された。FBIは三発だけが暗殺時に発射されたと報告した。第一射はケネディ大統領に命中し、第二射がコナリー知事に命中、第三射が大統領の頭部に命中し彼を殺害した。三発ともリー・ハーヴェイ・オズワルドが発射したと報告した。

ウォーレン委員会

暗殺事件の最初の公式調査委員会は、事件の一週間後1963年11月29日にリンドン・B・ジョンソン大統領によって招集された。その委員会は、最高裁長官アール・ウォーレンによって率いられ、ウォーレン委員会の名称で知られるようになった。

10か月の調査後、1964年9月末にウォーレン委員会報告書が公表された。委員会はリー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯行と結論付け、いかなる個人、団体、国家の共謀を示す証拠は発見できなかったとした。オズワルドの単独犯行説はローン・ガンマン・セオリーと呼ばれる。

委員会は暗殺時に三つの弾丸が発射され、二発の弾丸がケネディ大統領とコナリー知事を命中した。その弾丸は全てリー・ハーヴェイ・オズワルドがパレード車列の後方にあったテキサス教科書倉庫から発射した物として結論を下した。

委員会の判断:

  • 一発は車列から外れたと考えられる(三発の内の何射目かは特定できない)。
  • ケネディ大統領の上背部に命中した弾丸は、首の正面近くに貫通し、コナリー知事を負傷させたと思われる。
  • 最後の弾丸は大統領の頭部に命中し致命傷となった。
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ウォーレン委員会の報告による致命傷を与えた銃弾の方向(魔法の銃弾)

委員会は教科書倉庫の6階で3つの薬莢が発見されたことに注目した。また、ライフル銃は近くに隠されたことが判明した。委員会はケネディとコナリーは別々の弾丸で傷つけられたのではなく、両者とも同じ弾丸で傷ついたとするのが適当だと提示した。この説はシングル・バレット・セオリーとして知られるようになった。

いくつかの弾道の証拠は弾丸がそのような軌道を描くことが可能であると示唆したが、多くの主張がこの点で一致しない。魔法の銃弾は1発の弾丸がそのような多くの銃痕を残すのは不可能であることを揶揄的に表現したものである。

委員会はさらにセキュリティ面の不備を指摘した。指摘は大統領が旅行する際のセキュリティ増加に帰着した。

銃弾の入り口とされるコナリー知事の背部(右半身)の傷は、出口とされる胸部(右半身)の傷より小さかった。銃弾の入り口とされる右手首(甲側)の傷は出口(掌側)よりも大きかった。この問題について、胸部を貫通した銃弾が回転し、前後逆に手首に侵入したとする「回転説(Tumbling Theory)」がある。

クレイ・ショー裁判

ケネディ暗殺事件が法廷上で検討された唯一の例がクレイ・ショー裁判であった。ニューオリンズのジム・ギャリソン検事は、1967年3月2日、ニューオリンズの実業家クレイ・ショーを大統領暗殺に関わる陰謀罪で逮捕した。ギャリソンはクレイ・ショーがCIA経由でケネディ暗殺事件に関わっており、事件はCIA、軍部、国家の関与するクーデターであると主張した。裁判はギャリソンが敗北するが、後に、CIAがウォーレン委員会の批判者たちへ圧力をかけたこと、クレイ・ショーが実際にCIAのために働いていたことが公的に示された。1991年に公開された映画「JFK」はクレイ・ショー裁判をモデルにした作品である。

政府側の調査と事後対応について指摘された問題点

  • ザプルーダー・フィルムによると、大統領の頭部が致命的と見られる射撃によって破壊された際、後方に動いている。また、脳の一部が後方に飛んでいる。これは前方からの銃撃によるものではないか。これは後方にいたオズワルドの単独犯行説(ウォーレン委員会報告書の見解)では説明できないのではないか。
  • オズワルドは「射撃の名手」か(海兵隊時代のオズワルドは1956年12月に一級射手 (sharpshooter) の資格に必要な得点をクリアしているが、射撃術章には達しなかった)。
  • オズワルドが狙撃したとされる教科書ビルの窓からでは常緑樹が茂っており、木の葉が邪魔して狙いにくい。さらに、政府側報告(ウォーレン委員会)によるオズワルドが使用したボルトアクション方式カルカノ銃では 5-6 秒程度の間に三発発射し二発を命中させるのは非常に困難であり、事件後から現在に至るまで行われた検証実験で成功した例は皆無である。また、通常は一発目、二発目、三発目と順を追うごとに照準に狂いが生じるものだが、致命傷を与えた最も正確な射撃は3発目とされている(ザプルーダー・フィルムの分析から発射した時間は 5-6 秒より長いとする説もある)。
  • (大統領頸部への1銃弾を考慮すると、)大統領とその同乗者の他の被弾箇所(約5箇所)が政府見解である1発の銃弾で説明できるか(いわゆる「魔法の銃弾」の謎。アメリカのケーブルTV番組ディスカバリーチャンネルによる再現実験では、ザプルーダフィルム223コマ目における位置を再現しカルカノ銃を使用した銃創は、一直線の弾道とほぼ一致したとしている)。
  • オズワルドの両手からは硝煙反応が出たが、頬からは硝煙反応が出なかった。凶器とされたライフルからは、当初の検査では指紋、掌紋は発見されなかった。オズワルド殺害の翌日(11月25日)に掌紋が発見された。
  • 暗殺直後オズワルドは逃げもせずビル内の食堂でコーラを飲んでくつろぐなどした。狙撃地点とされる部屋から食堂へ向かう階段には女性が2人いたが、その女性はオズワルドは通っていないと証言した。食堂のオズワルドを警官が1度やり過ごしている。
  • 教科書ビルから撃たれたとした警官が包囲に10分もかかったのに対し、その後オズワルドを逮捕するまでの経緯は不自然なまでに鮮やかだった。
  • オズワルドがダラス市警察本部内で殺害されるという異常な事態が起きている。
  • 証拠物件の公開が政府によって、2029年(下院暗殺調査委員会)もしくは2039年まで不自然にも制限されている。資料はアメリカ公文書図書館に保管されているが公開されるのは2039年とされている。しかし、現在でも資料の多くが紛失しているため、2039年に公開されても完全に真実が明らかになるかどうかは未知数である。

以上のことなどから、現在、少なからぬアメリカ市民が、なんらかの政府の関与した陰謀だとする説(陰謀説)を支持している。

その他の指摘された問題点

  • 事件当日、ダラス市長の指示で急にパレードのコースが変更された。また、慣例からすれば歴代大統領は直線コースをパレードしていたが、ケネディはわざわざ車の速度を落とさなければならない迂回ルートを走らされ、そこで銃撃された。なお、このときのダラス市長アール・カベルはピッグス湾事件で更迭された CIA 副長官チャールズ・カベルの弟であった(いわゆる「パレードルート変更の謎」説)。この説について、パレード後の予定地であったトレードマート (Dallas Trade Mart、2100 North Stemmons Freeway Dallas, TX 75207) に向かうには、迂回ルートのエルム通り (ELM STREET) を通過してステモンスフリーウェー (North Stemmons Freeway) に入る必要があった。直線コースのメイン通り(MAIN STREET)からは入れないとする反証がある。ただし、トレードマートへは、フリーウェイを利用せずともリバーフロントブルーバードからマーケットセンターブルーバードを通って向かう事ができる)。
  • 事件当日のダラスは快晴だったにもかかわらず、ザプルーダー・フィルムに黒いこうもり傘をさした人物が映っている。この人物は通称アンブレラマン (The umbrella man) と呼ばれ、映画『JFK』にも登場する。アンブレラマンを暗殺グループの一員とする説もある。なお、自分がアンブレラ・マンであると主張する人物、ルイス・ウイット (Louis Witt) はケネディ暗殺下院特別調査委員会 (1978年) において証言をおこなっている。
  • 本来なら大統領の近辺にいなければならないシークレットサービスが後ろへ退くように命令された(クリントン・ヒル(リムジンの後部に飛び乗った人物)によると車両間隔は 5ft≒1.5m 。大統領のリムジンには二人のシークレットサービスが同乗していた(ロイ・ケラーマン、ビル・グリアー)。後続車と白バイ警官はリムジンを追い、クリントン・ヒルら四人のシークレットサービスは後続車のサイドステップに立っていた)。
  • 傷口が変造されていた。
  • 検死の医者は弾丸の検死の専門医ではなかった。
  • 発見された銃弾は本物か。銃弾(証拠物件399、コナリー知事の担架(stretcher)から発見された)は、垂直方向(銃弾の進行方向)には変形せず、水平方向には圧縮されたように変形していた。弾頭部分は損傷していなかった。
  • ケネディの死が確認され、大統領専用機エアフォース・ワンの機内でリンドン・B・ジョンソン副大統領が大統領宣誓を行ったが、機内でジョンソンに対し、ウインクするアルバート・トマス下院議員の姿が写真に残されている。トマスはジョンソンの旧知の友人であり、またトマスに対してジョンソンは笑いかけているようにも見える。
  • 暗殺事件発生当時、閣僚の大半は外遊しており、また、ケネディ死亡の公式発表から、ジョンソンの宣誓式までの数十分間、いわゆる「権力の空白」時間が流れている。
  • オズワルドが狙ったのは実際には同乗していたコナリーでケネディーは巻き添えをくったという説もある。

未公表のドキュメント

  • 暗殺の瞬間をザプルーダーよりも間近でフィルム撮影していたと思われる身元不明の女性がおり、研究家により、バブーシュカ・レディーと呼ばれている。他のフィルムや写真には、メアリー・モーマンとジーン・ヒルの右後方で、彼女がフィルム撮影をしている姿がはっきりと映っている。この女性の身許は特定されておらず、フィルムも確認されていない。1970年、ビバリー・オリバー(Beverly Oliver)は自分がバブーシュカ・レディーであると主張している。
  • 暗殺当日に撮影されたそれまで未公開だったカラーフィルムが、テキサス市のSixth Floor Museumによって新たに2007年2月20日に公開された。フィルムは実際の暗殺の90秒ほど前に、ジョージ・ジェフリーズ (George Jefferies) によって現場から数ブロック離れた地点で撮影されたものである。

ケネディ大統領暗殺事件を扱った作品

映画

ドラマ

  • ダークスカイ』 - Dark Skies (1996)
  • PAN AM/パンナム』 - Pan Am (2011- ) 第12話(2012年1月放送)で「ケネディ大統領狙撃」に関する当時のニュース映像が使用された。

ドキュメンタリ

  • 『発掘テープが語る ケネディ暗殺』(原題:The Lost JFK Tapes -The Assassination- / 製作:Tom Jennings Productions アメリカ 2009年)
  • 『JFK アメリカを変えた三発の銃弾』(ヒストリーチャンネル 2010年)
  • 『ケネディ大統領暗殺後の24時間』(ヒストリーチャンネル 2010年)

漫画

ゲーム

  • コール オブ デューティ ブラックオプス』- ラストシーンの実写映像で主人公であるメイソンがケネディ暗殺に加担したかのような描写がある。
  • JFK: Reloaded』- イギリスのゲームソフト。事件から41年目の2004年11月22日発売。ダウンロードによる販売。プレイヤーはオズワルドになり、ケネディを狙撃する。最初に「暗殺」したプレイヤーに賞金をかけたこともあり、不謹慎であると物議をかもした。2011年現在ではサイトも閉鎖されている。

アニメ

脚注

  1. 『菊の御紋章と火炎瓶』文藝春秋 佐々淳行 2009年
  2. 『香港領事動乱日誌』文藝春秋 佐々淳行 1997年

参考文献 関連文献

  • 『アサヒグラフ ケネディ大統領暗殺さる 1963年12月6日号』 朝日新聞社 1963年
  • 『週刊朝日 緊急増刊 ケネディ大統領暗殺 1963年12月10日号』 朝日新聞社 1963年
  • 『現代の眼』1964年1月号(陸井三郎「ケネディ暗殺の背景」) 現代評論社 1964年
  • 陸井三郎『現代のアメリカ』 三一書房 1964年
  • AP通信社(編集)、朝日新聞社(翻訳)『ダラスの金曜日 ケネディ最後の四日間』 朝日新聞社 1964年
  • トーマス・ブキャナン(著)、内山敏(翻訳)『誰が大統領を殺したか?』 文藝春秋新社 1964年
  • 大森実監修『ケネディ暗殺の真相 ウォーレン報告』 弘文社 1964年
  • 仲晃『ケネディ暗殺事件 その背景と真実』 弘文堂 1964年
  • レオ・ソヴァージュ(著)、西川一郎(翻訳)『ケネディ暗殺事件』 上巻・下巻 合同出版 1967、68年
  • ウイリアム・マンチェスター(著)、宮川毅(翻訳)『ある大統領の死』 上・下 恒文社 1967年
  • 筑摩書房編集部編『現代世界ノンフィクション全集24(現代の内幕)』 ネリン・ガン「ダラスの紅いバラ」 筑摩書房 1967年
  • マーク・レーン(著)、中野国雄 (翻訳)『ケネディ暗殺の謎 オズワルド弁護人の反証 』 徳間書店 1967年
  • マーク・レーン(著)、ドナルド・フリード(著)、井上一夫 (翻訳)『ダラスの熱い日 』 立風書房 1974年(フィクション)
  • アメリカ合衆国CIA国内活動調査委員会(著)、毎日新聞社外信部(翻訳)『CIA アメリカ中央情報局の内幕 ロックフェラー委員会報告』 毎日新聞社 1975年
  • ロバート・サム・アンソン(著)、和田敏彦(翻訳)『彼らは大統領を撃った ケネディ暗殺の謀略を追う』 角川書店 1976年
  • バート・R・シュガー(著)、長沼芳夫(翻訳)『暗殺の構図 米国指導者暗殺の系譜』 荒地出版社 1978年
  • 落合信彦『二〇三九年の真実 ケネディを殺った男たち』 集英社 1979年
  • ジェームズ・マッキンレー(著)、和田敏彦 (翻訳)『アメリカ暗殺の歴史 』 集英社 1979年
  • エドワード・J・エプスタイン(著)、高田正純 (翻訳) 『アメリカを撃った男 オズワルドの謎 』 早川書房 1981年
  • ディヴィッド・S・リフトン(著)、土田宏(翻訳)『ベスト・エヴィデンス ケネディ暗殺の虚実』 上巻・下巻 彩流社 1985年、1986年
  • 広瀬隆『億万長者はハリウッドを殺す』 下巻 第11章 講談社 1989年
  • コンノケンイチ『ケネディ暗殺とUFO』 たま出版 1989年
  • 土田宏『ケネディ兄弟の光と影』 彩流社 1992年
  • ジェイムズ・スパダ(著)、広瀬順弘 (翻訳)『ピーター・ローフォード ケネディ兄弟とモンローの秘密を握っていた男』上・下 読売新聞社 1992年
  • マーク・レーン(著)、飯塚忠雄 (翻訳)『大がかりな嘘 だれがケネディを殺ったのか 』 扶桑社 1992年
  • チャールズ・クレンショー(著)、岩瀬孝雄 (翻訳)『JFK謀殺 医師たちの沈黙』 早川書房 1992年
  • 文藝春秋(編集)『JFK暗殺の真実 ケネディ解剖医、28年間の沈黙を破る!』 文藝春秋 1992年
  • クレイグ・ジーベル(著)、石川順子(翻訳)『テキサス・コネクション JFK暗殺 ジョンソンの最も危険な賭け』 竹書房 1992年
  • 堀田宗路『ジョン・F・ケネディの謎 権力の陰謀とアメリカの悪夢』 日本文芸社 1992年
  • ジム・ギャリソン(著)、岩瀬孝雄(翻訳)『JFK ケネディ暗殺犯を追え』 早川書房 1992年
  • 仲晃『パクス・アメリカーナの転回 ジャーナリストの見た現代史』 岩波書店 1992年
  • オリバー・ストーン、ザカリー・スクラー(著)、中俣真知子、袴塚紀子(翻訳)『JFK ケネディ暗殺の真相を追って』 テンプリント 1993年
  • 桧山良昭『ケネディを撃った男たち 現代史の謎』 東京書籍 1993年
  • 井上一馬『ケネディ その実像を求めて』第1章、第9章 講談社 1994年
  • ジョン・H・デイヴィス(著)、市雄貴(翻訳)『マフィアとケネディ一族』 朝日新聞出版 1994年
  • 松尾弌之『JFK 大統領の神話と実像』 ちくま書房 1994年
  • 仲晃『ケネディはなぜ暗殺されたか』 日本放送協会 1995年
  • 瀬戸川宗太『「JFK」悪夢の真実 ベトナム戦争とケネディ暗殺のシネマ学』 社会思想社 1995年
  • ロバート・D・モロー(著)、河合洋一郎(翻訳)『ケネディ暗殺 アメリカに殺されたJFK 』 原書房 1996年
  • 小池英夫『ケネディ暗殺事件見聞録』 ラ・テール出版局 1996年
  • 『週間 マーダーケースブック ケネディ暗殺』 デアゴスティーニ 1996年
  • 『週刊YEARBOOK 1963 昭和38年日録20世紀 ケネディ大統領暗殺! 』 講談社 1997年
  • サム&チャック・ジアンカーナ(著)、落合信彦(翻訳)『アメリカを葬った男』 光文社 1997年
  • ジョン・ニューマン(著)、浅野輔、池村千秋(翻訳)『オズワルド 「ケネディ暗殺犯」と疑惑のCIAファイル』 TBSブリタニカ 1997年
  • 宮本倫好『大統領たちのアメリカ 指導者たちの現代史』 丸善 1997年
  • フリッツ・スプリングマイヤー(著)、太田龍(翻訳)『イルミナティ 悪魔の13血流 世界を収奪支配する巨大名家の素顔』第6章 ベストセラーズ 1998年
  • ジョナサン・バンキン、ジョン・ウェイレン(著)、石谷尚子(翻訳)『「超陰謀」60の真実』 徳間書店 1998年
  • 落合信彦『決定版 2039年の真実』 集英社 1999年
  • 布施泰和『ジョン・F・ケネディ暗殺の動機』 近代文芸社 2000年
  • 藤本一美(編)『ケネディとアメリカ政治』 EXP 2000年
  • 奥菜秀次『ケネディ暗殺 隠蔽と陰謀』 鹿砦社 2000年
  • 柘植久慶『JFKを撃った男 テロリストの眼から暗殺のナゾを解く』 小学館 2000年(フィクション)
  • 柘植久慶『歴史を変えた「暗殺」の真相 時代を動かした衝撃の事件史』第42章 PHP研究所 2003年
  • 土田宏『秘密工作 ケネディ暗殺 天国からのメッセージ』 彩流社 2003年 ISBN 4-88202-855-7
  • 浜田和幸『黒いホワイトハウス 今なお消えぬケネディ家の呪い』 祥伝社 2004年
  • ウィリアム・レモン、ビリー・ソル・エステス(著)、広田明子(翻訳)『JFK暗殺 40年目の衝撃の証言』 原書房 2004年
  • バー・マクレラン(著)、赤根洋子(翻訳)『ケネディを殺した副大統領 その血と金と権力』 文藝春秋 2005年 ISBN 4-16-367680-5
  • エドワード・クライン(著)、金重紘(翻訳)『ケネディ家の呪い』 綜合社 2005年
  • 渡邉良明『J.F.ケネディvs.二つの操り人形 小泉純一郎と中曽根康弘』 熊本出版文化会館 2006年
  • マイケル・コリンズ・パイパー(著)、太田龍 (翻訳)『ケネディとユダヤの秘密戦争』 成甲書房 2006年
  • 『世界史未解決事件ファイル』第二章 PHP研究所 2006年
  • 『未解決事件の謎と暗号』第二章 青春出版社 2007年
  • 土田宏『ケネディ 「神話」と実像』第七章 中央公論新社 2007年
  • 奥菜秀次『捏造の世界史』第三章 祥伝社 2008年
  • 大澤正道『暗殺の世界史』 第九章 PHP研究所 2008年
  • ティム・ワイナー(著)、藤田博司、山田侑平、佐藤信行(翻訳)『CIA秘録』上 第3部 文藝春秋 2008年
  • ジョン・コールマン(著)、太田龍(翻訳)『新版 300人委員会(下)陰謀中枢の正体』第14章 成甲書房 2008年
  • 週刊『歴史のミステリー』5号(歴史検証ファイル ケネディ暗殺事件の首謀者は誰だったのか) デアゴスティーニ 2008年
  • 『週刊朝日百科 週刊昭和 2009年1月18日号』 「特集 ケネディ暗殺の衝撃」朝日新聞出版 2009年
  • 『歴史108のミステリー 暗殺・闇の真実』 コスミック出版 2009年
  • 『世界中が凍りついた疑惑の大事件』第三章 河出書房新社 2009年
  • 『ケネディ暗殺 暗殺の検証と最期の2日間』(DVD) コスミック出版 2009年
  • アーサー・ゴールドワグ(著)、住友進(翻訳)『カルト・陰謀・秘密結社大事典』 河出書房新社 2010年
  • 『検証 陰謀論はどこまで真実か』第三章 文芸社 2011年
  • 奥菜秀次『アメリカ陰謀論の真相』第三章 文芸社 2011年
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  • Jim Garrison A Heritage of Stone (Berkley Medallion; 4th printing edition ,1975)
  • Edward Jay Epstein The Assassination Chronicles: Inquest, Counterplot, and Legend(Carroll & Graf Pub 1992)
  • Alan J Weberman, Michael Canfield Coup d'Etat in America: The CIA and the Assassination of John F. Kennedy (Quick American Archives ,1992)
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  • L. Fletcher Prouty JFK: The Cia, Vietnam, and the Plot to Assassinate John F. Kennedy (Citadel Pr; Upd Sub, 1996)
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  • James H Fetzer(editor) The Great Zapruder Film Hoax: Deceit and Deception in the Death of JFK (Open Court Pub Co; illustrated edition, 2003)
  • Antoinette Giancana, John R. Hughes, Thomas H. Jobe JFK And Sam: The Connection Between the Giancana And Kennedy Assassinations (Cumberland House ,2005)
  • E Howard Hunt, Greg Aunapu American Spy: My Secret History in the CIA, Watergate, and Beyond (John Wiley & Sons Inc, 2007)
  • Steven Gillon The Kennedy Assassination 24 Hours After: Lyndon B. Johnson's Pivotal First Day as President (Basic Books, 2009)

関連項目

外部リンク