酒井調良

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酒井 調良(さかい ちょうりょう)は、出羽庄内藩の家老酒井了明の次男。農場経営者。荘内蚕糸業組合長。

人物

新品種「平核無(ひらたねなし)」(「庄内柿」)の栽培に成功し、庄内で初めて、林檎の栽培との飼育を始めた人物として知られている。

兄は、戊辰戦争で活躍した名将酒井了恒、弟は、漢学者の黒崎研堂である。

略歴

  • 1848年2月7日、庄内藩の家老酒井了明の次男として鶴岡に生れる。
  • 1864年、11代藩主酒井忠篤の近習となる。
  • 1867年、祖父(血統上は伯父)酒井右京の切腹に関連して職を辞する。
  • 1868年、戊辰戦争で新庄・秋田方面に出陣する。
  • 1872年、松ヶ岡開墾に参加し、その後屋敷内に桑を植えて養蚕業を開始する。
  • 1877年、馬渡山に住んで桑の栽培をさらに拡大する。
  • 1878年、兄の子酒井了敏が死去したため家督を相続する。
  • 1879年、屋敷内の畑で庄内で初めての林檎を栽培し、農芸手腕が認められて山形県勧業世話係に任命される。
  • 1880年、製糸会社盛産社を設立し横浜からの生糸輸出を始める。
  • 1888年、荘内蚕糸業組合長となる。
  • 1893年、農場経営をはじめ、新品種たねなし柿の栽培に成功し「調良柿」とよばれたが、原煕農学博士により「平核無」と命名される。
  • 1925年、「平核無」を、摂政官に献上する。その際に「庄内柿」の名が用いられ、以来庄内の名産品となる。
  • 1926年10月23日、死去する。享年79。

親族一族

関連項目

出典・参考文献

  • 『庄内人名辞典』 編纂・出版:庄内人名辞典刊行会