伴大納言絵巻
伴大納言絵巻(ばんだいなごんえまき,)は国宝の三巻もの絵巻である。日本の四大絵巻のひとつと言われる。
概要
平安時代後半である12世紀末に、後白河法皇の命令により、宮廷絵師・常磐源二光長が制作し、詞書は能書家の藤原教長が書いたと考えられている。1170年(嘉応2年)頃の制作と想定されている[1]。 866年(貞観8年)閏3月10日に起きた、応天門の炎上を題材とする絵巻物である。
物語構成
上巻
伴善男が時の左大臣源信の地位を狙い応天門に放火した上、左大臣源信の仕業であると清和天皇に讒言する。太政大臣の藤原良房は直ちに清涼殿に参じて事件の真相糾明を唱え、十分な調査をしたうえで、慎重な処分を行うように清和天皇に諫言した。
中巻
天の神に無実を訴える左大臣と真相暴露のきっかけとなった子供の喧嘩が描かれる。
下巻
放火現場の目撃者の舎人の召喚がなされ、厳しい取調べにより真相を自白した。応天門に放火し、罪を左大臣になすりつけ、伴善男大納言は大臣の地位に座ろうとしたことが判明する。流罪となった伴大納言は護送される。
絵巻の行方
蓮華王院宝蔵に収蔵されていたが、中世に若狭国遠敷郡の松永庄にあった「新八幡宮」という神社に「伴大納言絵詞」,「吉備大臣入唐絵巻」、「彦火々出見尊絵巻」の3点の絵巻が移された。 その後、「新八幡宮」から酒井家に召し上げられたようである。1634年(寛永11年)に酒井忠勝が若狭小浜へと加増転封された後に、その時の所蔵者(新八幡宮か)より献上されたと考えられる[1]。
元は一巻であったが、酒井忠勝が三巻に分断したと言われる。酒井忠勝は、1656年(明暦2年)5月26日に行われた将軍徳川家綱御成の際に本作を展示している。その後、1796年(寛政8年)まで酒井家家臣の武久家が所持したとされる。1796年(寛政8年)に小浜藩主9代藩主であった酒井忠貫が、武久家から召し上げて(預けていたものを戻して)城内に秘蔵させた。以後は、門外不出となったらしく、小浜藩主酒井家に代々伝わっていた。1880年(明治13年)上野の博物館(現、東京国立博物館)で行われた展覧会に出品され「観古美術出品目録」に記載される。1931年(昭和6年)に旧国宝に指定された当時は、伯爵酒井忠克所持であった。1951年(昭和26年))6月9日に新国宝に指定される。 1983年(昭和58年)5月2日、酒井家所蔵の国宝・伴大納言絵巻は、32億円で出光美術館に売却された。
美術
正確な風俗表現、洗練された筆致、群像や人物の描写、火炎表現、画面構成にすぐれているとされる。
サイズ
- 紙本着色
- 上巻 31.5×839.5cm
- 中巻 31.5×858.7cm
- 下巻 31.5×931.7cm
Wikipedia日本語版
- Wikipedia日本語版は「伴大納言絵詞」とするが、出光美術館は「伴大納言絵巻」とする。
- Wikipedia日本語版は「一時期、最上義光も所有したと言われ、その後武久昌勝が最上家より賜ったとの話が伝わる」とするが、これは「武久家系」(家系図)の「昌勝」の欄「繪巻物者賜二於最上家一焉、」を根拠とするものである。しかし最上家にあったものが武久に下賜され、それが酒井家に伝わったとするためには、最上家にどのように、いつ伝わったかを説明する必要がある。確実な根拠のある説にはみえない。酒井忠勝が大事な将軍御成の場で家臣所蔵の巻物を飾ることは不自然である。武久庄兵衛は酒井家で重用され、藩主忠勝に信頼されていたから、酒井忠勝が下賜した(または預けた)ものと考えられる。新八幡宮から最上義光に渡るということは経路として不自然にみえる。
文化8年(1811)に七代目庄兵衛昌生は、
寛政九丁巳年正月七日、於評定所被仰出者、先年差上置候所持之伴大納言絵巻物、御用相済御下ケ被遊候、右者此度禁裡御用ニ相立、 殊ニ被備天覧候処、叡感不斜、
と書かれており、酒井忠勝が下賜した可能性が高い。 酒井家の「御譲道具入日記]には次のように書かれる。
伴大納言絵巻物入 右武久内蔵丞方より、老衆エ預ケ被置候由、寛政九丁巳年七月朔日御宝蔵エ入置候様、御談にて小原操方より受取
すなわち酒井家が武久家に預けていたものであると書かれている。これは一度家臣に下賜したものを取り上げたとも解釈できる。したがって、伴大納言絵巻の所有者は次のように変遷したと考えられる。
- 蓮華王院宝蔵→新八幡宮→酒井忠勝→武久庄兵衛→酒井家→出光美術館