海部正秀
海部 正秀(かいふ まさひで、1852年2月15日 - 1921年1月30日)は、幕末・明治初期の尾張藩士、養鶏農家。海部七兵衛家の養嗣子。明治維新後、1872年から養鶏を開始。1882年頃、佐藤正重らと名古屋の上堅杉町に共同種鶏場を創設し、孵化や輸入した種鶏の販売をしていた。実兄・壮平とともに鶏種の改良に取組み、名古屋コーチンの原種にあたる海部種を作出したことで知られる。
経歴
尾張藩士
嘉永5年1月26日(1852年2月15日)、尾張藩士で藩の砲術師範をしていた海部左近右衛門家(に平井家から養子入りした父・左近右衛門と、母・者流(はる))の3番目の子(次男)として生まれる[1]。
安政7年(1860)2月21日、8歳のとき、尾張藩士で同姓の海部市郎の長女・そで(当時3歳)の婿として、同家に養子入り[2]。
慶應4年(1868)4月28日[3]、16歳のとき、義父・市郎が隠居し、家督を継承、尾張藩士となる(80石)[4][5]。当初、御本丸番に任ぜられたが、同月、役なしとなる。[5]。
同年9月の明治改元の後、同年10月、寄合組[5][4]。善次郎を名乗る[4]。
明治2年(1869)6月、17歳のとき、版籍奉還の後、永世禄17石5斗を与えられ、名古屋藩に仕える[6]。同年9月、一等兵隊[5][6]。
養鶏の開始
養子入りした後、屋敷内に鶏小屋を設けて鶏を飼い、明治5年(1872)には30-40羽の鶏を飼っていた。同年夏に感染症で鶏が大量死したが、1874年(明治7)に鶏舎を増築して放飼鶏200羽を買入れ、飼育を再開。[7]
1875年(明治8)に義父・市郎と長女・はつが死去[8]。
1882年(明治15)頃、士族・佐藤正重らと上堅杉町(名古屋市東区)に共同種鶏場をつくり、孵化のほか、輸入した新しい鶏を養鶏農家に販売していた[9]。
1888年(明治21)、佐藤正重らと6人で上堅杉町に「愛知養鶏場」を設立。淡色・暗色ブラマ、白色・褐色レグホーン、ウーダン、プリマスロック、ワイアンドット、ランシャン、黒色ミノルカ、スパニッシュなど、10種の輸入種鶏を飼育、品種改良をした。[10]
1921年(大正10)1月30日に死去。享年69。戒名「積翁正善居士」。[11]
- 海部には男子が3人あったが、長男が1893年(明治26)、三男が1899年(明治32)、次男が1913年(大正2)に死去。次男には男子が2人あったが、次男が1911年(明治44)、長男が1920年(大正9)に死去し、自身が死去したときは娘1人・孫1人だった[12]。
付録
関連文献
- 高橋徳次「名古屋種作出者海部翁を偲ぶ」『養鶏之日本』1931年7,8,9月号[13]
脚注
参考文献
- 入谷 (2000) 入谷哲夫『名古屋コーチン作出物語』ブックショップ「マイタウン」、ISBN 4938341972
- 藩士名寄 (NA) 『藩士名寄』第15冊(徳川林政史研究所蔵本)