呉清源

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呉清源

呉 清源(ご せいげん、1914年5月19日 - 2014年11月30日)は、囲碁棋士。日本棋院名誉客員棋士。勲三等旭日中綬章受章。2015年囲碁殿堂入り。

経歴

中華民国三年五月十九日、中国・福建省に生まれる[1]。父は呉毅(1892-1924)、母は張舒文(1992-1978)[2]。5歳から父に四書五経を学び、7歳のとき囲碁を教わる。幼少期から中国の北京碁界で天才棋童と言われる。1928年に、犬養毅大倉喜七郎の支援により14歳で渡日し、瀬越憲作名誉九段に入門。日本棋院では段位を決めるための試験碁が行われ、篠原正美四段に先で勝ち、本因坊秀哉名人に二子(二三二)で勝ち、村島義勝四段、前田陳爾四段らにも勝ち、1929年に飛付三段の段位を認められた。1930年から大手合に出場し、四段に昇進した。3年間に29勝3敗という成績を挙げ、1932年には18歳で五段に昇段する。1932年の時事碁戦で18人抜きを果たす。1933年に五段に昇段。

1933年時事新報主催で同じ五段で新進棋士として注目を浴びていた木谷実との十番碁を行う(第一次十番碁)。第6局まで3勝3敗となり、木谷が昇段したため中止となる。十番碁5局目打ち掛け後の夏、木谷は長野県の地獄谷温泉に呉を誘い、そこで中央重視の布石を研究した。後に『囲棋革命 新布石法』を刊行する。1933年、「日本囲碁選手権手合」の決勝で橋本宇太郎に勝って優勝し、10月に本因坊秀哉との記念碁を打つ。 1934年、六段に昇進する。日満華囲碁親善使節団の一員として、中国各地を回り。満州国皇帝・溥儀の御前で対局する。 1936年、肺浸潤の診断を受け、富士見高原療養所で休養生活をする。 1939年から1941年までかけて木谷との打込み十番碁(第二次十番碁)を打つ[3]。6局目まで呉の5勝1敗で先相先に打込み、6勝4敗で終了した。対局場に鎌倉の建長寺円覚寺鶴岡八幡宮などを使われたため、「鎌倉十番碁」と呼ばれた。1941年には瓊韻社の雁金準一と十番碁を互先で打ち、5局まで打って呉の4勝1敗で打ち切りとなった。1942年木谷とともに八段に進む。同年、喜多文子・六平太夫妻の媒酌で中原和子と結婚した。

1942年12月に藤沢庫之助六段と十番碁を開始(第一次)。7局目まで4勝3敗と勝ち越すが、藤沢が残りを3連勝し、1944年8月までで4勝6敗となった。戦後は、日本棋院を離脱して読売新聞と特約関係に入り,十番碁で一流棋士をことごとく打ち込んだ。 1946年、戦後の対局として、橋本宇太郎八段との十番碁が行われ、8局目まで6勝2敗で先相先に打込む。1948年には岩本薫本因坊との十番碁で、6局目までで5勝1敗で先相先に打込む。1941年雁金準一と打込み十番碁を開始し、翌年第5局まで4勝1敗となり、その後は打ち切りとなった。1949年、呉は日本棋院の六、七段の棋士との高段者総当り十番碁で8勝1敗1ジゴの成績を挙げた。 1950年日本棋院から九段に推挙された。 1952年、台湾の中国囲棋会から招待されて台湾を訪問し、大国手の称号を授与された。 1953年から1954年に坂田栄男八段と十番碁を打ち、8局まで6勝2敗と定先に打込んで終了した。 十番碁で当時のトップ棋士をすべて先相先ないし定先に打ち込み、第一人者として君臨した。 1955年、箱根仙石原から小田原に転居する[2]1958年、第1期日本最強決定戦で優勝した。 1961年、交通事故にあい、それ以降は深刻な後遺症に悩まされる。 1984年、2月24日に正式に現役引退。引退式はホテルオークラで行われ、記念の連碁に多数の棋士が参加した。 1985年、戦後初めて中国大陸を訪問し、父の墓参をする。 1987年、勲三等旭日中受賞を受ける。 1988年、日本文化囲碁代表団の名誉顧問として中国を訪問し、大歓迎を受けた。福州の祖父の墓を参拝した。 1992年、「二十一世紀の囲碁」に取り組み始める。 2014年、5月に満百歳の誕生日を迎える[4]。11月30日 老衰の為、小田原市内の病院で逝去。 2015年、遺族の許可を得て正式に囲碁殿堂入りした[5]

棋風

  • 変幻自在の棋風で神通の呉清源といわれた。
  • 抜群の戦績と華やかな芸風で、戦前から戦後にかけて「昭和最強の棋士」といわれた[6]

人物

映画『呉清源〜極みの棋譜〜』は2006年公開。呉清源の生涯を描いた伝記映画。原作は呉清源の自著『中の精神』[7]

長兄呉浣は満州国官吏となり、終戦直後に台湾に渡り米国で生涯を終えた。次兄呉炎は抗日戦を戦い共産党に入党し教師になるが、政治闘争の嵐に巻き込まれる)[2]1987年、勲三等旭日中授賞を受けた[2]1997年、中国の復旦大学が「呉清源杯大学選手権」を開催した[2]

本因坊秀哉との対局

本因坊秀哉との対局は読売新聞が「日本囲碁選手権」を開催し、優勝者に本因坊秀哉と対局させる企画であった。本因坊秀哉の還暦を祈念する対局でもあった。決勝戦では兄弟子の橋本宇太郎に勝った。読売新聞の社長である正力松太郎は橋本に握手しながら、「よく負けてくれました」と礼を言ったとされる[2]。 作家の坂口安吾は「呉氏がまだ五段の当時、時の名人本因坊秀哉と呉氏先番の対局をやった。この持ち時間、二十四時間だか六時間だか、とにかく、時間制始まって以来異例の対局で、何ヶ月かにわたって、骨をけずるような争碁を打ったことがある。この時は、打ちかけを、一週間とか二週間休養の後、また打ちつぐという長日月の対局だから、カンヅメ生活というワケにも行かない。呉氏良しという局面であったが、この時、秀哉名人が、一門の者を集めて、打ち掛けの次の打ち手を研究し、結局、前田六段が妙手を発見し、このお蔭で、黒の良かった碁がひっくりかえって、負けとなった。こういう風聞が行われているのである」と書いている[8](坂口安吾作品はパブリックドメイン(著作権フリー))。

呉清源には思い当たる節があった。すなわち問題の対局のある前日に日本棋院の副総裁であった大倉喜七郎が呉と木谷を呼んで食事をふるまった。その帰りがけに大倉は碁盤の1点を指して、「名人がもし、こう打ったらどうする?」と質問した。そのとき呉は素人の言うことだと耳に入らず、気に留めなかった。しかし翌日になり大倉の指摘したその1点に本因坊秀哉が石を置いた。呉は読んでみると、実にうまい手で驚いた。その1手からその碁に負けることになった。呉自身はそれほほど残念に思わなかったが、木谷は呉を食事に誘い慰め、師の瀬越は不満そうであった[2](pp.121-122)。

大国手

1952年、呉は台湾の囲棋協会から大国手の称号を授与された。当初は「棋聖」という称号であったが、呉は「聖」という文字は中国では孔子様にしか使わない尊い文字で、あまりに恐れ多いとして遠慮した。そこで台湾側は「大国手」という称号に変更した。国手は日本でいう名人である。同年8月に呉夫妻と呉清源のマネージャー多賀谷信之と女流棋士の本田幸子が同行し、台湾囲棋協会は空軍総長の周至柔が理事長、台湾銀行副総裁の応昌期、母の張舒文、長兄の碁浣、妹の呉清瑛が出迎えた。そこで呉清源と当時10歳の林海峰が六子局に指導碁を打った。結果は白の一目勝ちとなり、林は「世の中には強い人がいる」と思った[2](pp.284-286)。

門下生

  • 門下に林海峰芮廼偉
  • 呉清源九段を送る会で門下生の林海峰名誉天元は「きょうの私があるのは、呉先生のおかげ」と述べた[9]

参考文献

  1. 呉 清源>,日本棋院
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 桐山桂一『呉清源とその兄弟 呉家の百年』ISBN:4-00-022856-0,岩波書店,2005年4月20日
  3. 田中 恒寿「呉清源打込み十番碁と読売新聞」札幌大学総合論叢,Vol.40,pp.27-41,2015
  4. 呉清源100年の軌跡誠文堂新光社
  5. 呉清源九段、囲碁殿堂入り,産経新聞,2015-07-29
  6. 【甘口辛口】呉清源さんの死去とともに昭和はますます遠くなるサンスポ,2014-12-02
  7. 呉清源『中の精神』東京新聞出版局,ISBN:48083075102002
  8. 坂口安吾『呉清源論』坂口安吾全集17,筑摩書房,1990年
  9. 「献石」でお別れ、昭和最強の囲碁棋士・呉清源九段を送る会,産経新聞,2015-04-05