甲陽軍鑑
甲陽軍鑑(こうようぐんかん)は、甲斐国の戦国大名である武田氏の戦略・戦術を記した軍学書である。全59品。武田信玄・勝頼期の合戦記事を中心に、軍法、刑法などを記している。
概要
信虎時代の国内統一を背景に領国拡大を行った武田信玄を中心に、武田家や家臣団の逸話や事跡の紹介、軍学などが雑然と構成され、江戸時代には江戸をはじめ各地で読み物として親しまれた。
1582年(天正10年)に武田氏は織田・徳川連合軍の侵攻により滅亡したが、織田信長の死後、徳川家康が甲州を支配するようになり武田家の遺臣を用いる方針を取ったため、甲州流軍学が盛んになった。本書は甲州流軍学の聖典とされ、江戸時代には出版されて広く流布し、『甲陽軍鑑評判』などの解説書や信虎、晴信(信玄)、勝頼の三代期を抽出した片島深淵子『武田三代軍記』なども出版された。江戸期の講談や歌舞伎をはじめ、明治以後の演劇や小説、映画、テレビドラマ、漫画など武田氏を題材とした創作世界にも取り込まれ、現代に至るまで多大な影響力を持っている。
現在、酒井憲二『甲陽軍鑑大成』や磯貝正義・服部治則注『甲陽軍鑑』などの諸本がある。
作者
武田信玄・勝頼期に仕えた武将・香坂弾正忠虎綱(高坂昌信)が(勝頼在世中の)天正3年・5年に書いた実録を香坂の甥・春日惣次郎らが書き継いだ、という体裁になっており、天正14年5月の日付で終っている。
近代以降の史料批判により、香坂の実録ではなく、小幡景憲(甲州流軍学の創始者)が香坂らの名を借りて作成したもの、という説が有力視されてきた。近年、国語学者の酒井憲二によって、語法などの分析がなされ、江戸時代以前の用法が見られることから、春日惣次郎の下書きを小幡景憲が編纂した可能性が高いという説も唱えられている。
評価;偽書説
肥前平戸藩主の松浦鎮信の著で、元禄9年(1696年)頃の成立の武功雑記によると、山本勘介の子供が学のある僧となり、父の事跡を高坂弾正の作と偽り甲陽軍鑑と名付けたつくりものと断じている。武功雑記は、国史大事典に信憑性の高い書物と評価されている。
常山紀談にも、甲陽軍鑑虚妄多き事、と記述されている。
軍鑑は江戸時代から合戦の誤りなどが指摘されており、明治時代以降、歴史学者の田中義成らによって徹底的に批判され、史料的価値は低くみなされ、学術論文に引用することはタブーとさえ言われてきた。また、戦後の実証的武田氏研究においても他の同時代史料や、近年発見された『勝山記』との対象からも誤りが多いことが指摘されていた。
軍鑑では、武田勝頼とその周辺に対しては不当に貶められいると指摘され、例えば長坂光堅は勝頼をたぶらかし、武田氏滅亡時には真っ先に勝頼を見捨てた奸臣であると記述されているが、他の史料では勝頼を最後まで守って天目山で没している。
再評価
近年は、武田氏研究会に所属する山梨大講師の平山優、静岡大教授の小和田哲男、国語学者の酒井憲二、立正大教授の黒田日出男などの実証的研究の立場からも軍鑑を再評価する動きもある。黒田日出男は、古文書が偽物であるとまで言っている。
関連項目
- 山本勘助 甲陽軍鑑に登場する軍師