沖縄戦
沖縄戦 | |
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沖縄南部を占領した米軍 | |
戦争:大東亜戦争 / 太平洋戦争 | |
年月日:1945年3月26日-6月23日 | |
場所:沖縄本島および周辺島嶼、海域 | |
結果:アメリカ軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | アメリカ合衆国 オーストラリア カナダ ニュージーランド イギリス |
指揮官 | |
牛島満陸軍中将 長勇陸軍中将 大田実海軍少将 |
サイモン・B・バックナー ブルース・フレーザー レイモンド・スプルーアンス ジョセフ・スティルウェル |
戦力 | |
116,400人 | 548,000人 |
損害 | |
死者・行方不明者 94,136人 民間人死者 94,000人 |
死者・行方不明者 12,520人 戦傷者 72,012人 |
沖縄戦(おきなわせん)とは、大東亜戦争(太平洋戦争)末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦。これは民間人を巻き込んだ日本国内での最大規模の地上戦であり、また日米最後の大規模戦闘となった(国内唯一の地上戦と言われる事もあるが、硫黄島の戦いや占守島の戦い、南樺太での戦闘があるため、厳密に言えば誤りである)。
沖縄戦は1945年3月26日から始まり、組織的な戦闘は6月23日で終了した。
アメリカ軍の作戦名はアイスバーグ作戦(英:Operation Iceberg、氷山作戦)。大規模な戦闘は沖縄島で行われた。米軍の作戦目的は本土攻略のための航空基地・補給基地の確保であり、日本軍のそれは当時想定されていた本土決戦[1]への流れの中に位置づけられる[2]。
沖縄戦での全戦没者は20~24万人とされ、その内、沖縄県の一般住民の戦没者は公式には9万4千人[3]とされているが、研究者による15万人以上という推計値もある。
目次
概要
沖縄戦とは第二次世界大戦における、日本国内での最大の地上戦である。民間人が多く参加、ないし巻き込まれたのもこの戦闘の特徴である。主戦場は沖縄本島およびその周辺の島々である。なお、それ以外の地域では陸上戦はおこなわれなかったものの、空襲や戦争マラリアなどによる死者を出している。
日本軍は水際迎撃を避けて、持久戦闘を基本方針として戦った。特に首里(現那覇市の一部)北方で激戦となった。沖縄諸島周辺の海上でも、神風特攻隊を中心とした日本軍航空部隊などと、連合軍艦隊の間で戦闘が行われた。上陸後2ヶ月経った1945年5月末に、連合軍が首里を占領した。日本軍は南部に後退したが、6月下旬までに組織的戦力を失った。掃討戦は終戦まで続いた。
沖縄県生活福祉部援護課の1976年3月発表によると、日本側の死者・行方不明者は18万8136人で、沖縄県出身者が12万2228人、そのうち9万4000人が民間人である。日本側の負傷者数は不明。アメリカ軍側の死者・行方不明者は1万2520人で、負傷者7万2千人であった。
使用された銃弾の数は、アメリカ軍側だけで2,716,691発。このほか、砲弾6万18発と手榴弾392,304発、ロケット砲弾20,359発、機関銃弾約3,000万発弱が発射された[4]。また、地形が変わるほどの激しい艦砲射撃が行われたため、この戦闘を沖縄県では鉄の雨や鉄の暴風(英:Typhoon of Steel)などと呼ぶ。[5]
沖縄戦の背景
日本軍の戦略
太平洋戦争で日本の劣勢が明確になると、アメリカ軍の日本本土への侵攻が予想された。その際、アメリカはまず沖縄本島を占領して前線基地とすることが考えられたため、日本はそれに対抗すべく1944年(和暦??年)2月、沖縄守備軍(第32軍)を編成、司令官には渡辺正夫中将が任命された。島全体を航空基地として航空機によって抗戦する予定で、当初の主な任務は飛行場建設であり、警備程度の兵力であった。4月には、海軍の沖縄方面根拠地隊が置かれるとともに、九州-沖縄県間の航路防衛を任務とする第4海上護衛隊が創設され、沖縄県方面への軍需輸送や本土への住民疎開船団の護衛を担当することとなった。しかし、これらの海軍部隊も防衛戦力というよりは、後方組織としての性格が強かった。
1944年7月のサイパン島玉砕という事態に大本営は司令部人事を一新し、新司令官に牛島満中将を任命した。ようやく沖縄県方面の兵力増強に努め、第9師団をはじめ本島に3個師団と1個旅団、第五砲兵司令部(和田孝助中将。第32軍直轄の大砲400門以上を指揮する。)を置いた。和田孝助中将は砲兵術の権威と知られ、敵上陸に際して砲兵部隊に援護された精鋭3個師団が水際から米軍を追い落とせると自信を深めた。石垣島などにも1個師団以上が置かれた。しかし、本島のうち第24師団は装備・訓練は行き届いていたが実戦経験が無く、また独立混成第44旅団は輸送中に輸送船富山丸がアメリカ軍潜水艦に撃沈される[6]など、先行きを不安視する部分もあった。
第9師団は精強・練達で知られており、第32軍の中核となる予定だった。ところが、レイテ決戦のために台湾駐留部隊が動員されると、穴埋めに沖縄から1個師団を台湾へ転用するとの方針が大本営で決定され、やむなく第32軍は第9師団の転出を決めた[7]。これで兵力の三分の一近くが失われ、第32軍は積極作戦から持久作戦への転換を余儀なくされる。更に補充兵力として第84師団の増援が通知されたが、その直後に中止されるという事態がおこり、第32軍と大本営の間で不信感と作戦・用兵思想に溝が生じ、その後の作戦に支障をきたす事となった。他方、大本営の戦略的見地から見ると、当時の連合軍の侵攻状況からは台湾を経由しての中国南部への上陸が予想されており、台湾の喪失はひいては南方との考えうる唯一の補給線にも影響するため、台湾の防衛も重要だった。また、補充部隊を海上輸送しようにも、海上護衛兵力が不十分で輸送中に消耗する危険が大きかった。
最終的な陸軍の沖縄守備軍の数は86,400人で、このほかに海軍陸戦隊が約10,000人弱、学徒隊などが20,000人で、総計116,400人がいた。なお、陸軍の戦闘員にも、兵力不足から現地で急ぎ調達された予備役などが多く含まれ、全戦闘員中約2万人は現地で召集された17歳から45歳までの者であった。
昭和20年に入り、米軍の沖縄上陸が必至な情勢となった時、沖縄防衛の第32軍司令部は、戦闘の支障にならないように、また軍民一体となった「玉砕」を防ぐために、島内に残っている老幼婦女子を半強制的に北部山岳地帯に疎開させようとした。多くの人々はわずかな食糧と身のまわりの品を持って避難をしたが、それでも激戦地になるであろう中南部には数10万人の住民が避難せず踏みとどまっていた。これは、台湾沖航空戦の誤報による影響が大きいとされる。
連合軍の戦略
連合軍は、沖縄本島の存在について、日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点にもできる島と考えていた。また、沖縄諸島の基地化により、日本の南西方面の海上航路・航空路を遮断することもできると見ていた。他方、連合軍がフィリピンへ侵攻した場合には、日本軍の反撃拠点となりうる島であるとも警戒していた。
1944年8月時点での連合軍の戦略では、沖縄本島よりも先に台湾を攻略することが計画されていた。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄県のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦については具体的な検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官にはアメリカ陸軍のバックナー(en:Simon Bolivar Buckner, Jr.)中将が決まっていた。
ところが、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰上げが決まり、フィリピンでの泊地確保もより早く行える可能性が出てくると、アメリカ海軍のニミッツ提督らは台湾攻略以外の選択肢について再検討を始めた。アメリカ陸軍も、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できると考えて、台湾攻略中止に同調した。そして、新たな日本本土空襲の拠点を求めていたアメリカ陸軍航空軍が、台湾の代わりに沖縄本島を攻略することを提案し、検討の結果、10月5日に沖縄攻略作戦の実施が決定された。計画では10月20日のレイテ島上陸、12月20日のルソン島上陸、翌1945年1月20日の硫黄島占領に続いて、3月1日に沖縄諸島へと上陸することとなった。バックナー中将は、台湾上陸部隊の司令官から、そのまま沖縄上陸部隊の司令官へと任務が変更された[1]。
さっそくレイテ島への侵攻作戦に着手した連合軍は、事前に日本軍の反撃戦力を削る航空撃滅戦として沖縄県周辺や台湾などを攻撃した。10月10日、アメリカ軍機動部隊が沖縄県などに対して大規模な空襲を行い、沖縄県周辺所在の日本軍航空機や艦船は大きな打撃を受けた(十・十空襲)。
1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略と硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。こうして、当初計画よりはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった。
日本軍の配置
陸軍
- 第32軍司令部(司令官:牛島満中将(戦死後、大将に進級))
- 第24師団(師団長:雨宮巽中将) - 歩兵第22連隊・第32連隊・第89連隊基幹
- 野戦重砲兵第42連隊 - 配属
- 第62師団(師団長:藤岡武雄中将) - 歩兵第63・第64旅団基幹
- 賀谷支隊(支隊長:賀谷與吉中佐) - 歩兵第63旅団の1個大隊基幹
- 独立混成第44旅団(旅団長:鈴木繁二少将) - 第2歩兵隊・独立混成第15連隊[8]基幹
- 第5砲兵団司令部(司令官:和田孝助中将) ‐ 野戦重砲兵第42連隊を除く全砲兵隊を指揮下に置いた。
- 戦車第27連隊 ‐ 戦車第2師団の師団捜索隊を改編。1944年7月、第32軍に編入。
このほか、先島集団(宮古島に第28師団及び独立混成第59・第60旅団。石垣島に独立混成第45旅団)、大東島守備隊(第28師団の一部)、奄美守備隊(独立混成第64旅団)といった部隊がアメリカ軍による上陸を想定して配置された。しかし、アメリカ軍が上陸しなかったため、地上戦闘はおこなわれなかった。第32軍司令部の壊滅後、先島集団は台湾の第10方面軍の直轄下に入り、奄美守備隊は九州の第16方面軍隷下となった。
海軍
戦闘推移
事前攻撃
アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母12隻を中心とした第58任務部隊を日本本土へと差し向けた。第58任務部隊は1945年3月18日以降、九州や瀬戸内海周辺の飛行場や艦隊などに対し空襲を開始した。これに対して日本軍は、海軍の第5航空艦隊を中心に反撃を行った。4日間の戦闘で、日本軍は空母3隻の撃破に成功したものの、第5航空艦隊は戦力の過半を失ってしまった(九州沖航空戦)。アメリカ艦隊の損害は、イギリス軍機動部隊の合流により回復することができた。
沖縄本島への侵攻作戦の可能性が高いと判断した大本営は、3月20日に天号作戦を下令した。現地の第32軍も24日に警戒度最高の甲号配備を発令した。
3月23日、第58任務部隊は沖縄県周辺に対する本格空襲を開始し、初日だけで延べ2000機を出撃させた。翌日には第59任務部隊の戦艦5隻などが本島南部に対する艦砲射撃を行い、上陸予定地点の掃海作業も始められた。このほか日本軍の反撃を妨害する目的で、アメリカ軍はB-29爆撃機による機雷投下を関門海峡などに行っている(飢餓作戦)。艦艇1500隻、輸送船450隻、兵員54万8000人(うち上陸部隊18万人)の攻略部隊もサイパン島やレイテ島から続々と出発し、沖縄洋上に集結した。
慶良間諸島の戦い
3月24日、沖縄戦開始初頭の夜間強行偵察で飛来した、岩本徹三少尉が単機で慶良間諸島に遊弋する米軍艦艇を銃撃し、大損害を与えた。このことは、慶良間海洋文化会館の記録と、岩本の手記とで一致している。日本軍守備隊があっけなく撃破され、島民が自決を迫られるなか、勇敢な日本の飛行機がたった1機で米軍に挑む姿が、今なお記憶に留められている。
3月26日、アメリカ軍は慶良間諸島の座間味島など数島を占領し、作戦拠点となる泊地や水上機基地などを設置した。日本軍はこれらの島への初期侵攻を想定していなかったため、地上部隊をほとんど配備しておらず、本島防衛任務の特攻艇マルレ部隊である陸軍海上挺進戦隊3個などだけが存在していた。第32軍司令部は出撃困難と見てマルレの処分を命じ、すでに事前空襲で300隻のマルレの多くを地上撃破されていた各部隊はこれに従って島の奥へ後退した。慶留間島の4隻のみが出撃して、うち2隻が攻撃後に本島へ生還した。
連合艦隊は、天号作戦のうちの沖縄防衛計画である天一号作戦を発動して第3航空艦隊などを九州方面へ移動させるとともに、戦艦大和を中心とした第一遊撃部隊、回天特攻「多々良隊」(潜水艦4隻)にも出撃準備を命じた。陸軍も航空総攻撃の態勢に入った。これらの大規模攻撃以外に27日には最初の沖縄本島発の特攻機が出撃するなど、散発的な航空反撃が行われていた。29日には本島配備の海上挺進第29戦隊のマルレ19隻が出撃し、中型揚陸艦1隻を撃沈した。
3月31日、アメリカ軍は慶伊瀬島に上陸し、そのうち神山島に野戦重砲24門を展開させて那覇への砲撃を開始した。
米軍の上陸
4月1日、アメリカ軍は、守備陣の薄い本島中西部で、陸軍2個師団と海兵2個師団による上陸を開始した。北飛行場(読谷村)と中飛行場(嘉手納町)の占領が第一目標とされた。戦力で劣る日本軍は、戦力を宜野湾以南に結集して持久作戦をとる方針であったために、これらの中西部沿岸地域にはほとんど守備兵を置いていなかった。日本軍が水際作戦を放棄したため、米軍はその日のうちに北・中飛行場を確保、4月5日までには中部(現うるま市石川周辺)の東海岸までを占領した。これにより、第32軍は沖縄本島南北に分断された。
第32軍の持久戦方針による早期の飛行場の喪失は、大本営や海軍中央から消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされた。米軍の沖縄本島上陸前からの不信が戦いの最中に露見する結果となった。度重なる大本営や海軍の飛行場再確保の要請は第32軍司令部を混乱させ、第32軍内部でも積極反撃すべきか激論が交わされた。4月4日には、長第32軍参謀長主導で攻勢移転が一時決定されたが、島南東部の港川方面への連合軍上陸部隊接近との報告により、中止された。この港川方面への上陸部隊は、陽動作戦任務のアメリカ第2海兵師団で、実際には上陸はしなかった。
4月6日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、連合軍艦隊・船団に対して開始した(菊水作戦)。海軍による菊水一号作戦には約390機、陸軍の第一次航空総攻撃には約130機が投入された。さらに海軍は、戦艦大和以下の第一遊撃部隊も出撃させた。特攻機などの攻撃により連合軍艦艇6隻が撃沈されたが、他方で日本軍機は200機以上が失われ、大和も撃沈される結果となった(坊ノ岬沖海戦)。それでも日本軍は、以後も特攻機を中心とした攻撃を続行した。この空海からの反撃にあわせて、第32軍も再び総攻撃実施を決定していたが、またも港川方面への陽動部隊接近に惑わされ出撃を中止した。
北部の戦い
日本軍第32軍の作戦計画では南部を主戦場とすることになっていたため、北部(国頭地区)には独立混成第44旅団の第2歩兵隊主力(1個大隊)程度しか配備されていなかった。これに対してアメリカ軍は第6海兵師団を主力として攻撃をかけた。八重岳などの山地帯に拠って日本軍は抵抗したが、4月18日に本部半島突端に達し、22日までに制圧が完了した。
第6海兵師団の損害は戦死・行方不明243人、負傷1061人であった[2]。なお、北部は住民の避難地域に指定されていたため推定15万人の住民が県内疎開してきており、そのままアメリカ軍の管理下に入ることとなった。ただし、北部にいた住民のうち、かなりの者はアメリカ軍の北上後に山中に逃れて南進し、すぐには収容所に入らなかった[9]。
4月16日に、アメリカ軍第77歩兵師団は、本島の北西海上に浮かぶ伊江島に飛行場を設置するため上陸した。伊江島には独立混成第44旅団第2歩兵隊第1大隊650名を基幹とする日本軍守備隊2000人(約半数は現地召集の特設部隊)が配置されていたほか、陸軍飛行場も存在したが、連合軍の上陸が迫った3月に飛行場は破壊放棄されていた。島民は人口8000人のうち5000人が残留していた。日本軍は島民多数とともに抵抗し激戦となったが、21日までに全島が占領された。
アメリカ軍によれば、日本側は民間人多数を含む4706人が戦闘により死亡し、149人が捕虜となった。アメリカ軍は218人が戦死または行方不明となり902人が負傷したほか、戦車・自走砲5両完全喪失などの大きな物的損害を受けた[3]。アメリカ軍の戦死者の中には、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルも含まれていた。アメリカ軍は、伊江島飛行場の本格使用を5月10日に開始した。
首里戦線
南部の日本軍は賀屋支隊を主体として、島袋方面から嘉数陣地へ遅滞行動をとりつつアメリカ軍を誘導した(嘉数の戦い)。アメリカ軍は首里(現那覇市の一部)の司令部を目指して南進するが、途中の宜野湾市付近には守備軍が丘陵地形と地下壕を利用した陣地で構え、進軍してくるアメリカ軍を何度も撃退した。賀屋支隊をはじめ、主陣地を守備した第62師団、第2線陣地を守備した第24師団の歩兵第22連隊などが激しい抵抗を見せている。戦闘は約50日間続き、この遅滞作戦は一定の成功を収めた。この間、4月12日には日本軍の夜間攻撃が行われたが、第62師団の1個大隊が全滅するなどかえって消耗が早まった。
4月9日、船舶工兵第26連隊の決死隊50人が神山島に潜入し、野戦重砲陣地の破壊を報じた。これに合同して海上挺進第26戦隊のマルレ40隻が出撃し、駆逐艦1隻を撃沈した。その後も、4月中に延べ60隻以上のマルレが出撃し、若干の小型艦艇を撃破している。
5月4~5日に、日本軍は反転攻勢に転じた。第32軍は、温存していた砲兵隊に砲撃を開始させ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出して普天間付近までの戦線回復を図った。船舶工兵第23、26連隊と海上挺進第26~29戦隊は、舟艇で海上を迂回しての逆上陸を試みた。本土の日本軍も、菊水五号作戦と第六次航空総攻撃を実施して掩護した。しかし、この総反撃は大打撃を受けて失敗し、日本軍は継戦能力を一気に喪失した。火砲や戦車の大半が破壊され、第32軍の戦死者は7000人に及んだ。第32軍の八原高級参謀はこうした結果になることを予想し、総攻撃実施には反対していた。
5月12日~18日にかけては、北部戦線より転進したアメリカ軍の第6海兵師団が、安謝川を渡り、首里西方の安里付近の高地で日本軍の独立混成第44旅団配下の部隊と激しい攻防戦を繰り広げた(シュガーローフの戦い)。アメリカ軍は著しい損害を受けるも一帯を制圧し、日本側は首里の防衛も困難な状態となった。この危機に大本営は、菊水七号作戦を発動し、制空権確保のために空挺部隊を飛行場に突入させる義号作戦も行ったが、戦況を動かすことはできなかった。
5月24日、第32軍司令部は南部島尻地区への撤退を決定。5月27日に津嘉山、30日にはさらに本島南端の摩文仁(まぶに)に撤退して新たな防御陣をたてた。この時点で第32軍は戦力の80パーセントを消耗していた。31日までにアメリカ軍は首里市を占領した。
日本軍守備隊の壊滅
- ↑ 本土決戦は1945年1月の『帝国陸海軍作戦計画大綱』、『決戦非常措置要綱』等を元に1945年後半を想定して決戦準備がなされていた。
- ↑ 沖縄戦は本土決戦への時間稼ぎ、いわゆる「捨石作戦」(出血持久作戦)であったといわれる[4]。
- ↑ 沖縄県生活福祉部援護課が1976年3月に発表
- ↑ 数値は、ジョージ・ファイファー『天王山』による
- ↑ 日本語の呼称鉄の暴風は、1950年に刊行された沖縄タイムス社編『鉄の暴風』に、英語での呼称the Typhoon of Steel(鉄の台風の意味)はベローテ兄弟の同名の著書にちなむ。
- ↑ 4000人近くの将兵が死亡し、目的地に到達したのは約600人だった。
- ↑ 第9師団は1944年12月中旬から翌45年1月中旬にかけて台湾へ移動していった。
- ↑ 旅団の海没による損失を受け、1944年7月に空輸により急遽補充された。
- ↑ 豊田純志「『読谷村戦没者名簿』からみた戦没状況」『読谷村史 第5巻』