ポンチアナク州

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ポンチアナク州(ポンチアナクしゅう)は1942年に蘭領ボルネオを占領した日本海軍カリマンタン島の西部地区に設置した行政区域[1]。州都はポンティアナク市に置かれた。州内には12のスルタン領と政府の直轄地があったが、占領期間中にポンティアナク事件で州内のスルタンは日本軍に全員殺害され、終戦まで継位も行われなかった。

占領

日本軍は、1942年1月29日に西カリマンタン(旧蘭領ボルネオ西部)の全域を占領[2]。旧蘭領ボルネオには海軍民政府ボルネオ民政部が設置され、西部地区にはポンチアナク民政部支部、のちポンチアナク州知事庁が置かれて、海軍による占領地行政が敷かれた[3]

人口

当時の人口は推定200万人で、うち華人は約20万人[4]

スルタン殺害

州内は12のスルタンの領地と政府の直轄地に分かれていたが[4]ポンティアナク事件で1944年10月頃までに[5]日本軍にインドネシア人・華人約5,000人が殺害されており、スルタンも事件で全員殺害されていて、現職者は1人も残っていなかった[4]

1945年5月に、現地住民の官吏の中で最高位の係長だったアシキンから州知事庁に対して、スルタン・ポンティアナクの一族に成年に達した男子が出たため、スルタンの就任を認めるよう要請があり、政務課長だった三ツ井卯三男海軍警備隊岡島隊長とも相談して認めることにしたが、即位が実現したのは終戦後の1945年9月2日になってからだった[4]

機構と幹部

補佐官として各省からベテラン職員が配置され、現地人の職員を統括した[6]

州知事

課長

第1科(政務)[10]
第2科(経理財政)[10]
  • 宮沢弘海軍主計中尉(のち大尉)(1944年5月31日 - 引揚げまで)[14]
第3科(警法務)[10]
  • 山本某 司政官[6]
  • 石井正生 司政官(1944年5月31日 - 1945年5月29日死去)[15]
第4科(文教)[10]
  • 村井忠一 司政官(1943年10月 - 1945年2月)[16]
  • 林 司政官[6]
第5科(税務)[10]
  • 所猛雄 司政長官[17]
第6科(衛生)[10]

科長兼ポンチアナク病院

  • 到津某 司政官[6]
  • 鈴木某 医師[18]
  • 渡辺六郎 医師(1944年5月31日 - )[19]
農林部局[10]

農林課は、ポンチアナクに農業実務学校を開設し、農業教育を行った[20]

  • 河野宰治 技師(1943年2月22日 - )[21][6]
商工部局[10]
  • 石田某 司政官[8]
交通課

交通課は、船舶・道路の交通関係ならびに維持・修繕を担当していた。ポンチアナク桟橋の改築、スンガイ・ドリアンの道路改良工事、日本軍が進駐当時破壊した橋梁等の復旧工事を行い、ポンチアナク飛行場(スンガイ・ドリアン飛行場?)の開設工事(民政府の直轄事業)にも関与した。1944年に「土木課(第6課)」に改称。[22]

  • 三成某 中尉(1943年2月22日 - )[23][6]
通信課

通信課は全州内の郵便・電報・電話業務の運営管理を主として、日本人の通信の検閲も行っていた[6]

  • 畔津武雄 司政官(1943年4月20日 - )[24]
放送局
  • 松田某 司政官[6]
郵便局
普通中学校
  • 村川澄(1944年5月以降 - 引揚げまで在任)[26]
工業実務学校
  • 友町次郎(1944年10月頃在任)[27]
農業実務学校
  • 飯島忠康(1944年10月頃在任)[27]
教員養成所
  • 赤松四郎(1944年10月頃在任)[27]
ポンチアナク市長
  • 平塚道雄(1943年12月頃 - )[28]

分県

付録

脚注

  1. 赤道会 1975 序,68
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 2.7 2.8 2.9 赤道会 1975
  3. 赤道会 1975 序,23
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 赤道会 1975 68
  5. 赤道会 1975 5,68。同書p.68に三ツ井卯三男が着任した時点の話としてあり、同書p.5に三ツ井の到着は1944年10月17日とある。
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 6.5 6.6 6.7 6.8 赤道会 1975 4
  7. 赤道会 1975 76
  8. 8.0 8.1 赤道会 1975 4,32
  9. 赤道会 1975 5,66,68
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 10.6 10.7 赤道会 1975 71
  11. 赤道会 1976 21
  12. 赤道会 1975 4,72
  13. 赤道会 1975 4,5,66,68,72
  14. 赤道会 1975 69,72,81-82。同書p.69は、赴任は海軍記念日当日(5月27日)、役職を第3科長としている。同書p.72によると、第2科(経理財政)長で、当時は中尉。同書pp.81-82によると、5月31日に水艇でバンジェルマシンを出発し、同日昼に小カプアス河に着水。
  15. 赤道会 1975 69,72,73,74,81-82
  16. 赤道会 1975 4,5,71
  17. 赤道会 1975 66,72
  18. 赤道会 1975 82
  19. 赤道会 1975 69,72,81-82
  20. 赤道会 1975 6
  21. 赤道会 1976 13
  22. 赤道会 1976 27
  23. 赤道会 1976 13,27
  24. 赤道会 1975 3,4
  25. 赤道会 1976 33
  26. 赤道会 1975 5,45,66
  27. 27.0 27.1 27.2 赤道会 1975 5
  28. 赤道会 1975 57-58
  29. 赤道会 1976 39
  30. 赤道会 1975 18
  31. 赤道会 1976 70
  32. 赤道会 1975 25
  33. 赤道会 1975 24

参考文献

  • 赤道会 (1976) ポンチアナク赤道会『続赤道標』JPNO 73015036
  • 赤道会 (1975) ポンチアナク赤道会『赤道標』JPNO 73012073