斎藤弥平太
テンプレート:参照方法 斎藤 弥平太(さいとう やへいた、1885年9月28日 - 没年不詳)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
1885年(明治18)9月28日、香川県三野郡上高野村に、農業・斎藤浜太郎の次男として生れる。
旧制香川県立三豊中学校(第1回)を経て、1907年(明治40)5月、陸軍士官学校(19期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官し、歩兵第12連隊付となる。
1914年(大正3)11月、陸軍大学校(26期)を卒業。参謀本部付勤務、第18師団参謀、参謀本部員などを歴任。
1923年(大正12)5月から12月まで欧州に出張した。
1925年(大正14)8月、朝鮮軍参謀となり、参謀本部員(動員班長)、参謀本部付(陸大専攻学生)、陸大教官などを歴任。
1930年(昭和5)8月、歩兵大佐に昇進し、陸軍省整備局統制課長に就任。
1932年(昭和7)8月、関東軍参謀となり、歩兵第6連隊長に就任。
1935年(昭和10)3月、陸軍少将に進級し、歩兵第28旅団長となる。
1937年(昭和12)3月、第1師団司令部付となり、第4独立守備隊司令官に就任。1938年(昭和13)3月、陸軍中将に昇進。同年11月、第101師団長に親補され、日中戦争に出征した。
1939年(昭和14)11月、留守第1師団司令部付となり、参謀本部付、陸軍兵器本部長を歴任。
1942年(昭和17)7月、第25軍司令官となった。第25軍のスマトラ移駐問題で南方軍総参謀長・黒田重徳との間に確執があり[1]、1943年(昭和18)4月、参謀本部付となり、翌月、予備役に編入された。
1943年(昭和18)8月、朝鮮総督府指導者養成所長に就任。
1944年(昭和19)7月、満州拓殖公社総裁となり終戦を迎えた。
1946年(昭和21)5月14日、紅軍に抑留された後、消息不明となった。
1953年9月28日に戦時死亡宣告がなされた。
親族
- 妻 斎藤雪 平田時丸(陸軍大佐)の娘
- 弟 斎藤秀彦(海軍機関大佐)
- 娘婿 山口立(陸軍少佐・陸上自衛隊富士学校校長)・岡野一武(陸軍少佐)
- 娘 山口泰子(山口立の妻)
- 孫 山口建史(靖国神社宮司)
付録
脚注
- ↑ フォーラム 1998 676-677
参考文献
- 中井虎男『回想三豊中学』三秀社、1969、NCID BA31459961
- 外山操(編)『陸海軍将官人事総覧』〈近代日本軍事組織・人事資料総覧〉芙蓉書房、1981、JPNO 81043137
- 四国新聞社『香川県人物・人名事典』四国新聞社、1985、ISBN 4915604071
- 四国新聞社「斎藤弥平太 寺内寿一元帥と対立」四国新聞社編『男たちの青春』〈讃岐人物風景18〉丸山学芸図書、1988、NDLJP 9576437/118 、231-233頁
- 山口立(編)『追憶 - 斉藤弥平太』山口立、1994、JPNO 95011017
- フォーラム (1998) 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム(編)『日本の英領マラヤ・シンガポール占領 : 1941~45年 : インタビュー記録』〈南方軍政関係史料33〉龍溪書舎、ISBN 4844794809
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001、ISBN 4829502738
- 秦郁彦(編)『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005、ISBN 4130301357