女装

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女装(じょそう)とは、それぞれの文化によって「女性用」と規定されている衣服・装飾品を男性が身につけ、これによって外見の衣装上は女性の姿になることを云う。男性の異性装である。

歴史

女装は、世界的に見て、歴史時代の記録からは、いずれの文化や社会においても存在した。なぜ女装するのかの理由は様々であっても、女装が存在したことは事実である。

例えば、古代ギリシアにおいては、英雄アキレウストロイア戦争に参加すれば必ず戦死するとの予言があった為、アキレウスが戦争に加わるのを防ぐため、彼を女装させて娘たちのなかに置き、隠蔽しようとしたとする挿話がギリシア神話で伝えられている。また古代ローマでも、『サテュリコン』などが伝える性風俗として、少年が女装して売春を行っていたことなどが記されている。

古代エジプトオリエントには宦官制度が存在し、男性の衣装とは異なる特別な服装で、女装に近い姿であった。中国にもまた歴史のほぼ全時期を通じて宦官が存在し、女装に近い独特な衣装であった。中国では、古代より女装した若い男性や青少年の男色売春が盛んで、纏足が女性の一般な風俗であった朝の時代にあっても、巧妙な偽装によって纏足しているかのような外見を作り、女装する男性が多数に昇ったことが記録に残っている[1]

日本での女装の歴史

日本において女装というものが、いつ頃から始まったのかは分かっていない。縄文時代弥生時代では、男女の衣服があまり明確な区別を持たず、何が女装か不明であったと言える。記紀においては倭健命が女装をして熊襲を撃つ場面が記述されている。このことから、日本においても、女装の起源はかなり以前に上ることが推測されている。

女装には霊的な意味合いもある。また、男児が早世することが多い場合、生まれた男児を少女として女装させて育てたり、また男児に害する悪霊から守るために、幼少時に女装をさせる習慣も存在した。代表的には昭和天皇など、古くの天皇家が挙げられる。

概説

女装は異性装の一種と考えられるが、異性装は、男性が女性に固有とされる衣類やアクセサリを纏う女装の場合と、反対に、女性が男性に固有とされる衣類やアクセサリを纏う男装の場合に区別される。衣服やアクセサリ以外に、仕草や行動様式、言葉遣いなどの点でも異性に固有とされる様式に準拠するものも異性装の一部と見なせる。

異性装は起源的には、そもそも男性と女性のあいだで生物的・文化的な意味で明瞭が差異が存在することが前提となる。衣装アクセサリなどは生物的なものではなく、文化の所産であることからすれば、異性装は文化的な現象で、生物学的な事象ではないことになる。

社会的・文化的な次元において、男性と女性の役割や社会的地位に差異が存在する場合に、異性装は意味を持つ。従って性役割(ジェンダー・ロール)と異性装は密接な関係を持つことになる。

男装と女装の非対称性

生物的な基本原型としては、人間の種は、男性と女性の二つの生物性が基本となっている。また社会的・文化的な性(ジェンダー)においても、男性ジェンダーと女性ジェンダーが基本的な二つのジェンダーである。

このような生物的性とジェンダー性の二極性からすると、男装と女装は対称的なものと形式的には考えられる。しかし、実際に歴史的社会的に現象している男装と女装は、社会や個々人の評価や価値観においても対称ではない。多くの文化・社会にあって、女性の男装は、男性の女装に較べ、あまり問題とされないことがあり[2]、また男装への女性の関わりと、女装への男性の関わりを見ると、後者の方が文化的に複雑であり、女装者自身の心理においても複雑な様相を持つ。

数的に見れば、1993年のアメリカでの大規模な調査では、男性の6%が女装の経験があり、女性の3%が男装の経験があると答えている[3]。この調査からは、女装者が男装者の二倍存在することが分かると共に、異性装経験者が平均すると、男女で20人に一人存在すると云うことも分かる。

父権制社会と母権制社会

この男装と女装の非対称性の理由として考えられるものは、人間の社会における父権制母権制の差異である。古代の社会の文化や慣習などを研究したバッハオーフェンは、歴史時代に入ってより後、多くの社会が男性優位で、男性が家長として家族を支配する形態の社会が一般であるが、それよりも古い時代にあっては、女性が家長として家族を統括する母権制社会が一般に存在したことを論じた。バッハオーフェンの仮説には一定の根拠があることが今日知られる。

父権制社会(家父長制社会)においては、一般に男性が女性より優位な存在とされ、男性が女性を支配し管理するとの思想が一般である。社会の指導者・支配者も一般に男性である。古代エジプトの新王国時代、第18王朝ハトシェプスト女王は、女性であってファラオの地位についた稀な人物であるが、彼女の正式な像は、付け髭を付け、男装した姿で表現されている。古代エジプトは、母権制社会であったとも言えるが、それでも父権制の影響が大きかったことが、このことからも知られる。

古代宗教と社会の規範

古代に存在した母権制的な宗教においては、男性がみずから去勢し、女装して女神に仕える神官となることがあった。小アジアプリュギアの大女神キュベレーの帰依者(複数形で、galli と呼ぶ)は神官ではなく、みずから去勢している場合も去勢していない場合もあったが、女装して女神に仕えた[4]ディオニューソス神は、葡萄酒の神として知られるが、ギリシア人以前にクレータで崇拝されていた神で、その祝祭においては社会的規範の反転が起こり、少年や男性は女装して、どんちゃん騒ぎで神を祝った[5]

カール・ユングは、神話学者ケレーニイとの共著『神話学入門』のなかで、童子神(永遠の少年の原型)について論じ、童子神は神話的な両性具有を有し、古代に造られた彫像・テラコッタ像などで、女装したエロース神の像が存在することを指摘している[6]

両性具有」を人間の完全性の象徴とする思想が古代において、そして現代においても存在する。男性であり、同時に女性の本質も備えることは人間において完全性への道であるとの思想がある。古代ローマ帝国の幾人かの皇帝は、両性性、神としての完全性を具現することを示すために、女装したことが知られる(ネロカリグラなどは女装し、女神だとも称した。ヘラガバルス帝は両性具有の神と称し、当然女装した)。また近代インドの宗教家であるラーマクリシュナも若き修業時代、女装してマー(大母神)に帰依したことが知られる[7]

特定の目的を持った女装を高く評価する文化基準と、他方、女装一般を社会的な規範に対する挑戦・風紀の紊乱行為であるとして弾劾する宗教的・文化的伝統が併存してある。ユダヤ人宗教は、『申命記』における異性装禁忌を述べたように、男装・女装双方を弾劾し否定する。これに続くアブラハムの宗教も、男女の服装の区別を明確にする宗教的規範を持っている。

男装は父権制への挑戦であり、女装は、父権制社会における逸脱行為に当たるからである。西洋におけるキリスト教などの規範とは別に、東アジア中国においても、社会は伝統的に父権的な様相にあり、古代の賢者・聖人とされる孔子は、男女の区別を明確に説いた。

ジェンダーと女装

生物的な「性」とは別に、文化的・社会的な性とも言える「ジェンダー」概念が導入されることで、女装という現象の意味について、宗教や社会類型に基づく規範とは別の判断基準が生まれたとも言える。

生物として人間を見ると、女性の方が男性よりも丈夫にできている。人類の基本形は女性であり、女性の生理器官や身体構造に変容や追加、単純化を行ったのが男性の身体だとも言える。短期的な激しい活動に適するように男性の身体は設計されているとも言える。それに対し、女性の身体基盤は、微妙なバランスの上に成立しており、短期的な激しい活動には向かないが、持続的な生物としての生存活動にはより適した構造となっている。このことは、女性の平均年齢が男性よりも高いことが通常の社会で起こることよりも確認される。

父権制社会においては、男性は社会の指導者であり、女性に優越する指揮者でもある。儒学における、「父に従い、夫に従い、夫亡き後は、息子に従え」という教えは、父権制社会での女性の地位規定の原則であるとも言える。多くの社会において、女性は、受動的であり、自己主張はせず、むしろ協調性や従属性がその美徳とされる。これに対する異議を持つ女性も多数存在し、男装の小説家ジョルジュ・サンドを初めとして、多数の「男勝りの女性」の名が知られている。しかし、逆にそのことは多くの現代の社会が父権制社会の様相を持つことを証しているのだとも言える。

男性としての困難または性の多様性

男性は、強く、自主的で、自己主張し、能動的に振る舞うことが求められるが、これらの「強さ」「自己主張性」「能動性」などは、個人個人に程度に差があり、能動的に振る舞うことが自然な男性がいる他方、むしろ受動的で、強さではなく、弱さ、あるいは感性の繊細さを自分にとって本質的に重要と感じる男性も多数存在する。

このような背景にあって、パーソナリティの指向性、あるいは個人の好み、休息を求める指向、あるいは多面性を維持したいとの方向性、更に性的な嗜好や、精神障害に及ぶまでの非常に広い範囲で、男性自身における「男性であることの困難と矛盾」の問題が生じる。

これらはより詳細に説明する必要があるが、大まかには次のように述べることができる。

  1. 男性として要求されるパーソナリティ像に順応することに疲労を感じる者が存在する。女装することが、このような人には、心の休息ともなる。
  2. 男性として振る舞うことに疲労を感じることもあれば、ない場合もあるが、自分の存在はより広がりがあると思い、その広がりのなかで、女性的な性質も自分の個性だと感じる者。このような人も女装することがある。
  3. ジェンダー・ロール(性役割)は、それぞれの社会によってある範囲に決まっているが、このようなジェンダー規定に対し、違和感を覚える者が存在する。このような人はむしろ、女装することで本来の自分であるという感覚を得ることがある。
  4. 先の 3)の例は、「ジェンダー違和感」の例であるが、ジェンダー違和感または性別不快症候群がより強いものとなり、精神の安定を崩すほどのものとなった場合、女装することが本来的自己の回復となる人がいる。GID(性同一性障害)は、このような類型の人に対し、一定の診断基準において、DSM が与えた精神障害名である。しかし、問題は遙かに複雑である。
  5. 2)と 3)と関連を有する場合とない場合があるが、心理的な固執が強くなり、精神障害的な様相に近づくか、または精神疾患の域にまで達した場合は、DSM では、これを性的フェティシズム服装倒錯(transvestism)とする。トランスジェンダーやトランスヴェスティズムが精神障害に分類されることには、異論が存在するが[8]、現在の DSM では障害となる。
  6. トランスジェンダーの範疇とは別に、「性の多様性」のアピールの為に女装を強調するゲイの男性がいる。これはドラァグ・クイーンがその典型とも考えられる[9]

一般に、上記の 2)と 3)の場合は、トランスジェンダーに入れてよく、4)の場合は、「トランスセクシュアル」に入れる。トランスジェンダーの場合は、性の多様な可能性を求める傾向があり、男性であるか女性であるかという択一問題ではないのが特徴だとも言える。トランスセクシュアルの場合は、生物的な性別を(SRS などを通じて)転換することを望むことが多い。

性的興奮と女装

女装によって性的興奮性的快感が齎されることがある。女性の衣類装身具などを身にすることで性的興奮が起こる場合は、女装と言うより、衣類・装身具への性的フェティスズムと言うのが近い。何故、性的興奮が生じるのかは、様々な性的嗜好が存在することから見ても分かるように、個人ごとで事情が異なる。

一方、フェティシズムとは別に、男性であることの重責からの解放という意味での女装や、ジェンダーの多様性を自覚するが故に女装を選ぶ場合も性的興奮は生じる。これらはまた様々な個人的な事情があると言える。例えば、男性の衣類の状態では十全な自己に対する自信や確信が持てないのに対し、女装することでより本来的な自己が確立されたとの感覚や、心理的な安定から性欲の自然的な発動が生じる場合もある。

意識的には自己が男性であると疑いなく確信を持つ人の場合も、女装によって、エキゾティックな感覚が生まれそこから性的興奮が導かれるという。

文化としての女装

衣装ファッションは、起源的に多様である。性愛においても、同性愛少年愛少女愛が社会のある階層の人々のあいだでステイタスの条件として流行したことがある。早婚の意味の少女愛は、ファッションというより、実際的な必要性から生じた習慣とも言えるが、日本の平安盛期における『源氏物語』が伝えている光源氏の少女愛趣味は、これは一つのファッションであった可能性がある。

少年、青年、また成人男性が、強靱な精神と肉体を持ち、荒々しい言動や挙措であることが尚ばれる社会や時代があるが、他方で、女性的な男子が社会的に理想とされるような社会や時代の文化もある(日本の平安時代の貴族は、女性的であることが理想でもあった)。また奇異な行動や服装がもてはやされる時代もあり、女装やそれに類した行動様式が美しいとか望ましいとか考えられる文化のファッションも当然存在する。

ここから「ファッションとしての女装」というものがまた考えられる。1960年代から70年代にかけて、フラワームーヴメントが欧米にはあったが、男性が女性的な身なりをすることが流行した。グラムロックパンクファッションなどでも、男性が派手な衣装をし、ルージュを付けるなどがあった。これはヴィジュアル系と呼ばれるファッションにも通じている。またメンズ・スカートなども、ファッションとしての女装の面が強い可能性がある。

代替役割としての女装

父権制社会が強固な原則を維持する場合、すべての指導的な役割は男性がこなすことになる。文化の次元でも同様な男性優位と男性独占が生じる場合、「女性の役割」を男性が演じねばならない事態が生まれることがある。

日本の歌舞伎が代表的であるが、政治的・社会的な理由から、遊蕩の演芸の芸人に女性は介入してはならないという原則が立てられると、女性役は誰が演じるのかという問題が起こる。ここから日本では、女形(おやま)という女性役を専門に演じる俳優が生まれる。女形は当然ながら女装して舞台に立つのであるが、単に服装や装身具の問題だけではなく、言葉遣い・挙措において、「女性らしさ」が求められることになる。

イギリス劇作家であり近代英語の確立者であるウィリアム・シェイクスピアの作品に登場する女性役は、女装した美少年が演じたともされる。シェイクスピアの劇作品のなかには、女性が男装して、そのことから生じる人間違いを主題とした喜劇があり、異性装の持つ意味をシェイクスピアは洞察していたとも言える(ローレンス・オリヴィエ卿は言うまでもなく、男性でシェイクスピア劇の俳優であるが、彼の最初の出演では、女装して女性役を務めたことが知られる)。

現代における女装産業

世界的に見るとき、アブラハムの宗教の影響下にある社会は、女装を公的には否定する傾向がある。しかし、同性愛少年愛がそうであるように、公的に否定されているが、文化的には他の社会同様に、このような慣習や行動が存在したということはある。

20世紀より21世紀にかけては、ドラァグ・クイーンがもっとも目立つが、女装者は多数の人口に昇った。イスラム社会はなお否定的であるが、欧米とそれに関連するキリスト教社会では、「性の多様性」の運動の進展と共にカミングアウトも増大し、女装に対する抵抗もなお存在するが、女装者の可視性は高まっている。

日本における女装産業

日本においては、女装の文化とも言えるものが暗黙で認められていたことがあり、『南総里見八犬伝』の犬塚信乃や、歌舞伎の『青砥稿花紅彩画』の主人公とも言える弁天小僧菊之助などが女装して登場する。江戸時代の衣類は、和服であり、そのゆるやかなこしらえは、色や意匠を除けば男女兼用であったとも言える。

しかし明治維新以降、洋装が標準の衣類となってくると、男女の衣服における差異は大きくなって来た。身体にぴったりと合う洋装の衣類は、女性用にデザインされた衣類を男性が着用するのに困難を齎していた。

しかし、1979年に東京都の神田に開店した五階建てのビルである女装クラブ兼販売店の「エリザベス」は、従来このような店舗が存在しなかったことから画期的であった。エリザベスは、女装専門誌『くいーん』を発刊すると共に、通信販売を通じて、男性が着用できるサイズの女性衣類を販売し始めた[10]。ただ、女装衣類専門ということから、品数に限度があり価格も相対的に高価であった。

女装と通信販売

1980年代は、セシールなどの代表的なカタログ通信販売業者が全国的に知名度を上げて行った時代である。通信販売の場合、購入者が女性であるか男性であるかを問うことはない。また大手の女性用衣類の通信販売業者の品揃えは、エリザベスなどの女装専門企業の太刀打ちできるものではなかった。

そのため、サイズさえ慎重に確認すれば、女性用としてデザインされた衣類を女装愛好者が購入することは容易であり、また合理的でもあった。大手の通信販売業者は、扱う品物を、婦人専用とするのではなく、子供服、男子衣類、家庭用雑貨などに拡大して行ったので、品物を購入するのはますます容易になって行った。更にインターネットの普及により、2000年頃から、ネット通販サイトも増えている。近年は女性の体型の多様化に伴い、高身長の体型に合わせた服も売られている。

またヤフーなどのオークションでは、コスプレ用衣装を検索すると、アニメなどの女性キャラクタが着るミニスカートのコスチュームで、「男性用サイズ」と「女性用サイズ」の二種類が選択できるような品物が出品されている。メンズ・スカートも、日本に登場してすでに十年近くが経過しており、女装も通常のファッションの一部となっている可能性もある(セクシーランジェリー・ショップでも、男性が着用できるサイズの品物を置いている場合もある)。

『3年B組金八先生』「第7話:金八 生徒 女形競艷」に思う。

駿確か周りから変な目で見られて女形になるのが嫌で、お父さんのことも嫌いだったんだよね。でも金八先生に諭され、女形を継ぐことを決意した。なんだかかわいそう。私もいつかスカートをはいてみたいと思ったことがあり、それを父に話すと「そんなことよそで絶対言うな!」とすごい剣幕でしかられた。その一方で女形の後継ぎを期待され、いやいやながら女装させられる男もいる。世の中って不公平だな。--上原卓

女装の類型

  • 宗教的理由から、男性が女装して祭儀などを行うことがある。古代の母権制宗教にはその傾向が顕著であったが、近世から現代にもその伝統が祭礼等で残っている場合がある。
  • 呪術的な理由があると想定されるが、男児の早世を避けるため、女児の服装で育てる例がある。欧州の上流階級ではこのような習慣が20世紀までは普通にあった。
  • 母親または家族等が女児を欲していた場合に男児が生まれたとき、上記の慣習に準じて女児として育てるが、十歳になってもなお少女の服装で育てる場合がある(ライナー・マリア・リルケがこの例になる)。
  • 心理的、また精神医学的な理由から女装が望ましい人がいる。男性であることが負荷である人や、ジェンダー把握が女性位相も含む人は女装に休息や自然さを感じる。
  • フェティシズムにおいて、女性の服装装身具化粧などに性的魅惑を感じる者は、狭義に女装を行う。またより広く、服装倒錯(トランスヴェスティズム)の水準にまで達する場合もある。
  • トランスジェンダートランスセクシュルの人々は、女装をしているという意識ではない場合が多い。自己のジェンダーに適合した衣装が即ち、外部の人からは女装と映じるのである。性同一性障害の人の場合は、衣装だけではなく、身体そのものも、女性に変容させるので、女装の範疇を越えた別の事態である。
  • 文化的な規範か、機会的な状況において、男性が女性の役割を演じる必要がある場合がある。職業的に永続するこのような役割は、歌舞伎女形がそうである。劇において、出演者が男性しかいない場合、女性役はやはり女装することになる。男子高等学校の演劇部が劇を演じる場合にもこのようなことが起こる。ウィーン少年合唱団等はミニ・オペレッタを公演で提供することがあるが、女性役は当然少年が演じる。
  • 職業的に、男性同性愛者の相手をすることで金品を得ようとする場合、女装することがある。職業的でない場合も、相手が女性的な人物を求める場合、女装することがある。
  • 日本でも少なくはないが、トランスジェンダーの人で、シーメールあるいはニューハーフと呼ばれる段階の身体の人は、女装して売春することがある(バストを造った場合は、女装するのが実は自然である。また性ホルモン等によって、身体に変形を与えた場合、生計を得るため売春するしかない場合もあり、社会問題にもなっている[11]。女装してステージ・ショーを演じているあいだはよいが、セックス産業に組み込まれ、売春を強要されることもある)。
  • 桜塚やっくんなど、女装が売り物の芸人がいる。
  • ファッションとして、女装に見える派手な服装や化粧などをする人がいる。ヴィジュアル系ロック音楽グループに、そのような例がある。
  • またこれもファッションと考えられるが、メンズ・スカート愛好者も、女装と見なされることがある。
  • 「性の多様性」をアピールするため、ゲイの人のなかで派手な女装をする人がいる。ドラァグ・クイーンと言う。

異性装と性的指向

ファイル:TransJaponaise2005.JPG
パリゲイ・パレード2005年6月25日)に参加した女装男性

女装と性的指向は基本的に関係を持たない。女装者であることは、同性愛あるいは異性愛であることとは別の次元のことである。女装は、宗教文化に関係し、またもっとも一般にはジェンダー・ロール性自認に関係する。ジェンダーの多様性とその次元は、性的指向の次元とは独立しているというか、直交関係にある。つまり、同性愛者である者は女装をするとは限らず、女装しないとも限らない。

大半の男性同性愛者は、女装しない。しかし、ジェンダー自認が女性の同性愛者は女装する。この場合、当人は女装しているのではなく、本来の自分のジェンダーに合致した服装との認識を持つ。ジェンダー・アイデンティティは多様であり、トランスジェンダーの人の性自認は、非常に複雑で個性的な場合がある。生物的な性別が男性の人が女性の衣装をまとうのを女装とすれば、トランシジェンダーの男性は女装していることになるが、当人の意識では、女装も男装も選択できる服装のありようで、特に女装しているという意識がないこともある(MTF 性同一性障害の人の場合も、遺伝子などからすれば、女装になるが、「性自認からすれば、自分の性に合った服装をしている」ことになる)。

男性同性愛者(中には異性愛者や女性もいる)で、「性の多様性」をアピールする目的で過剰なまでに押しの強い、奇異な女装を行う例があり、ドラァグ・クイーンと呼ぶが、これはパフォーマンスと言うべきである。

サブカルチャーでの女装表現

日本に固有なことである可能性があるが、日本の漫画アニメゲームなどのサブカルチャーにおいて、登場人物である男性(男児、少年、青年)に対し、女装設定を行う事例が多数ある。これらは、フェティシズムの一種と考えられるが、20世紀末から21世紀初頭にまで継続して展開している、広範囲な「流行(ファッション)的意匠」である。しかし、これを「架空の世界での女装」として取り上げるのが相応しいかどうか疑問がある。

このようなサブカルチャー・メディアの読者あるいは消費者に、女装(あるいは、ふたなりや各種性転換少年愛ショタコンロリコンサディズムマゾヒズム状況)への嗜好があり、自己投射があるか、または受影があると言えるからである。現象としてあるのは、読者あるいは広義に消費者に、そのような状況への投影があるということであり、個々の作品は、例えば、ポピュラーなものとして、古くは『ストップ!! ひばりくん!』から、比較的新しく継続性のあるやぶうち優の『少女少年』に至るまで、これらは作品が要請する設定を満たすために登場人物が単に女装しているだけで、女装が本質的に作品の問題・主題とはなっていないのである。

女装表現の魅惑と萌え

これらについては、サブカルチャー・メディアにおける「登場人物設定のガジェット」というべき類に入るとも考えられ。しかし、作品の主題ではないことが明らかであるにも関わらず、敢えて「女装」の状況を作品に挿入する理由がまた別にある。

このようなメディアの読者・消費者が、女装や性転換ふたなりなどに対し魅惑を抱いている可能性が高い。21世紀魔術的観念論とも言えるが、ジェンダーの像は時代や社会と共に変動しており、20世紀後半以降となると、固定的なジェンダー・イメージに対する疑問が提示され、性の多様性は即ち「ジェンダーの多様性」であり、性役割性自認に関してより柔軟で可能性の高いイメージが潜在的に求められていると言える。

自己の存在のありように対し、より高い自由度を求めると共に、時代や周囲の文化の流行が一つの規範ともなっている。男性か女性かのジェンダー・アイデンティティは誕生後24月程度の時期に確立されるとされるが[12]性役割の認識と学習はそれよりも時間が必要であり、両親が子供をどのように扱うか、幼稚園・学校の教師の影響、更に同級生や同じ年代の子供のジェンダー概念が大きく影響する。加えて、子供の周囲に存在する多様なメディアのメッセージがこれに関係する[13]。子供自身は、自己の性別が生涯変更できないことを学習するのは一般にプレ思春期に入ってからである(かなりな確率で出現する半陰陽の人の性自認の問題はここでは別にする)。

日本では、十代、二十代の青少年のあいだで性的自己同一性が拡散しているとの文献的報告による裏付けはないが、メディアが提供する仮想世界の状況では、男女の性転換が容易に可能であり、性役割の移行が表現され、両性具有性が実現されている。消費者は「女装」表現に魅惑を覚え、これを萌えとも称している事実がある。やおいにおいて、男性キャラクター間の同性愛関係設定に魅惑があったように、男性登場人物に「女装設定」を行うことが、読者には魅惑要素となっているのである。

読者主体にとって、自己の性的アイデンティティや「ジェンダーの多様性」の要請が、このような魅惑(萌え)となっているのか、サブカルチャーの主流において、このような魅惑が「流行規範」として個々の消費者を規制しているのか、現状では不明である。

脚注

  1. 『楊貴妃になりたかった男たち』
  2. とはいえ、ジャンヌ・ダルク男装し、男性の髪型で活動したことが、火刑の理由として挙げられている。これは、キリスト教社会における規範である『旧約聖書申命記』 22章 5 が、男装・女装を禁じていることにもよる。
  3. Human Sexuality, p. 323, (study by Samuel Janus and Cynthia Janus, 1993)
  4. Oxford Classical Dictionary, p. 569 /eunuchs/
  5. ibid. p. 481 /Dionysus/
  6. ユング・ケレーニイ共著 『神話学入門』 晶文社
  7. 『人類の知的遺産 53・ラーマクリシュナ』 講談社 1983年
  8. 例えば、Dan Karasic MD et al., ed. Sexual and Gender Diagonoses of (DSM), A Reevaluation, The Hawson Press
  9. Human Sexuality, p.325
  10. 『女装の民族学』 P. 41
  11. 女性ホルモンを摂取すると、一般に乳房とヒップが発達し、女性的な身体になるが、摂取に限界があり、ある限界を超えた後、摂取をやめると、女性の更年期障害と似た状態になる。このため、女性ホルモンの摂取が持続的に必要になり、これはかなり経済的に負担となる。
  12. Human Sexuality, p. 122 - 124
  13. ibid. p 132 - 135

参考書籍

関連項目

外部リンク

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