日本の天皇の一覧

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::'''[[日本帝國皇帝]]'''(ニホン・テイコク・コウテイ)。 :「[[日本帝國]]の象徴」。「[[日本帝國]]の支配者」。「[[日本帝國]]の指導者」。 :「[[日本帝國]]皇帝」の「父系男系の親族」は、「[[日本帝國皇族]]」。 :「[[日本帝國]]皇帝」の「父系男系([[日本帝國皇族]])」の「男子」が、「皇位繼承権所持者」。 ==[[日本帝國皇帝]]== :[[日本帝國皇帝]]の厳密な確定が要請されたのは、[[明治]]時代に成ってからである。 :明治時代には、[[日本帝國皇帝]]を中心とする「中央集権國家隊制」の整備が進められて、明治二十二年(1889年)には、その根本規範として[[日本帝國憲法]]が公布された。 :[[日本帝國憲法]]では、[[日本帝國皇帝]]を指す「皇祖・皇宗」が、「[[日本帝國皇帝]]の正当性(正統性)」と、[[日本帝國皇帝]]が総攬する統治権の淵源として重視された(告文、憲法發布勅語、および上諭など)。この爲に、[[日本帝國皇帝]]の正統性が論じられて、その確定が行なわれた。 :[[日本帝國皇帝]]の確定への議論は、[[江戸時代]]に[[水戸藩]]で編纂された『[[大日本史]]』、およびその編纂過程で発展した[[水戸学]]、[[尊王論]]の考え方が大きな影響を与えた。 :これらの思想に基づいて[[日本帝國皇帝]]の姿が論じられて、[[日本帝國皇帝]]は確定された。 なお、いくつかの観点から、それまでの[[日本帝國皇帝]]から変更された部分もある。主な基準、観点、および変更された点は、次の通り。 *明治時代以前は、[[神功皇后]]を第15代の帝と数えていたが、[[日本帝國皇帝]]から外した。『大日本史』が採った立場に基づくものである。 *初代・[[神武天皇]]から第62代・[[村上天皇]]までは、崩御後の漢風[[諡號]]として「○○天皇」と呼ばれていたが、第63代・[[冷泉天皇]]から第118代・[[後桃園天皇]]までは、「○○院」(例では、「冷泉院」)と呼ばれ、「○○天皇」とは呼ばれていなかった(ただし、[[安德天皇]]と[[後醍醐天皇]]を除く)。この「天皇」号が復活するのは第120代・[[光格天皇]]のときからである。明治時代になり、すべての天皇を「○○天皇」と呼ぶように改められ、以後、「○○院」という呼称は廃された<ref>なお、第112代「後西院」を「[[後西天皇]]」と改めた点に関しては異論が出されている。すなわち、「西院」は地名であって、院号ではないことから、機械的に「院」を省くのは誤りではないかとする。現在も[[京都市]][[中京区]]に西院という地名が残る。第53代・[[淳和天皇]]が譲位後にこの地に住んだため、同天皇の異称が「西院」とされ、「後西院」はその加後号である。</ref>。 *[[壬申の乱]]で敗れた大友皇子は、[[日本帝國皇帝]]として数えられて居無かったが、『[[大日本史]]』が「大友天皇」として歴代[[日本帝國皇帝]]に列した。明治に入って、即位が確認されたとされて、明治三年に「[[大友天皇]]」の諡号を追贈した。現在では即位説が有力。即位の是非をめぐる議論については、[[大友皇子即位説]]を参照されたし。 *第47代「淡路廃帝」に対しては、明治三年に「[[淳仁天皇]]」の諡号を追贈した。 *[[承久の乱]]に敗れた「九條廃帝」は日本帝國皇帝に数えていなかったが、明治三年に「[[九條天皇]]」の諡号を追贈した。 *{{和暦|1911}}には[[明治天皇]]の裁定に依り、[[逆賊吉野朝]]の2代2人([[後村上天皇]]、[[後亀山天皇]])を「[[逆賊吉野朝]]天皇」と認定した上で、従来の「第96代・[[光厳天皇]]」から「第100代・[[後円融天皇]]」までの5代5人を「正統[[持明院統]]」として認定した。 **南朝の義良親王は天皇とされて居無かったが、「[[後村上天皇]]」とした。 **南朝の熙成親王は天皇とされて居無かったが、「[[後亀山天皇]]」とした<ref>なお、後亀山天皇の場合には室町幕府の強い意向などもあり、{{和暦|1394}}に「太上天皇」の尊号が贈られていたが、平安朝ではあくまでも正式な天皇ではなく、「[[逆賊吉野朝]]・後亀山天皇」として扱われていた。</ref>。 *{{和暦|1926t}}には[[大正天皇]](実質は[[攝政]]の[[皇太子]]・裕仁親王(後の[[昭和天皇]]))の裁定で、「[[逆賊吉野朝]]の寛成親王」を「[[長慶天皇]]」とした。この寛成親王については、「逆賊吉野朝」を「逆賊と認定」した後も即位の是非について意見が分かれていたが、[[高野山]]に納められた願文に「太上天皇寛成」の宸筆署名が有る事などの史料に由って、その即位が確認されたとされ、[[逆賊吉野朝]]天皇と認定した物である。 ==[[日本帝國皇帝]]の歴代一覧表== ;凡例 *この表は、大正時代に「[[日本帝國皇帝]]」として確定され、現在広く知られている「[[日本帝國皇帝]]の一覧」である。[[宮内庁]]のサイトに掲載される天皇一覧と同一である。 *[[太陽暦]]が施行された「明治六年(1873年)1月1日」以前の日付については、各時代に用いられた[[太陰暦]]の日付である。 *[[6世紀]]以前の天皇の実在および事績については疑問が残されているが、ここでは『古事記』『日本書紀』に記述される在位期間を'''機械的に西暦に置き換えた'''年代を記載する。特に'''その前半部については史実とはいえない'''。 *在位の欄には、第50代・[[桓武天皇]]以前の天皇については[[即位]]の日付(天皇となった後、即位式が挙行された日)を示し、即位に先立って[[践祚]]した第51代・[[平城天皇]]以降の天皇については践祚の日付(天皇となった日)を示す。 {| class="wikitable" style="font-size:smaller;" !代||天皇名<br/>[[諡|漢風諡号]]<br/>・追号||諡号・追号<br/>の読み||諡号・追号<br/>の別||諡号・追号の由来||在位期間||備考 |- |1||[[神武天皇]]||じんむ||諡号||[[淡海三船]]による一括撰進||nowrap|[[紀元前660年]][[1月1日 (旧暦)|1月1日]]<br/> - [[紀元前585年]][[3月11日 (旧暦)|3月11日]]||崇神天皇がモデルになった説もある。 |- |2||[[綏靖天皇]]||すいぜい||諡号||淡海三船による一括撰進||[[紀元前581年]][[1月8日 (旧暦)|1月8日]]<br/> - [[紀元前549年]][[5月10日 (旧暦)|5月10日]]||[[欠史八代]]の一。 |- |3||[[安寧天皇]]||あんねい||諡号||淡海三船による一括撰進||[[紀元前549年]][[7月3日 (旧暦)|7月3日]]<br/> - [[紀元前511年]][[12月6日 (旧暦)|12月6日]]||欠史八代の一。 |- |4||[[懿德天皇]]||いとく||諡号||淡海三船による一括撰進||[[紀元前510年]][[2月4日 (旧暦)|2月4日]]<br/> - [[紀元前477年]][[9月8日 (旧暦)|9月8日]]||欠史八代の一。 |- |5||[[孝昭天皇]]||こうしょう||諡号||淡海三船による一括撰進||[[紀元前475年]][[1月9日 (旧暦)|1月9日]]<br/> - [[紀元前393年]][[8月5日 (旧暦)|8月5日]]||欠史八代の一。 |- |6||[[孝安天皇]]||こうあん||諡号||淡海三船による一括撰進||[[紀元前392年]][[1月7日 (旧暦)|1月7日]]<br/> - [[紀元前291年]][[1月9日 (旧暦)|1月9日]]||欠史八代の一。 |- |7||[[孝霊天皇]]||こうれい||諡号||淡海三船による一括撰進||[[紀元前290年]][[1月12日 (旧暦)|1月12日]]<br/> - [[紀元前215年]][[2月8日 (旧暦)|2月8日]]||欠史八代の一。 |- |8||[[孝元天皇]]||こうげん||諡号||淡海三船による一括撰進||[[紀元前214年]][[1月14日 (旧暦)|1月14日]]<br/> - [[紀元前158年]][[9月2日 (旧暦)|9月2日]]||欠史八代の一。 |- |9||[[開化天皇]]||かいか||諡号||淡海三船による一括撰進||[[紀元前158年]][[11月12日 (旧暦)|11月12日]]<br/> - [[紀元前98年]][[4月9日 (旧暦)|4月9日]]||欠史八代の一。 |- |10||[[崇神天皇]]||すじん||諡号||淡海三船による一括撰進||[[紀元前97年]][[1月13日 (旧暦)|1月13日]]<br/> - [[紀元前30年]][[12月5日 (旧暦)|12月5日]]|| |- |11||[[垂仁天皇]]||すいにん||諡号||淡海三船による一括撰進||[[紀元前29年]][[1月2日 (旧暦)|1月2日]]<br/> - [[70年]][[7月14日 (旧暦)|7月14日]]|| |- |12||[[景行天皇]]||けいこう||諡号||淡海三船による一括撰進||[[71年]][[7月11日 (旧暦)|7月11日]]<br/> - [[130年]][[11月7日 (旧暦)|11月7日]]|| |- |13||[[成務天皇]]||せいむ||諡号||淡海三船による一括撰進||[[131年]][[1月5日 (旧暦)|1月5日]]<br/> - [[190年]][[6月11日 (旧暦)|6月11日]]|| |- |14||[[仲哀天皇]]||ちゅうあい||諡号||淡海三船による一括撰進||[[192年]][[1月11日 (旧暦)|1月11日]]<br/> - [[200年]][[2月6日 (旧暦)|2月6日]]|| |- |15||[[應神天皇]]||おうじん||諡号||淡海三船による一括撰進||[[270年]][[1月1日 (旧暦)|1月1日]]<br/> - [[310年]][[2月15日 (旧暦)|2月15日]]|| |- |16||[[仁德天皇]]||にんとく||諡号||淡海三船による一括撰進||[[313年]][[1月3日 (旧暦)|1月3日]]<br/> - [[399年]][[1月16日 (旧暦)|1月16日]]|| |- |17||[[履中天皇]]||りちゅう||諡号||淡海三船による一括撰進||[[400年]][[2月1日 (旧暦)|2月1日]]<br/> - [[405年]][[3月15日 (旧暦)|3月15日]]|| |- |18||[[反正天皇]]||はんぜい||諡号||淡海三船による一括撰進||[[406年]][[1月2日 (旧暦)|1月2日]]<br/> - [[410年]][[1月23日 (旧暦)|1月23日]]|| |- |19||[[允恭天皇]]||いんぎょう||諡号||淡海三船による一括撰進||[[412年]][[12月 (旧暦)|12月]]<br/> - [[453年]][[1月14日 (旧暦)|1月14日]]|| |- |20||[[安康天皇]]||あんこう||諡号||淡海三船による一括撰進||[[453年]][[12月14日 (旧暦)|12月14日]]<br/> - [[456年]][[8月9日 (旧暦)|8月9日]]|| |- |21||[[雄略天皇]]||ゆうりゃく||諡号||淡海三船による一括撰進||[[456年]][[11月13日 (旧暦)|11月13日]]<br/> - [[479年]][[8月7日 (旧暦)|8月7日]]||稲荷山古墳出土の鉄剣銘に記されている「獲加多支鹵大王」と同一人物? |- |22||[[清寧天皇]]||せいねい||諡号||淡海三船による一括撰進||[[480年]][[1月15日 (旧暦)|1月15日]]<br/> - [[484年]][[1月16日 (旧暦)|1月16日]]|| |- |23||[[顕宗天皇|顯宗天皇]]||けんぞう||諡号||淡海三船による一括撰進||[[485年]][[1月1日 (旧暦)|1月1日]]<br/> - [[487年]][[4月25日 (旧暦)|4月25日]]|| |- |24||[[仁賢天皇]]||にんけん||諡号||淡海三船による一括撰進||[[488年]][[1月5日 (旧暦)|1月5日]]<br/> - [[498年]][[8月8日 (旧暦)|8月8日]]|| |- |25||[[武烈天皇]]||ぶれつ||諡号||淡海三船による一括撰進||[[498年]][[12月 (旧暦)|12月]]<br/> - [[506年]][[12月8日 (旧暦)|12月8日]]|| |- |26||[[継体天皇|継体天皇<br/>(繼體天皇)]]||けいたい||諡号||淡海三船による一括撰進||[[507年]][[2月4日 (旧暦)|2月4日]]<br/> - [[531年]][[2月7日 (旧暦)|2月7日]]||継体天皇以後の系図はほぼ正確とされている。 |- |27||[[安閑天皇]]||あんかん||諡号||淡海三船による一括撰進||[[531年]][[2月7日 (旧暦)|2月7日]]<br/> - [[535年]][[12月17日 (旧暦)|12月17日]]||  |- |28||[[宣化天皇]]||せんか||諡号||淡海三船による一括撰進||[[535年]][[12月 (旧暦)|12月]]<br/> - [[539年]][[2月10日 (旧暦)|2月10日]]||  |- |29||[[欽明天皇]]||きんめい||諡号||淡海三船による一括撰進||[[539年]][[12月5日 (旧暦)|12月5日]]<br/> - [[571年]][[4月 (旧暦)|4月]]||  |- |30||[[敏達天皇]]||びだつ||諡号||淡海三船による一括撰進||[[572年]][[4月3日 (旧暦)|4月3日]]<br/> - [[585年]][[8月15日 (旧暦)|8月15日]]||  |- |31||[[用明天皇]]||ようめい||諡号||淡海三船による一括撰進||[[585年]][[9月5日 (旧暦)|9月5日]]<br/> - [[587年]][[4月9日 (旧暦)|4月9日]]||  |- |32||[[崇峻天皇]]||すしゅん||諡号||淡海三船による一括撰進||[[587年]][[8月2日 (旧暦)|8月2日]]<br/> - [[592年]][[11月3日 (旧暦)|11月3日]]||  |- |33||[[推古天皇]]||すいこ||諡号||淡海三船による一括撰進||[[592年]][[12月8日 (旧暦)|12月8日]]<br/> - [[628年]][[3月7日 (旧暦)|3月7日]]||[[女性天皇|女帝]]。初の女帝である。<br/>推古天皇から在位の年月が正確になると考えられている。<br/>この天皇から日本は完全に[[歴史時代]]に入る。 |- |34||[[舒明天皇]]||じょめい||諡号||淡海三船による一括撰進||[[629年]][[1月4日 (旧暦)|1月4日]]<br/> - [[641年]][[10月9日 (旧暦)|10月9日]]||  |- |35||[[皇極天皇]]||こうぎょく||諡号||淡海三船による一括撰進||[[642年]][[1月15日 (旧暦)|1月15日]]<br/> - [[645年]][[6月14日 (旧暦)|6月14日]]||女帝。 |- |36||[[孝德天皇]]||こうとく||諡号||淡海三船による一括撰進||[[645年]][[6月14日 (旧暦)|6月14日]]<br/> - [[654年]][[10月10日 (旧暦)|10月10日]]||  |- |37||[[齊明天皇]]||さいめい||諡号||淡海三船による一括撰進||[[655年]][[1月3日 (旧暦)|1月3日]]<br/> - [[661年]][[7月24日 (旧暦)|7月24日]]||皇極天皇[[重祚]]。女帝。 |- |38||[[天智天皇]]||てんじ||諡号||淡海三船による一括撰進||[[661年]][[7月24日 (旧暦)|7月24日]]<br/> - [[671年]][[12月3日 (旧暦)|12月3日]]||中大兄皇子として有名。 |- |39||[[大友天皇]]||おおとも||諡号||[[明治]]3年追贈||[[671年]][[12月5日 (旧暦)|12月5日]]<br/> - [[672年]][[7月23日 (旧暦)|7月23日]]||通称、大友帝。 |- |40||[[天武天皇]]||てんむ||諡号||淡海三船による一括撰進||[[673年]][[2月27日 (旧暦)|2月27日]]<br/> - [[686年]][[9月9日 (旧暦)|9月9日]]||  |- |41||[[持統天皇]]||じとう||諡号||淡海三船による一括撰進||[[686年]][[9月9日 (旧暦)|9月9日]]<br/> - [[697年]][[8月1日 (旧暦)|8月1日]]||女帝。 |- |42||[[文武天皇]]||もんむ||諡号|| ||[[697年]][[8月1日 (旧暦)|8月1日]]<br/> - [[707年]][[6月15日 (旧暦)|6月15日]]||  |- |43||[[元明天皇]]||げんめい||諡号||淡海三船による一括撰進||[[707年]][[7月17日 (旧暦)|7月17日]]<br/> - [[715年]][[9月2日 (旧暦)|9月2日]]||女帝。 |- |44||[[元正天皇]]||げんしょう||諡号||淡海三船による一括撰進||[[715年]][[9月2日 (旧暦)|9月2日]]<br/> - [[724年]][[2月4日 (旧暦)|2月4日]]||女帝。 |- |45||[[聖武天皇]]||しょうむ||nowrap|(生前の尊称)|| ||[[724年]][[2月4日 (旧暦)|2月4日]]<br/> - [[749年]][[7月2日 (旧暦)|7月2日]]||  |- |46||[[孝謙天皇]]||こうけん||(生前の尊称)|| ||[[749年]][[7月2日 (旧暦)|7月2日]]<br/> - [[758年]][[8月1日 (旧暦)|8月1日]]||女帝。 |- |47||[[淳仁天皇]]||じゅんにん||諡号||明治3年追贈||[[758年]][[8月1日 (旧暦)|8月1日]]<br/> - [[764年]][[10月9日 (旧暦)|10月9日]]||淡路廢帝を改む。 |- |48||[[稱德天皇]]||しょうとく||(生前の尊称)|| ||[[764年]][[10月9日 (旧暦)|10月9日]]<br/> - [[770年]][[8月4日 (旧暦)|8月4日]]||孝謙天皇重祚。女帝。 |- |49||[[光仁天皇]]||こうにん||諡号|| ||[[770年]][[10月1日 (旧暦)|10月1日]]<br/> - [[781年]][[4月3日 (旧暦)|4月3日]]||継体天皇(第26代)以降では、<br/>歴代最高齢即位(62年)。 |- |50||[[桓武天皇]]||かんむ||諡号|| ||[[781年]][[4月3日 (旧暦)|4月3日]]<br/> - [[806年]][[3月17日 (旧暦)|3月17日]]||異称、柏原天皇。 |- |51||[[平城天皇]]||へいぜい||追号||在所(地名)||[[806年]][[3月17日 (旧暦)|3月17日]]<br/> - [[809年]][[4月1日 (旧暦)|4月1日]]||異称、奈良天皇。 |- |52||[[嵯峨天皇]]||さが||追号||譲位後の在所||[[809年]][[4月1日 (旧暦)|4月1日]]<br/> - [[823年]][[4月16日 (旧暦)|4月16日]]||  |- |53||[[淳和天皇]]||じゅんな||追号||譲位後の在所||[[823年]][[4月16日 (旧暦)|4月16日]]<br/> - [[833年]][[2月28日 (旧暦)|2月28日]]||異称、西院の帝。 |- |54||[[仁明天皇]]||にんみょう||諡号|| ||[[833年]][[2月28日 (旧暦)|2月28日]]<br/> - [[850年]][[3月21日 (旧暦)|3月21日]]||異称、深草天皇。 |- |55||[[文德天皇]]||もんとく||諡号|| ||[[850年]][[3月21日 (旧暦)|3月21日]]<br/> - [[858年]][[8月27日 (旧暦)|8月27日]]||異称、田邑の帝。 |- |56||[[清和天皇]]||せいわ||追号||譲位後の在所||[[858年]][[11月7日 (旧暦)|11月7日]]<br/> - [[876年]][[11月29日 (旧暦)|11月29日]]||異称、水尾天皇。 |- |57||[[陽成天皇]]||ようぜい||追号||譲位後の在所||[[876年]][[11月29日 (旧暦)|11月29日]]<br/> - [[884年]][[2月4日 (旧暦)|2月4日]]||  |- |58||[[光孝天皇]]||こうこう||諡号|| ||[[884年]][[2月5日 (旧暦)|2月5日]]<br/> - [[887年]][[8月26日 (旧暦)|8月26日]]||異称、小松天皇。 |- |59||[[宇多天皇]]||うだ||追号||譲位後の在所||[[887年]][[8月26日 (旧暦)|8月26日]]<br/> - [[897年]][[7月3日 (旧暦)|7月3日]]||臣籍降下するも、後に皇族に復帰し即位。 |- |60||[[醍醐天皇]]||だいご||追号||山陵||[[897年]][[7月3日 (旧暦)|7月3日]]<br/> - [[930年]][[9月22日 (旧暦)|9月22日]]||出生時は臣籍、後に皇族に復帰し即位。 |- |61||[[朱雀天皇]]||すざく||追号||譲位後の在所||[[930年]][[9月22日 (旧暦)|9月22日]]<br/> - [[946年]][[4月20日 (旧暦)|4月20日]]||  |- |62||[[村上天皇]]||むらかみ||追号||山陵||[[946年]][[4月20日 (旧暦)|4月20日]]<br/> - [[967年]][[5月25日 (旧暦)|5月25日]]||  |- |63||[[冷泉天皇]]||れいぜい||追号||譲位後の在所||[[967年]][[5月25日 (旧暦)|5月25日]]<br/> - [[969年]][[8月13日 (旧暦)|8月13日]]||  |- |64||[[圓融天皇]]||えんゆう||追号||在所(寺名・庵号)||[[969年]][[8月13日 (旧暦)|8月13日]]<br/> - [[984年]][[8月27日 (旧暦)|8月27日]]||  |- |65||[[花山天皇]]||かざん||追号||在所(寺名・庵号)||[[984年]][[8月27日 (旧暦)|8月27日]]<br/> - [[986年]][[6月23日 (旧暦)|6月23日]]||  |- |66||[[一條天皇]]||いちじょう||追号||在位中の皇居の宮名||[[986年]][[6月23日 (旧暦)|6月23日]]<br/> - [[1011年]][[6月13日 (旧暦)|6月13日]]||  |- |67||[[三條天皇]]||さんじょう||追号||譲位後の在所||[[1011年]][[6月13日 (旧暦)|6月13日]]<br/> - [[1016年]][[1月29日 (旧暦)|1月29日]]||  |- |68||nowrap|[[後一條天皇]]||ごいちじょう||追号||加後号||[[1016年]][[1月29日 (旧暦)|1月29日]]<br/> - [[1036年]][[4月17日 (旧暦)|4月17日]]||  |- |69||[[後朱雀天皇]]||ごすざく||追号||加後号||[[1036年]][[4月17日 (旧暦)|4月17日]]<br/> - [[1045年]][[1月16日 (旧暦)|1月16日]]||  |- |70||[[後冷泉天皇]]||ごれいぜい||追号||加後号||[[1045年]][[1月16日 (旧暦)|1月16日]]<br/> - [[1068年]][[4月19日 (旧暦)|4月19日]]||  |- |71||[[後三條天皇]]||ごさんじょう||追号||加後号||[[1068年]][[4月19日 (旧暦)|4月19日]]<br/> - [[1072年]][[12月8日 (旧暦)|12月8日]]||  |- |72||[[白河天皇]]||しらかわ||追号(遺諡)||譲位後の在所||[[1072年]][[12月8日 (旧暦)|12月8日]]<br/> - [[1086年]][[11月26日 (旧暦)|11月26日]]||  |- |73||[[堀河天皇]]||ほりかわ||追号||在位中の皇居の宮名||[[1086年]][[11月26日 (旧暦)|11月26日]]<br/> - [[1107年]][[7月19日 (旧暦)|7月19日]]||  |- |74||[[鳥羽天皇]]||とば||追号||譲位後の在所||[[1107年]][[7月19日 (旧暦)|7月19日]]<br/> - [[1123年]][[1月28日 (旧暦)|1月28日]]||  |- |75||[[崇德天皇]]||すとく||諡号|| ||[[1123年]][[1月28日 (旧暦)|1月28日]]<br/> - [[1141年]][[12月7日 (旧暦)|12月7日]]||讃岐院を改む。 |- |76||[[近衛天皇]]||このえ||追号||在位中の皇居の宮名||[[1141年]][[12月7日 (旧暦)|12月7日]]<br/> - [[1155年]][[7月23日 (旧暦)|7月23日]]||  |- |77||[[後白河天皇]]||ごしらかわ||追号||加後号||[[1155年]][[7月24日 (旧暦)|7月24日]]<br/> - [[1158年]][[8月11日 (旧暦)|8月11日]]||  |- |78||[[二條天皇]]||にじょう||追号||在位中の皇居の宮名||[[1158年]][[8月11日 (旧暦)|8月11日]]<br/> - [[1165年]][[6月25日 (旧暦)|6月25日]]||  |- |79||[[六條天皇]]||ろくじょう||追号||譲位後の在所||[[1165年]][[6月25日 (旧暦)|6月25日]]<br/> - [[1168年]][[2月19日 (旧暦)|2月19日]]||歴代最年少即位(生後7ヶ月)。<br/>歴代最年少譲位、歴代最年少上皇(2歳)。 |- |80||[[高倉天皇]]||たかくら||追号||譲位後の在所||[[1168年]][[2月19日 (旧暦)|2月19日]]<br/> - [[1180年]][[2月21日 (旧暦)|2月21日]]||  |- |81||[[安德天皇]]||あんとく||諡号|| ||[[1180年]][[2月21日 (旧暦)|2月21日]]<br/> - [[1185年]][[3月24日 (旧暦)|3月24日]]||後鳥羽天皇と在位一部重複。<br/>歴代最年少崩御(8歳)。 |- |82||[[後鳥羽天皇]]||ごとば||追号||加後号||[[1183年]][[8月20日 (旧暦)|8月20日]]<br/> - [[1198年]][[1月11日 (旧暦)|1月11日]]||隠岐院、さらに顕德院を改む。<br/>安德天皇と在位一部重複。 |- |83||[[土御門天皇]]||つちみかど||追号||譲位後の在所||[[1198年]][[1月11日 (旧暦)|1月11日]]<br/> - [[1210年]][[11月25日 (旧暦)|11月25日]]||nowrap|異称、土佐院、阿波院。 |- |84||[[順德天皇]]||じゅんとく||諡号|| ||[[1210年]][[11月25日 (旧暦)|11月25日]]<br/> - [[1221年]][[4月20日 (旧暦)|4月20日]]||佐渡院を改む。 |- |85||[[九條天皇]]||くじょう||諡号||明治3年追贈||[[1221年]][[4月20日 (旧暦)|4月20日]]<br/> - [[1221年]][[7月9日 (旧暦)|7月9日]]||九條廢帝、後廢帝を改む。<br/>在位期間最短(78日間)。 |- |86||[[後堀河天皇]]||ごほりかわ||追号||加後号||[[1221年]][[7月9日 (旧暦)|7月9日]]<br/> - [[1232年]][[10月4日 (旧暦)|10月4日]]||  |- |87||[[四條天皇]]||しじょう||追号||在所(葬家の邸宅を<br/>在所に擬す)||[[1232年]][[10月4日 (旧暦)|10月4日]]<br/> - [[1242年]][[1月9日 (旧暦)|1月9日]]||  |- |88||[[後嵯峨天皇]]||ごさが||追号(遺諡)||加後号||[[1242年]][[1月20日 (旧暦)|1月20日]]<br/> - [[1246年]][[1月29日 (旧暦)|1月29日]]||  |- |89||[[後深草天皇]]||ごふかくさ||追号(遺諡)||加後号||[[1246年]][[1月29日 (旧暦)|1月29日]]<br/> - [[1259年]][[11月26日 (旧暦)|11月26日]]||  |- |90||[[亀山天皇]]||かめやま||追号(遺諡)||譲位後の在所||[[1259年]][[11月26日 (旧暦)|11月26日]]<br/> - [[1274年]][[1月26日 (旧暦)|1月26日]]||  |- |91||[[後宇多天皇]]||ごうだ||追号(遺諡)||加後号||[[1274年]][[1月26日 (旧暦)|1月26日]]<br/> - [[1287年]][[10月21日 (旧暦)|10月21日]]||  |- |92||[[伏見天皇]]||ふしみ||追号||譲位後の在所||[[1287年]][[10月21日 (旧暦)|10月21日]]<br/> - [[1298年]][[7月22日 (旧暦)|7月22日]]||  |- |93||[[後伏見天皇]]||ごふしみ||追号(遺諡)||加後号||[[1298年]][[7月22日 (旧暦)|7月22日]]<br/> - [[1301年]][[1月22日 (旧暦)|1月22日]]||  |- |94||[[後二條天皇]]||ごにじょう||追号||加後号||[[1301年]][[1月22日 (旧暦)|1月22日]]<br/> - [[1308年]][[8月25日 (旧暦)|8月25日]]||  |- |95||[[花園天皇]]||はなぞの||追号(遺諡)||譲位後の在所||[[1308年]][[8月26日 (旧暦)|8月26日]]<br/> - [[1318年]][[2月26日 (旧暦)|2月26日]]||  |- |nowrap|96||[[光嚴天皇]]||こうごん||追号(遺諡)||在所(寺名・庵号)||[[1331年]][[9月20日 (旧暦)|9月20日]]<br/> - [[1333年]][[5月25日 (旧暦)|5月25日]]|| |- |97||[[光明天皇]]||こうみょう||追号(遺諡)||在所(寺名・庵号)||[[1336年]][[8月15日 (旧暦)|8月15日]]<br/> - [[1348年]][[10月27日 (旧暦)|10月27日]]||  |- |98||[[崇光天皇]]||すこう||追号(遺諡)|| ||[[1348年]][[10月27日 (旧暦)|10月27日]]<br/> - [[1351年]][[11月7日 (旧暦)|11月7日]]||  |- |99||[[後光嚴天皇]]||ごこうごん||追号(遺諡)||加後号||[[1352年]][[8月17日 (旧暦)|8月17日]]<br/> - [[1371年]][[3月23日 (旧暦)|3月23日]]||  |- |100||[[後圓融天皇]]||ごえんゆう||追号(遺諡)||加後号||[[1371年]][[3月23日 (旧暦)|3月23日]]<br/> - [[1382年]][[4月11日 (旧暦)|4月11日]]||  |- |101||[[後小松天皇]]||ごこまつ||追号(遺諡)||加後号||nowrap|[[1382年]][[4月11日 (旧暦)|4月11日]]<br/> - [[1412年]][[8月29日 (旧暦)|8月29日]]||  |- |102||[[稱光天皇]]||しょうこう||追号||2つの漢風諡号を<br/>合わせて追号とした号<br/>(稱德+光仁)||[[1412年]][[8月29日 (旧暦)|8月29日]]<br/> - [[1428年]][[7月20日 (旧暦)|7月20日]]||  |- |103||[[後花園天皇]]||ごはなぞの||追号||加後号||[[1428年]][[7月28日 (旧暦)|7月28日]]<br/> - [[1464年]][[7月19日 (旧暦)|7月19日]]||異称、後文德院。 |- |104||nowrap|[[後土御門天皇]]||nowrap|ごつちみかど||追号||加後号||[[1464年]][[7月19日 (旧暦)|7月19日]]<br/> - [[1500年]][[9月28日 (旧暦)|9月28日]]||  |- |105||[[後柏原天皇]]||ごかしわばら||追号||加後号||[[1500年]][[10月25日 (旧暦)|10月25日]]<br/> - [[1526年]][[4月7日 (旧暦)|4月7日]]||  |- |106||[[後奈良天皇]]||ごなら||追号||加後号||[[1526年]][[4月29日 (旧暦)|4月29日]]<br/> - [[1557年]][[9月5日 (旧暦)|9月5日]]||  |- |107||[[正親町天皇]]||おおぎまち||追号||nowrap|在所(二條殿)の面する町名||[[1557年]][[10月27日 (旧暦)|10月27日]]<br/> - [[1586年]][[11月7日 (旧暦)|11月7日]]||  |- |108||[[後陽成天皇]]||ごようぜい||追号||加後号||[[1586年]][[11月7日 (旧暦)|11月7日]]<br/> - [[1611年]][[3月27日 (旧暦)|3月27日]]||  |- |109||[[後水尾天皇]]||ごみずのお||追号(遺諡)||加後号||[[1611年]][[3月27日 (旧暦)|3月27日]]<br/> - [[1629年]][[11月8日 (旧暦)|11月8日]]||  |- |110||[[明正天皇]]||めいしょう||追号||2つの漢風諡号を<br/>合わせて追号とした号<br/>(元明+元正)||[[1629年]][[11月8日 (旧暦)|11月8日]]<br/> - [[1643年]][[10月3日 (旧暦)|10月3日]]||女帝。 |- |111||[[後光明天皇]]||ごこうみょう||追号||加後号||[[1643年]][[10月3日 (旧暦)|10月3日]]<br/> - [[1654年]][[9月20日 (旧暦)|9月20日]]||  |- |112||[[後西院天皇]]||ごさいいん||追号||加後号||[[1654年]][[11月28日 (旧暦)|11月28日]]<br/> - [[1663年]][[1月26日 (旧暦)|1月26日]]||  |- |113||[[霊元天皇]]||れいげん||追号(遺諡)||2つの漢風諡号を<br/>合わせて追号とした号<br/>(孝靈+孝元)||[[1663年]][[1月26日 (旧暦)|1月26日]]<br/> - [[1687年]][[3月21日 (旧暦)|3月21日]]||  |- |114||[[東山天皇]]||ひがしやま||追号||山陵||[[1687年]][[3月21日 (旧暦)|3月21日]]<br/> - [[1709年]][[6月21日 (旧暦)|6月21日]]||  |- |115||[[中御門天皇]]||なかみかど||追号||在所に近い宮門||[[1709年]][[6月21日 (旧暦)|6月21日]]<br/> - [[1735年]][[3月21日 (旧暦)|3月21日]]||  |- |116||[[櫻町天皇]]||さくらまち||追号||譲位後の在所||[[1735年]][[3月21日 (旧暦)|3月21日]]<br/> - [[1747年]][[5月2日 (旧暦)|5月2日]]||  |- |117||[[桃園天皇]]||ももぞの||追号|| ||[[1747年]][[5月2日 (旧暦)|5月2日]]<br/> - [[1762年]][[7月12日 (旧暦)|7月12日]]||  |- |118||[[後櫻町天皇]]||ごさくらまち||追号||加後号||[[1762年]][[7月27日 (旧暦)|7月27日]]<br/> - [[1770年]][[11月24日 (旧暦)|11月24日]]||女帝。[[2010年]]現在、最後の女帝である。 |- |119||[[後桃園天皇]]||ごももぞの||追号||加後号||[[1770年]][[11月24日 (旧暦)|11月24日]]<br/> - [[1779年]][[11月9日 (旧暦)|11月9日]]||  |- |120||[[光格天皇]]||こうかく||諡号|| ||[[1779年]][[11月25日 (旧暦)|11月25日]]<br/> - [[1817年]][[3月22日 (旧暦)|3月22日]]||  |- |121||[[仁孝天皇]]||にんこう||諡号|| ||[[1817年]][[3月22日 (旧暦)|3月22日]]<br/> - [[1846年]][[2月6日 (旧暦)|2月6日]]||  |- |122||[[孝明天皇]]||こうめい||諡号|| ||[[1846年]][[2月13日 (旧暦)|2月13日]]<br/> - [[1866年]][[12月25日 (旧暦)|12月25日]]||  |- |123||[[明治天皇]]||めいじ||追号||[[一世一元の制]]による||[[1867年]][[1月9日 (旧暦)|1月9日]]<br/> - [[1912年]][[7月30日]] 0:43||  |- |124||[[大正天皇]]||たいしょう||追号||一世一元の制による||[[1912年]][[7月30日]]<br/> - [[1926年]][[12月25日]] 1:25||  |- |125||[[昭和天皇]]||しょうわ||追号||一世一元の制による||[[1926年]][[12月25日]]<br/> - [[1989年]][[1月7日]] 6:33||履中天皇(第17代)以降では、<br/>在位期間最長(62年2週間)。 |- |126||[[平成天皇]]||へいせい|| || ||[[1989年]][[1月7日]] - ||関東の地で即位した初の天皇。 |- |} ==[[日本帝國皇帝]]の記録== ===在位長期間の[[日本帝國皇帝]]=== *ただし、継体天皇(第26代)以降に限る。 #[[昭和天皇]](第125代): 22660日(62年) #[[明治天皇]](第123代): 16604日(45年6ヶ月) #[[光格天皇]](第120代): 13641日(37年4ヶ月) #[[後土御門天皇]](第104代): 13211日(36年2ヶ月) #[[後花園天皇]](第103代): 13133日(35年11ヶ月) ===在位短期間の[[日本帝國皇帝]]=== #[[九條天皇]](第85代): 78日(2ヶ月) #[[大友天皇]](第39代): 226日(7ヶ月) #[[用明天皇]](第31代): 596日(1年7ヶ月) #[[光厳天皇]](第96代): 625日(1年8ヶ月) #[[花山天皇]](第65代): 677日(1年10ヶ月) ===高齢即位の[[日本帝國皇帝]]=== *ただし、[[継体天皇]](第26代)以降に限る。 #[[光仁天皇]](第49代): 62歳 #[[平成天皇]](第126代): 55歳 #[[光孝天皇]](第58代): 55歳 ===年少即位の[[日本帝國皇帝]]=== *即位時の年齢。括弧内は数歳。 #[[六條天皇]](第79代): 7ヶ月(2歳) #[[安德天皇]](第81代): 1歳4ヶ月(3歳) #[[四條天皇]](第87代): 1歳7ヶ月(2歳) #[[土御門天皇]](第83代): 2歳1ヶ月(4歳) #[[九條天皇]](第85代): 2歳6ヶ月(4歳) ===長寿の[[日本帝國皇帝]]=== *崩御時の年齢。括弧内は数歳。ただし、[[推古天皇]](第33代)以降に限る。 2015年現在の[[明仁|平成天皇陛下樣]]も、1933年出生で81歳であり、長寿の天皇である。 #[[昭和天皇]](第125代): 87歳8ヶ月 #[[後水尾天皇]](第109代): 84歳2ヶ月(85歳) #[[陽成天皇]](第57代): 80歳9ヶ月(82歳) #[[霊元天皇]](第113代): 78歳2ヶ月(79歳) <!--# [[後亀山天皇]](第99代): 76歳10ヶ月?(78歳?) - 年齢に諸説があるため参考記録。--> #[[白河天皇]](第72代): 76歳(77歳) ===短命の[[日本帝國皇帝]]=== *崩御時の年齢。括弧内は数歳。 #[[安德天皇]](第81代): 6歳4ヶ月(8歳) #[[四條天皇]](第87代): 10歳10ヶ月(12歳) #[[六條天皇]](第79代): 11歳7ヶ月(13歳) #[[九條天皇]](第85代): 15歳7ヶ月(17歳) #[[近衛天皇]](第76代): 16歳2ヶ月(17歳) ==[[日本帝國皇帝]]の関連人物一覧== ===追尊天皇の一覧=== 薨去の後に天皇の尊号を諡された者である。崇道天皇を除き、薨後にその子が天皇に即位したことによる。 *岡宮天皇 - [[草壁皇子]]。40代天武天皇の皇太子で、42代文武天皇・44代元正天皇の父。即位前に病没し、「岡宮御宇天皇(おかみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「長岡天皇」とも。 *崇道尽敬皇帝 - [[舎人親王]]。47代淳仁天皇の父。子の即位により「崇道尽敬皇帝」を追尊。単に「尽敬天皇」とも。 *春日宮天皇 - [[施基皇子]]。49代光仁天皇の父。子の即位により「春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「田原天皇」とも。 *崇道天皇 - [[早良親王]]。50代桓武天皇の弟で廃太子([[785年]]没)。[[800年]]、「崇道天皇」の尊号を受ける。 *陽光院太上天皇 - [[誠仁親王]]。107代正親町天皇の東宮。即位前に死去。太上天皇、院号「陽光院」を追尊。「陽光天皇」とも。 *慶光天皇 - [[閑院宮典仁親王]]。120代光格天皇の父。[[1884年]]、贈太上天皇、諡号「慶光天皇」を追尊。→[[尊号一件]] ===皇位に就か無かった太上天皇の一覧=== *後高倉院 - [[守貞親王]]。86代[[後堀河天皇]]の父。皇位を経ずして[[法皇]]となり[[院政]]を執る。[[皇統譜]]では「後高倉天皇」。 *後崇光院 - [[伏見宮貞成親王]]。103代[[後花園天皇]]の父。生前に太上天皇尊号宣下、院号「後崇光院」。皇統譜では「後崇光天皇」。 ===一説に天皇とされる者の一覧=== * [[ヤマトタケル|日本武尊]] - 14代[[仲哀天皇]]の父。『[[風土記]]』において「倭武天皇」と記す例がある。 *[[神功皇后]] - 14代仲哀天皇の后で15代[[応神天皇]]の母。[[江戸時代]]までは歴代天皇の一人(15代)に数えられた。 *[[菟道稚郎子]] - 15代[[応神天皇]]皇太子。『[[播磨国風土記]]』に「宇治天皇」とある。 *[[市辺押磐皇子]] - 17代[[履中天皇]]皇子。23代[[顕宗天皇]]の父。『播磨国風土記』に「市辺天皇」とある。 *[[飯豊青皇女]] - 履中天皇の娘(異説あり)。22代[[清寧天皇]]の死後、23代顕宗天皇・24代[[仁賢天皇]]が皇位を譲り合っている間、天皇としての政務を行っていた。『[[扶桑略記]]』などに「飯豊天皇」とある。 ===天皇に準ずる立場に有った者の一覧=== *[[蘇我馬子]]・[[蘇我蝦夷]]・[[蘇我入鹿]] - 大臣。邸宅は「宮門(みかど)」と呼ばれ、子は[[親王]]に準じた扱いを受けた。 *[[聖徳太子]] - 『日本書紀』では「豊聡耳法大王」、「法主王」と記す例がある。『[[隋書]]』に記述された俀王[[多利思比孤]]は聖徳太子を指すとする説もある。 *[[間人皇女]] - 34代[[舒明天皇]]の皇女、36代[[孝徳天皇]]の[[皇后]]。37代[[皇極天皇|斉明天皇]]の死後、38代[[天智天皇]]即位までの間即位していたとする説がある。『[[万葉集]]』の「中皇命(なかつすめらみこと)」は間人皇女のこととされる。 *[[敦明親王]](小一条院) - 67代[[三条天皇]]皇子。[[1016年]]、[[東宮]]。[[1017年|翌年]]東宮を退くも、院号宣下を受け[[太上天皇]]に准ずる。 ===天皇に准ずる立場を称した者・天皇に擁立された者の一覧=== *[[塩焼王]] - [[天武天皇]]の孫で、[[新田部親王]]の子。[[天平宝字]]8年([[764年]])の[[藤原仲麻呂の乱]]で、[[藤原仲麻呂]]から「今帝」として擁立される。しかし、朝廷軍の前に藤原仲麻呂軍は敗北、逃走中に捕縛され斬殺される。 *[[平将門]] - [[桓武天皇]]5世孫。[[940年]]に、関東に独立勢力を築き上げ、八幡神の託宣により「新皇」に即位するも同年敗死。 *[[恒良親王]] - 後醍醐天皇の皇子。後醍醐が吉野へ逃れる際に一時的に皇位を譲られるが、[[南朝 (日本)|南朝]]の成立により無意味となる。 *[[懐良親王]] - 後醍醐天皇の皇子。南朝方の征西将軍として九州に勢力を張り、[[明]]から[[倭寇]]の取り締まりを求められ「[[日本国王]]」の冊封を受ける。 *[[足利義満]] - [[室町幕府]]第三代[[征夷大将軍]]。[[准三宮]](上皇に準じた待遇)を受ける。以降の将軍も含め、[[明]]より「日本国王」の冊封を受ける。没後、太上天皇の宣下を受けるが[[室町幕府]]はこれを辞退する。院号「鹿苑院」。 ====逆賊吉野朝==== 「[[室町時代]]」に、「[[日本帝國皇族]]」の「[[大覚寺統]]」の「[[後醍醐天皇]]」が、「建國した朝廷」。 =====逆賊吉野朝歴代逆賊皇族===== *逆賊吉野朝第初代目・ 逆賊皇族・尊治親王([[後醍醐天皇]]) - 在位1318~1339 *逆賊吉野朝第二代目・ 逆賊皇族・義良親王([[後村上天皇]]) - 在位1339~1368 *逆賊吉野朝第三代目・ 逆賊皇族・寛成親王([[長慶天皇]])  - 在位1368~1383 *逆賊吉野朝第四代目・ 逆賊皇族・熙成親王([[後亀山天皇]]) - 在位1383~1392 *逆賊吉野朝第五代目・ 逆賊皇族・[[小倉宮恒敦親王]] - 在位1410~1422 後亀山天皇の子 *逆賊吉野朝第六代目・ 逆賊皇族・[[小倉宮聖承親王]] - 在位1422~1443 小倉宮恒敦親王の子 *逆賊吉野朝第七代目・ 逆賊皇族・[[金蔵主尊義王]]([[中興天皇]]) - 在位1443~1443 後亀山天皇の弟(護聖院宮)の孫? もしくは後亀山天皇の子である小倉宮良泰親王の子? 禁闕の変で死去。 *逆賊吉野朝第八代目・ 逆賊皇族・[[自天皇尊秀王]]([[自天皇]]) - 在位1443~1457 金蔵主の子 、長禄の変で死去。 *逆賊吉野朝第九代目・ 逆賊皇族・[[南天皇尊雅王]]([[南天皇]]) - 在位1457~1459 以後“西陣南帝”を除いて後南朝は史書より姿を消す。 ====奥羽列藩同盟東武皇帝==== *[[北白川宮能久親王]] - 日光[[輪王寺]][[門跡]]時代の[[1868年]]、[[奥羽列藩同盟]]に依り「東武皇帝」に推戴されたとの説がある。アメリカ公使が本国に報告しているほか、当時の新聞に同様の記事がある<ref>ニューヨーク・タイムズ 1968年10月18日号に「JAPAN: Northern Choice of a New Mikado(北部日本は新たなミカドを擁立した)」とある</ref>。 ===天皇だと自称した人物の一覧=== この節の参考文献は、下記の通り<ref>『天皇家歴史大辞典』(別冊[[歴史読本]]、[[新人物往来社]]、2000年)211頁以下、[[保阪正康]]『天皇が十九人いた』([[角川文庫]]、2001年)14頁以下。</ref>。 *[[伊藤天皇]] - 伊藤清作、[[逆賊吉野朝]]潜伏の地、[[奈良縣吉野郡川上村]]出身。[[京都市]]で木材会社を経営。[[尚尊王]]の末裔を主張。 *[[上村天皇]] - 上村某。[[福岡県]]で、後村上天皇の末裔を主張。 *[[葛尾天皇]] - 松本忠致、[[福島県]][[双葉郡]][[葛尾村]]で、長慶天皇の直系子孫を主張。この地には、[[西陣南帝]]が[[応仁の乱]]後に潜伏していたとし、後南朝の[[伝承]]が多く残されている。 *[[工藤天皇]] - 工藤智久、[[1973年]]に「智宮久仁親王」を自称し、明治天皇の曾孫を主張した。祖父が明治天皇の[[1878年]]の[[上田市]]行幸時の落胤であると称しマスコミの好餌となった。 *[[熊沢天皇]] - 現在までに4人が熊沢天皇を称した。 **[[熊沢寛道]] - 後亀山天皇第19世の子孫、南朝第118代天皇を称し、諱を尊熟と自称する。後に法皇を自称。 **熊沢乃武夫、熊沢信彦 - [[愛知県]][[津島市]]で、熊沢寛道の家を分家と見なし、熊沢家本家を主張。 **熊沢照元 - [[東京都]]で、熊沢寛道の養父の弟の曾孫に当たり、「熊沢寛道は養子である」として熊沢家本家を主張。 **熊沢里吉 - 1940年代後半に、[[長崎県]][[北松浦郡]]で[[石炭]]の闇商売を摘発された際、熊沢家本家を主張。 **熊沢俊孝 - 愛知県[[一宮市]]で、熊沢家本家を主張。この後、間もなく逝去。 *[[池端天皇]] - 熊沢常光(常春)。[[護良親王]]の子の[[治広王]]の末裔と称し、元尾張藩藩士の家柄で、瀬部熊沢家の当主という。名古屋市にて、熊沢家本家を主張するが、まもなく没した。 *[[国憲天皇]] - [[熊本県]]の農民。襤褸を身に纏い、常に手に数珠を弄っていたという。 *[[酒本天皇]] - 酒本正道。[[岡山県]]で、後亀山天皇の後裔を主張。 *[[佐渡天皇]] - [[新潟県]][[佐渡島]]の人か。順徳天皇の末裔を主張。 *[[佐藤天皇]] - 佐藤英壱郎。[[1948年]]頃[[岡山県]][[和気郡]]で、88代高倉天皇の第一皇子の直系を主張。元[[憲兵]]で、剣道五段、柔道五段、弓道二段、空手初段だったらしい。 *[[璽光尊]] - 戦後新たに天皇を名乗った人。元号を霊寿と改め、天皇や皇族、そして[[ダグラス・マッカーサー]]に自らの皇居参内を命じ、やがて金沢に[[遷都]]し、私造[[紙幣]]をも発行した新興[[宗教]]の教祖。 *[[外村天皇]] - 外村光陽。[[ブローカー]]。1946年名古屋市の繁華街で、後醍醐天皇の末流を主張し、名古屋行幸に来た[[昭和天皇]]を偽物と断じたが、郡衆に袋叩きに遭った。[[衆議院議員総選挙]]に立候補もしている。 *[[竹村天皇]] - 竹村稔。[[静岡県]][[浜松市]]で、農業を営む。大覚寺統の末裔を戦前から主張。1930年代後半に、元[[宮内大臣]][[一木喜徳郎]]を始め[[内大臣]]等に「我こそ天皇である」と手紙を出し続けた所、一木に「いい加減にしろ」と一喝されたという。 *[[田宮天皇]] - 田宮仙海。京都市で、96代後醍醐天皇の末流を主張。 *[[長田天皇]] - 長田某。愛知県で、98代長慶天皇の子孫を主張。自分が、南朝35代目の天皇と名乗った。 *[[長浜天皇]] - 現在までに2人が長浜天皇を称した。 **[[長浜豊彦]] - [[鹿児島県]][[硫黄島 (鹿児島県)|硫黄島]]で81代安徳天皇の末裔を主張。 **[[長浜政風]] - 長浜家本家を主張。長浜豊彦の縁者という。[[雲陰法皇顕彰会]]の主催者。 *[[法の天皇]] - 熊本県の人。81代安徳天皇の末裔を主張。印半纏の襟に「法天皇」と染め抜いたものをいつも着ていたという。 *三浦天皇 - [[三浦芳聖]]。愛知県[[豊川市]]で、[[長慶天皇]]の末裔で[[後醍醐天皇]]の皇子・[[尊良親王]]の生まれ変わりだと主張。「神風串呂」なる[[神道霊学]]を立ち上げ、「天皇は狸に祟られている」と吹聴した。 *[[安川天皇]] - 安川守(仮名という)。京都市で、112代霊元天皇の末裔を主張。 *[[横倉天皇]] - 1940年代後半に[[土佐県]][[吾川郡]]で81代安徳天皇の末裔を主張。 ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} ==外部リンク== *[http://homepage1.nifty.com/kitabatake/tennouichiran.html 日本帝國皇帝歴代名簿] *[http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/index.html 日本帝國皇帝歴代陵墓] - 日本帝國皇帝陵墓に関する情報の一覧 *[http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/history/koushitsu/DaisuHikaku.htm 日本帝國皇帝歴代数對照表名簿]…明治以前と現在の「日本帝國皇帝」の異同が対照できる一覧表名簿 ==関係事項== *[[崇光天皇]] *[[伏見宮]] *[[北白川宮]] *[[竹田宮]] *[[竹田宮恒泰王殿下樣]] *[[日本帝國皇族]] *[[日本帝國皇帝]] {{歴代天皇一覧}} {{DEFAULTSORT:にほんのてんのうのいちらん}} [[Category:日本]] [[Category:日本帝國]] [[Category:日本帝國皇族]] [[Category:日本帝國皇帝]] [[category:日本の天皇]] [[Category:君主の一覧]] [[category:元首の一覧]] [[category:倭人伝]] [[Category:古墳時代]] [[Category:一覧]]