村井長頼
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村井 長頼(むらい ながより、天文12年(1543年) - 慶長10年10月26日(1605年12月6日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。前田氏の重臣。通称は又兵衛、長八郎。豊後守。嫡男に長次。本姓は平氏。家紋は丸ノ内上羽蝶。
生涯
天文12年(1543年)、誕生。
はじめ、織田氏の家臣・前田利久(前田利家の兄)に仕え、織田信長の命により利家が前田家を継ぐと、それに従って家臣となった。一時、利家が織田家を辞した時にも従い、常に戦場でも共にあり幾度もその盾となって救っており、 利家からは通称である又左衛門から「又」の字を拝領するほど信頼された。
その後、石山本願寺攻め、金ヶ森城攻め、長篠の戦いなどで数多くの軍功をあげ、利家が加賀国に封じられて大名になると、家老となり奥村永福らと共に加賀藩の基礎を築いた。利家の死後は隠居するが、加賀征伐を行おうとした徳川家康に対して、前田利長が母の芳春院を人質に差し出した時はこれ従って江戸に下った。
慶長10年 (1605年) 、病死か天寿を全うしたかで、江戸で死去した。