韓国併合
韓国併合(かんこくへいごう)とは、1910年(明治43年)8月29日、韓国併合ニ関スル条約に基づいて大日本帝国が大韓帝国を併合した事実を指す。日韓併合、朝鮮併合、日韓合邦とも表記されている。
概要
1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効、大日本帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。1945年(昭和20年)8月15日、大日本帝国は第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)における連合国に対する敗戦に伴って実効支配を喪失し、同年9月2日、ポツダム宣言の条項を誠実に履行することを約束した降伏文書調印によって、正式に大日本帝国による朝鮮半島領有は終了した。
条約上の領有権の放棄は、1952年(昭和27年)4月28日のサンフランシスコ平和条約発効によるが、1945年9月9日に朝鮮総督府が、連合国軍の一部として朝鮮半島南部の占領にあたったアメリカ軍への降伏文書に署名し、領土の占有を解除した。代わりに在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁(アメリカ軍政庁)が統治を開始した。その後朝鮮半島は、北緯38度線を境に南部はアメリカ軍、北部はソビエト連邦軍の2つの連合国軍を中心にした分離統治が続き、1948年(昭和23年)8月15日には、李承晩がアメリカ軍政庁からの独立を宣言して南部に大韓民国第一共和国が建国され、同年9月9日には、北部にソビエト連邦の後押しを受けた金日成を指導者とする朝鮮民主主義人民共和国が建国された。
「韓国併合」や「日韓併合」というとき、条約の締結により大韓帝国が消滅し、朝鮮半島が大日本帝国の領土となった瞬間的事実だけではなく、併合の結果として朝鮮半島を領有した継続的事実を含意する場合もある(例:日本統治時代)。
経緯
冊封体制下の秩序と開国
当時朝鮮半島を治めていた李氏朝鮮は、清朝中国を中心とした冊封体制を堅持し、鎖国状態にあった。大日本帝国による開国要求は、その要求国書において歴代の中国皇帝と同列の「天皇」を使用していたこともあり、長らく中華秩序の一翼を担ってきた朝鮮側からは、中華秩序に対する挑戦と受け取られた。朝鮮側は、大日本帝国政府による近代化の要請を内政干渉としたほか、朝鮮では大日本帝国の民間知識人による近代化のアドバイスも侵略的意図があるものと捉えられ、朝鮮王朝内部における政争の一因となった。
西欧列強や、朝鮮を取り込もうとするロシア帝国・大日本帝国は朝鮮半島の鎖国状態が続くことを容認せず、大日本帝国は江華島事件を機に朝鮮と不平等条約である日朝修好条規を締結し、これを契機に朝鮮は列強諸国とも同様の条約を結ぶことで開国を強いられた。大日本帝国側は条約締結の際、朝鮮を清朝の冊封体制から離脱させるため「朝鮮は自主の邦」という文言を入れることに固執したが、これは冊封体制に依存していた朝鮮王朝や朝鮮側知識人にとって容易には理解しがたいものであった(冊封体制下の国、すなわち「朝貢国」が、即「従属国・保護国」を意味するかについて認識の差が日朝間に存在した)。また西欧列強が自国の価値観を非ヨーロッパ圏の諸民族・諸文明に押し付けていたのと同じ様に、大日本帝国も自国の価値観を李氏朝鮮へ押し付けようとしたため、朝鮮側の反発を招いた。
開国後から日清戦争まで
大日本帝国による朝鮮開国後に甲申事変が起きるなど、李氏朝鮮の内部からも改革の要求は出ていたが、実権を掌握していた興宣大院君と閔妃は守旧的態度を採り続けた。大日本帝国は自国主導による朝鮮半島の政治改革を目指したが、清国側はあくまでも「李氏朝鮮は冊封体制下の属邦である」との主張を変えなかった。
朝鮮半島を挟んで日清両国の関係が緊張するなか、李氏朝鮮内部においても悪政と外圧の排除を唱えた東学党による農民反乱・甲午農民戦争が起きた。日清両国はそれぞれ、「乱の鎮圧」を名目に朝鮮半島に出兵したが、既に農民勢力と政府の間には和約が結ばれ、日清両軍は出兵の口実を失った。しかしこれを、朝鮮への清国の影響力を排除する好機と捉えた陸奥宗光など大日本帝国政府側は「李氏朝鮮政府の内政改革勢力からの駐兵要求」など、新たに口実を設けて自軍の駐留を続けた。清国も同様に軍の駐留を続行し、1894年(明治27年)日清戦争が勃発することとなった。日清戦争で勝利した大日本帝国は、清国との間に下関条約を締結した。大日本帝国が朝鮮での独占的利権を得るために清国と朝鮮との宗属関係の排除が必要であり、下関条約によって朝鮮が自主独立国であることを認めさせることにより、大日本帝国の権益の障害となる清国の朝鮮半島における影響力を排除することに成功した。
三国干渉後と大韓帝国の成立
日清戦争直後の朝鮮半島では、大日本帝国を後ろ盾とする改革派の勢いが強まったものの、その後大日本帝国が西欧列強による三国干渉に屈服したことで、朝鮮王室は列強同士の牽制による独立維持を目指し、帝政ロシアに接近した。そのため、政争が過激化した。閔妃暗殺もこの時期である。1896年(明治29年)に親露保守派が高宗をロシア公使館に移して政権を奪取、高宗はロシア公使館において1年あまり政務を執う異常事態となった(露館播遷)。この事態は、朝鮮が帝政ロシアの保護国と見なされる危険性もあったことや、朝鮮の自主独立を目的とする民間団体である独立協会からの還宮要請に応えるため、高宗は1897年(明治30年)2月に慶福宮に還宮し、皇帝が主権を取る清国や大日本帝国、帝政ロシアに対抗するため、高宗は1897年(明治30年)10月に皇帝に即位し、国号を朝鮮国(李氏朝鮮は通称)から大韓帝国と改めた。
光武改革
高宗は皇帝専制による近代化を志向し、「光武改革」とよばれる上からの改革を行おうとした。1898年(明治31年)、「光武量田事業」とよばれる土地調査・改革が行われ、日露戦争によって中止に追い込まれるまで土地登録者に地券に相当する「地契」を発行するなど土地所有権保護と国家による近代的地税賦課を可能にする土地改革が朝鮮国(大韓帝国)全土の3分の2にあたる218郡で実施された。1899年(明治32年)8月には「大韓帝国国制」を制定し、皇帝による絶対主義君主支配を明確にした。しかし、皇帝専制は市民的改革路線を排除するものであり、独立協会や進歩会(のちの一進会)など改革派の排除・弾圧が行われ、近代化に向けた国論の統一が奏功しなかったことや、国外からの干渉などから、大韓帝国が独自に近代化を進めることは困難だった。日露戦争により帝国主義列国の相互牽制による独立維持という朝鮮国(大韓帝国)の外交方針は崩れ、大日本帝国による朝鮮国(大韓帝国)の保護国化が強行され、光武改革は潰えた。
韓国側が自主近代化の証拠と考えている「光武改革」であるが、日本では日清戦争に勝利した日本が着手した改革であると考えられており、多くの史料もこの説を支持している。イギリスの旅行作家イザベラ・バードは、光武改革について著書『朝鮮紀行』で以下のように述べている。
朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはぴこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。 盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。
併合まで
ハーグ密使事件以降の大日本帝国国内では、「朝鮮を自国領土に組み込み朝鮮人を皇民とせしは皇国民の質の劣化である」という見地により、反対の意見も根強かった。併合時に必要となる莫大な資金の負担についても政財界より併合反対の意見があった。
反対に、軍部出身者を中心とした中国への膨張政策のため、日韓併合賛成派もあり、「我が国上下輿論沸然として鼎(かなえ)の湧くが如く、或いは新聞に、演説に併呑を論じ、合邦を説くこと盛んなり」という記事にされるなど、国論は併合賛成・反対に二分されていた。朝鮮統監であった伊藤博文の死後は、賛成派に対する歯止めを失い、朝鮮側からの併合の要請に対し徐々に賛成へと傾いた。
伊藤博文については、現在も日韓双方で解釈が異なっている。
日本での解釈
伊藤博文は、国際協調重視派の軍部としばしば激しく対立した。また、韓国併合については、保護国化による一時的(実質)な統治で充分であるとの考えから、併合反対の最右翼の立場を取っていた。近年発見された伊藤のメモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて伊藤博文研究の第一人者とされる京都大学教授の伊藤之雄は、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」としている。従来日本では、伊藤は一時的な保護国化のみを提唱し、また併合に反対の姿勢を貫いたとされ、死の間際には、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれている。
韓国での解釈
近年の韓国では、伊藤博文を殺害した安重根をテロリストではなく、祖国の英雄として解釈している。そのため、伊藤が併合反対派であったことや、安重根がテロリストと呼ばれた当事の韓国内や日本側の見識とは異なった認識が現在なされている。
韓国では、伊藤博文は対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたことなどから「併合は時期尚早である」として反対していたが、1909年(明治42年)4月に桂太郎首相と小村寿太郎外相が伊藤に「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」を行ったところ、「(伊藤)公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても、「その大網を是認」した。伊藤博文は2週間後に東京で行った演説でも、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせんとす」と併合を容認する発言をして聴衆を驚かせている。伊藤暗殺時には、もはや大日本帝国政府内において朝鮮併合に反対する政治勢力は存在しなかった。
ロシアの南下と日露戦争
大韓帝国は冊封体制から離脱したものの、満州に権益を得た帝政ロシアが南下政策を取りつつあった。当初、大日本帝国側は外交努力で衝突を避けようとしたが、帝政ロシアとの関係は朝鮮半島や満州の利権をどちらが手に入れられるかで対立した。大日本帝国とロシアは満韓交換論などめぐり交渉を続けたが、両国の緊張は頂点に達した。1904年(明治37年)には日露戦争の開戦にいたる。
大日本帝国政府は開戦直後、朝鮮半島内における軍事行動の制約をなくすため、中立を宣言していた大韓帝国に軍による威圧をかけた上で、1904年(明治37年)2月23日に日韓議定書を締結させた。また、李氏朝鮮による独自の改革を諦め韓日合邦を目指そうとした進歩会は、鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本側への協力を惜しまなかった。8月には第一次日韓協約を締結し、財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦して、大韓帝国政府内への影響力を強めたり、閔妃によって帝政ロシアに売り払われた関税権を買い戻すなどして、大日本帝国による保護国化を進めていった。
桂・タフト協定
日本は日本海海戦での勝利を経て、ロシア軍もセオドア・ルーズベルトによる講和勧告を受け入れていた1905年7月29日、アメリカ合衆国のウィリアム・タフト陸軍長官が来日し、内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、アメリカは韓国における日本の支配権を承認し、日本はアメリカのフィリピン支配権を承認する内容の桂・タフト協定を交わす。桂・タフト協定は、1902年の日英同盟をふまえたもので、以下の三点が確認された。
- 日本は、アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。
- 極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。
- アメリカは、日本の韓国における指導的地位を認める。
会談の中で、桂は、韓国政府が日露戦争の直接の原因であると指摘し、朝鮮半島における問題の広範囲な解決が日露戦争の論理的な結果であり、もし韓国政府が単独で放置されるような事態になれば、再び同じように他国と条約を結んで日本を戦争に巻き込むだろう、従って日本は韓国政府が再度別の外国との戦争を日本に強制する条約を締結することを防がなければならない、と主張した。 桂の主張を聞いたタフト特使は、韓国政府が日本の保護国となることが東アジアの安定性に直接貢献することに同意し、また彼の意見として、ルーズベルト大統領もこの点に同意するだろうと述べた。この協定は7月31日に電文で確認したセオドア・ルーズベルト大統領によって承認され、8月7日にタフトはマニラから大統領承認との電文を桂に送付した。桂は翌8月8日に日露講和会議の日本側全権として米国ポーツマスにいた外相小村寿太郎に知らせている。
桂・タフト協定および、第2次日英同盟、日露戦争の結果結ばれたポーツマス条約によってロシアにも韓国に対する優越権を認めさせた結果、事実上、英米露が大韓帝国に対する日本の支配権を認めた結果となった。なお、韓国の歴史家ではこの桂・タフト協定定が日本によって韓国が併合された直接の原因であるとするものもいる。
第二次日韓協約とハーグ密使事件
英米政府およびロシア政府から朝鮮半島に関する支配権を承認された大日本帝国政府は、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)を大韓帝国と締結する。この協約によって大韓帝国の外交権はほぼ日本に接収されることとなり、事実上、保護国となる。12月には、統監府が設置される。
高宗は「条約締結は強制であり無効である」と抗議をする。一方で、高宗は日韓保護条約に賛成しており、批判的だった大臣たちの意見を却下していたとする「日省録」や「承政院日記」も残されている。また締結時に学部大臣だった李完用も閣議で『わが国の外交は変幻きわまりなく、その結果日本は2回の大戦争に従事し、多大の犠牲を出して、ようやく今日における韓国の地位を保全したのだから、これ以上わが国の外交が原因で東洋の平和を乱し、再び危地に瀬するような事は、その耐えざる所』とし、日本との協約締結を肯定している。現在の韓国では、李完用を売国奴とみなす見解が多い。
1907年(明治40年)、高宗は第2回万国平和会議に密使を派遣した(ハーグ密使事件)。しかし第二次日韓協約は当時の帝国主義国間で認められた合法な国際協約であったため、この訴えは第2回万国平和会議から不当なものとして拒絶された。この事件に対して、日本から抗議がなされ、高宗はハーグへの密使事件は自分の知らなかったことであると訴えるが、日本との関係を重視する李完用首相や官僚たちの要求により、7月20日には退位することになった。7月24日には第三次日韓協約を結んで内政権を掌握し、8月1日には大韓帝国の軍隊を解散させた。
朝鮮併合と大日本帝国統治時代
伊藤博文の暗殺を受け、韓国側からの提案である一進会の上奏声明等を経て韓国併合の話が持ち上がる。この時会員100万人といわれる韓国最大政党である「一進会」は併合推進派であった。
二分された国内世論に慎重な日本政府は併合の正当性について列国に打診している。アメリカとイギリスは、このまま韓国を放置することは地域に混乱与えると考え、韓国併合に賛成した。その他、清国、ロシア、イタリア、フランス、ドイツといった当時の主要国からの反対も全くなかった。各国の賛成を得て、また一進会も併合を望み、日本は韓国併合に乗り出した。 日本政府は、当時最も穏やかな併合だったイギリスのスコットランド併合を参考に韓国の併合を進めている。そして明治43年(1910)、日韓併合条約が締結された。
韓国統監府を辞して帰国していた伊藤は元来併合に反対であった。帝国内においても根強い併合反対派は存在したが、度重なる韓国側の条約無視(ロシアへの内通等)により併合賛成派が優勢となっていた。安重根による伊藤博文暗殺(それに対する民衆の怒り)により、公が元勲の一人だったことも相まって、日本国内の世論は併合へ大きく傾いた。同年3月30日には小村寿太郎外相が桂太郎首相に「適当な時期に於て韓国の併合を断行すること」を方針とする対韓大方針案を提出し、これは7月6日に閣議決定され、同日明治天皇の裁可を得た。
一進会の上奏声明
12月4日には大韓帝国の一進会が「韓日合邦を要求する声明書」を上奏した。「韓日合邦を要求する声明書」は大日本帝国とが対等な立場で新たに一つの政府を作り、一つの大帝国を作るという、国際的に見て、両国の時勢・国力比から考えても受け入れられない提案であった。 また、一進会の声明の中で「日本は日清戦争で莫大な費用と多数の人命を費やし韓国を独立させてくれた。また日露戦争では日本の損害は甲午の二十倍を出しながらも、韓国がロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。韓国はこれに感謝もせず、あちこちの国にすがり、外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約(丁未条約)、ハーグ密使事件も我々が招いたのである。今後どのような危険が訪れるかも分からないが、これも我々が招いたことである。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」との声明もあり。独立を堅持するよりも、日本との併合による地位の向上をより求めたとの見識がある。(伊藤博文暗殺に対する日本人の反感に敏感に反応したという側面もある。) 統監府からは併合後の混乱を防止する観点から集会および演説の一時的な禁止命令が下され、対価として一進会は15万円を受領している。
ただし、大韓帝国においては大日本帝国同様、内部に派閥ごとの併合への賛成・反対の違いがあり対立があったともされ、現在の韓国では下級市民にも不満があったと教科書に記述されている。しかしながら、国民の大部分を占める白丁(農奴・奴隷階級)に政治参加の権利は無く、事実上大韓帝国の皇族のみがその主権者である為、当事の白丁の政治的意思を他国が考慮する必要は無く、また白丁階級の賛成・反対も正確な統計は無い。(白丁が市民権を得たのは大日本帝国統治後である。)
併合
1910年(明治43年)6月3日には「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、7月8日には第3代統監寺内正毅が設置した併合準備委員会の処理方案が閣議決定された。8月6日に至り韓国首相である李完用に併合受諾が求められた。親日派で固められた韓国閣僚でも李容植学相は併合に反対するが、大勢は併合調印賛成に傾いており、8月22日の御前会議では李完用首相が条約締結の全権委員に任命された。統監府による新聞報道規制、集会・演説禁止、注意人物の事前検束が行われた上、一個連隊相当の兵力が警備するという厳戒態勢の中、1910年(明治43年)8月22日に韓国併合条約は漢城(現:ソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、29日に裁可公布により発効し、大日本帝国は大韓帝国を併合した。
これにより大韓帝国は消滅し、朝鮮半島は第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)終結まで大日本帝国の統治下に置かれた。大韓帝国政府と韓国統監府は廃止され、新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置された。韓国の皇族は大日本帝国の皇族に準じる王公族に封じられ、また、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。
朝鮮総督府による政策
身分解放
統監府は、1909年(明治42年)に戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代から人間とは見なされず姓を持つことを許可しなかった肉屋のような民にも姓を自称させた。李氏朝鮮時代は戸籍に身分を記載していたが、統監府はこれを削除した。このため身分が平等になり、肉屋の子供たちも学校に通うことができるようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを行ったが、政府によって強制的に鎮圧された。
土地政策
朝鮮総督府は1910年(明治43年)から1919年(大正8年)の間に土地調査事業に基づき測量を行ない、土地の所有権を確定した。この際に申告された土地は、境界問題が発生しないかぎり地主の申告通りに所有権が認められた。申告がなされなかった土地や、国有地と認定された土地(所有権が判明しない山林は国有化され入会権を認める方法が採られた(火田民も参照)。そのほか隠田などの所有者不明の土地、旧朝鮮王朝の土地など)は最終的に朝鮮総督府に接収され、朝鮮の農民に安値で払い下げられ、一部は東洋拓殖や日本人農業者にも払い下げられた。ソウル大学教授李栄薫によると朝鮮総督府に接収された土地は全体の10%ほどとしている。山本有造によれば総督府が最終的に接収した農地は全耕作地の3.26%であるとする。この大規模な土地調査事業は戦後おこなわれた精密測量による地籍調査のようなものではなく、あくまで権利関係を確定させるためのものであったが多くの境界問題や入会権問題を生み、現代に続く「日帝による土地収奪」論を招いている。
総督府による測量および登記制度の導入を機に朝鮮では不動産の売買が法的に安定し、前近代的でゆるやかな土地所有を否定された旧来の零細自作農民が小作農に零落し、小作料高騰から大量に離村した者もいるが、一方で李王朝時代の朝鮮は農地が荒廃しており、民衆は官吏や両班、高利貸によって責めたてられて収奪されていたため、日本が朝鮮の農地で水防工事や水利工事、金融組合や水利組合もつくったことで、朝鮮農民は安い金利で融資を受けることができるようになり、多大な利益を得るようになった朝鮮人も現れ、これらの新興資本家の多くは総督府と良好な関係を保ち発展した。
教育文化政策
日本統治下においては、日本内地に準じた学校教育制度が整備された。初代統監に就任した伊藤博文は、学校建設を改革の最優先課題とした。小学校も統合直前には100校程度だったのが、1943年(昭和18年)には4271校にまで増加した。
1911年(明治44年)、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、韓国語を必修科目としてハングルを学ぶことになり、朝鮮人の識字率は1910年(明治43年)の10%から1936年(昭和11年)には65%に上昇した。学校教育における教授言語が日本語であったことをもって、「言葉を奪った」というという評価がなされることがある。これに対しては、朝鮮語が科目として導入されたこと、朝鮮語による文化活動が許容されていたことをもって、言葉が奪われたとはいえないという反論もある。また、ハングルは併合以前は漢字と比べて劣等文字として軽蔑されており、あまり普及していなかったというのも事実である。
年表
年 | 出来事 | |
---|---|---|
韓国 | 北朝鮮 | |
1895年(明治28年) | 下関条約 閔妃暗殺(乙未事変) | |
1896年(明治29年) | 露館播遷 | |
1897年(明治30年) | 大韓帝国に国号変更 | |
1904年(明治37年) | 日露戦争開戦 日韓議定書 第一次日韓協約 | |
1905年(明治38年) | 日露戦争終結 第二次日韓協約 韓国統監府設置 | |
1907年(明治40年) | ハーグ密使事件 純宗即位 第三次日韓協約 | |
1909年(明治42年) | 伊藤博文暗殺 | |
1910年(明治43年) | 韓国併合 | |
1945年(昭和20年) | 分割占領、朝鮮総督府解体 | |
北緯38度線以南 アメリカ合衆国が占領 | 北緯38度線以北 ソビエト連邦が占領 | |
1948年(昭和23年) | 大韓民国建国 | 朝鮮民主主義人民共和国建国 |
1952年(昭和27年) | サンフランシスコ平和条約発効 日本、朝鮮に対する権利、権原及び請求権を放棄 |
|
1965年(昭和40年) | 日韓基本条約調印 発効 日本は大韓民国を全朝鮮の正統政府として承認 |
呼称について
日本国における呼称
大日本帝国による朝鮮半島統治時代を日本側は主に日韓併合、または韓国併合や日本統治時代などと呼んでいる。これらも含め、自由に各メディア毎に呼称されている。
大韓民国における呼称
大日本帝国による朝鮮半島統治時代を韓国側は日帝強占期(韓国の公共放送・KBSはこの呼称に最近統一しようとしている)や日帝時代、または日政時代や韓日併合や庚戌国恥などと呼んでいる。前者2つは、大日本帝国による大韓帝国併合の有効性、合法性を認めず、朝鮮半島に対する大日本帝国の支配は単なる軍事占領であったとの主張による。また併合の実態は植民地であったとの認識から日本植民地時代という呼称も用いている。
「植民地」という呼称が使われることについて
植民地という用語は元々は「開拓地」や「入植地」などと同様に正否の価値判断を含まない一般術語であり、近代植民地法制学においても社会科学の講学上の概念にすぎない。
ただし、外地を「植民地」「殖民地」と呼ぶことへの感情的な反発は、明治期からすでに存在していた。忌避語・侮蔑語のようなニュアンスがあり、外地を植民地と呼称することは回避され、「我国にては斯(植民)の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺太等地名を呼ぶ」ことが事実上の慣例となっていた。
(1905年(明治38年)の帝国議会において下記のようなことがあった。)衆議院の委員会において、当時の首相で第二代台湾総督でもあった桂太郎が、台湾は「日本」なのか「殖民地」なのかいう問に、うっかり「無論殖民地であります内地同様には行かぬと考へます」と答えてしまったのである。..中略..この首相発言は、議員達に大きな感情的反発をよんだ。議員側からは、「台湾を殖民地にするとは云ふことは、何れの内閣からも承ったことはない」とか「吾々議員として実にぞっとするではございませぬか」といった非難が出た。
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我国にては斯の如き公の呼称を法律上一切加えず単に台湾朝鮮樺 太等地名を呼ぶ。但し学術的又は通俗的に之等を植民地と称するを妨げない。我国の学者政治家等が朝鮮を指して植民地と称することに対し、「千万年歴史の権威」と「二千万民衆の誠忠」を有する朝鮮民族は大なる侮辱を感じ、大正八年三月一日の独立宣言書にもその憤慨が披瀝せられた。併乍ら研究者は事実関係を以ってその研究対象とするより外はない。
—矢内原忠雄 『植民及植民政策』有斐閣、1926年、pp. 17-25
なお、実際にはいくつかの勅令等に「殖民地」「植民地」の用語を使用するものが存在していたことが指摘されている。
- 1898年(明治31年)勅令第37号では、「北海道殖民地」の用語が使用されている。
- 1932年(昭和7年)9月3日に天皇が公布した「昭和七年・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約九月三日・予算外国庫ノ負担トナルヘキ契約ヲ為スヲ要スル件」において、「電話ノ料金中本邦收得分(植民地收得分ヲ除ク)」と「植民地」の用語が使用されている。
- 1930年(昭和5年)条約第4号・万国郵便条約では、「第8条 殖民地保護領等」の項目に、朝鮮を含めている。
また、公文書にも「植民地」の用語例は見られ、例えば1923年(大正12年)刊行の拓殖事務局『植民地要覧』では朝鮮・台湾・樺太・関東州・南洋群島を「我が植民地と解せらるる」としていた(同書では南満州鉄道付属地も扱っている)。
また、上記のような語義的な観点ではなく、実質においても「植民地」ではなかったとする主張は日本の保守系の論壇誌などでしばしば論じられる。欧米による先行のモデルとの差異を論じるべく「日本型」植民地支配がどのようなものであったかについては継続して論争が続いている。のみならず「大日本帝国の統治政策は同時代に欧米諸国の行った異民族統治とは異質で、善政である」「植民地という言葉は諸外国が異民族統治に対して行った悪政に使われる言葉である」という認識から、双方を植民地という言葉で同一に形容することへ批判する見方もある。この立場からは、日本の朝鮮支配について「植民地」という表現を用いるべきではないという主張がなされることがある。
帝国議会審議では、朝鮮は日本の植民地であったとする表現が使われている。1918年(大正7年)3月12日の帝国議会に於いて、牧山耕蔵衆院議員は「殖民地統治に関する質問主意書」を説明するなかで、朝鮮・台湾・樺太に言及し政府に質問を行った。戦後の例としては1945年(昭和20年)勅令第五百四十二号(ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件)(承諾を求むる件)委員会に於いて、中谷武世理事はポツダム宣言の条件説明において、「第八條の「カイロ」宣言の實行、即ち朝鮮臺灣等の從來の日本の植民地を失ふこと、」と、「植民地」の用語を使用した。
国会審議では、朝鮮はかつて日本の植民地であったとする表現が使われている。たとえば、1947年(昭和22年)11月20日参議院通信委員会で、深水六郎君委員長は、「朝鮮、台湾、樺太等の旧植民地」と、「旧植民地」の用語を使用した。
2010年(平成22年)7月7日、仙谷由人官房長官は「個人補償問題で改めて決着が必要」「日本は併合によって朝鮮人民から言葉や文化を奪ったが、それは植民地支配だった」と述べ、韓国併合について「植民地支配」の用語を使用した。