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2007年6月30日 (土) 14:53時点における版
本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)、織田信長の重臣明智光秀が謀反を起こし、京都の本能寺に宿泊していた主君信長を攻め、自刃させた事件。
光秀が反旗を翻した原因については定説がない。またこの事件の歴史認識についても、クーデターとも、信長による社会変革への反動(反革命)とも言われ、定説が確立されていない。さらには、事件の首謀者についても定説がない(各説については謀反の動機、首謀者を参照)。
目次
情勢
天正10年(1582年)までに、織田信長は京を中心とした畿内とその周辺を手中に収め、この年武田勝頼を滅ぼした。関東の後北条氏、東北の伊達氏は信長に恭順する姿勢を見せており、これで信長の目の前に立ちはだかる敵は、中国の毛利氏、四国の長曾我部氏、北陸の上杉氏、九州の島津氏となった。
織田信長包囲網の一翼を担って一時期信長を苦しめた毛利氏は、羽柴秀吉の前に後退に次ぐ後退でひと頃の勢力を失っていた。また上杉氏は、謙信亡き後、養子景勝の代であり、関東・越後から猛攻をかけ武田信玄を苦しめた強力な軍団は御館の乱で勢いを弱めていた。四国では三好康長が信長に属し、丹羽長秀の補佐を受けた織田信孝が長曾我部氏との戦争準備を始めており、すでに織田家が有利な情勢で、九州は大友氏や龍造寺氏が信長に属する意志を伝えており、島津氏は単独で信長に対抗せざるを得ない情勢であった。
安土城を本拠に、柴田勝家・明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉、織田信孝などの軍団長を指揮して天下統一を進める織田信長は数えで49歳であり、順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。
経緯
明智光秀は、武田攻めから帰還したのち長年武田氏と戦って労あった徳川家康の接待役を務めた(5月15日から17日まで)。家康は信長により安土城に招かれたが、このとき不手際があり光秀は接待役を解任されたとも言われている。光秀は力の限りを尽くし当代随一の京料理でもてなしたが、三河出身で味の濃い赤味噌文化で育った家康の嗜好を考慮しない独りよがりな接待であった。光秀の機転のなさに信長は激怒したが、明確な理由の説明がなかったため、光秀は恨みを抱いたともいわれる。また、15日には羽柴秀吉から応援の要請が届いており、5月17日、光秀は居城坂本城に帰され、出陣を命ぜられた。5月26日にはいまひとつの居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕大権現に参篭し、5月28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催した。この句が、明智光秀の謀反の決意を示すものとする解釈がされているが(下記動機と首謀者に関するその他の考察の項参照)、この句の本当の意味を知るものは当人しか居らず、句の解釈も種々ありうる。
一方、織田信長は5月29日に自ら秀吉の応援に出陣するため小姓を中心とするわずかの供回りを連れ安土を発つ。同日、京都本能寺に入りここで軍勢の集結を待った。同時に、信長の嫡男信忠は妙覚寺に入った。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。
同じ6月1日の夕、光秀は1万3000の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し、「信長の閲兵を受けるのだ」と称し京都に向かった。翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」といい、謀反を起こし信長を討つことを全軍に明らかにしたとされるが、これは江戸時代に頼山陽の『日本外史』で書かれたものである。実際には、ごく一部の重臣しか知らなかったとされている。(京へ続くもうひとつの山道・明智越を使ったと言う説もある)。
6月2日早朝、明智軍は本能寺を完全に包囲した。 物音に目覚めた信長は、家来の喧嘩だと思い、近習に様子を探らせた。すると「本能寺は軍勢に囲まれており、紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と報告された。信長は「是非に及ばず」と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵の前に槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念、奥に篭り、信長の小姓であった森蘭丸に火を放たせ、自刃したとされる(信長の家臣太田牛一の著作『信長公記』による)。信長の遺骸は発見されなかった。一説には、信長が帰依していた阿弥陀寺(上立売大宮)の住職清玉が密かに運び出し荼毘に付したと伝える。この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には、「織田信長公本廟」が現存する。自害の際に信長が本能寺の地下の火薬庫に火をつけて自爆したため、信長の遺体は発見されなかったという説もある。
一方、ルイス・フロイスの『日本史』(Historia de Iapan)では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して(6月2日に御所前で馬揃えをする予定であったのを織田の門番たちは知っていたので油断したと思われる)、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。直後に信長は小姓たちを呼び、鎌のような武器(薙刀)を振り回しながら明智の兵達に対して応戦していたが、明智の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」という内容になっている。
明智謀反の報を受けた信忠は、守りに向かない妙覚寺を離れ、京都の行政担当者である村井貞勝らとともに二条城(二条新造御所)に移ったが、多勢に無勢であり、守りきれず自刃し、二条城は落城した。
- なお、妙覚寺には、信忠とともに、信長の弟である織田長益(のちの織田有楽斎)も滞在していたと言われ、信忠とともに二条城に移ったが、二条城の落城前に逃げ出して、安土城を経て岐阜へと逃れ、無事であった。信忠が長益の勧めに従い自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ召させておいて われは安土へ逃げる源五 6月2日に大水出て 織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。
- また、信忠が二条城で奮戦した際、黒人の家臣ヤスケも戦ったという。ヤスケはもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。ヤスケは、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。本能寺の変に触れるドラマの中には、ヤスケが信長に殉じて討ち死にする描かれ方をされることもある。
謀叛の動機
光秀の挙兵の動機には怨恨、天下取りの野望、朝廷守護など数多くの説があり、意見の一致をみていない。しかしいずれも決定力に欠け、今後も定説をみることはないであろう。
一般に知られる怨恨説によると、徳川家康の接待役を解任されて面目を失った、出雲・伯耆もしくは石見に国替えを命ぜられた、母を信長のために死なせてしまったなど、江戸時代以降さまざまな講談話がおもしろおかしく創作された。しかしこれらにはいずれも明確な裏付けはない。 むしろ本能寺の変前年に光秀が記した『明智家法』によれば『自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない』という趣旨の文を書いており、信長に対しては尊崇の念を抱いている。 そのため、怨恨ではない別の動機を求める説も支持されており、特に光秀以外の黒幕の存在を想定する説が多く行われている。
首謀者
光秀自身の動機ではなく、何らかの黒幕の存在を想定する説には以下のようなものがある。
足利義昭説(藤田達生)
自分を追放し、室町幕府を滅亡に追いやった信長に恨みを抱く足利義昭が、その権力を奪い返すために光秀をそそのかしたとする説である。 信長に仕えるようになる前からの光秀と義昭のつながりや、打倒信長のために諸大名の同盟を呼びかけた義昭の過去の行動などから導かれた説であろう。 しかしこの説では、義昭を庇護していた毛利氏が(定説によれば)本能寺の変を知らなかった事の説明が付かない。仮に義昭が黒幕であれば当然毛利氏も知っているはずと考えられる。この辺で説得力に欠けると言われている。 しかしこれには異説があり、太閤記や佐久間軍記などでは和議の時点ですでに事変を知っていたことが描かれており、小早川隆景が「信長に代わって天下を治めるのは秀吉であるから、今のうちに恩を売るべきである」として和議を支持する進言をしている。仮にこれが事実だとすれば、義昭説とも矛盾はしないことになる。
朝廷説
朝廷黒幕説も、黒幕は正親町天皇なのか、誠仁親王なのか、あるいは近衛前久等の公家衆主体なのかで意見が分かれる。背景としては「三職推任問題」での信長の対応が、朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかという恐れがあるというのが朝廷黒幕説の根拠の一つに挙げられる。事実光秀は信長・信忠を討った後朝廷に参内し、金品を下賜されている。また、山崎の戦いの後、織田信孝が近衛前久に対し追討令を出して執拗に行方を捜した事、吉田兼見が事情聴取を受けている事、更に兼見の日記で当時の一級史料でもある『兼見卿記』原本の内容が本能寺の変の前後一ヶ月が欠けており、あまつさえ再度天正10年の項目を新たに書き直したという事実も、朝廷黒幕説を匂わせているが、確たる証拠となるものに欠けている。加えて、「三職推任問題」自体が本能寺の変の直前の出来事であり、その性質上即答可能な問題ではなくむしろ京都立ち寄りの理由の一つにその返答があったと考えられている(逆に信長が返答することを阻止するためにこの日程で本能寺を襲ったと解する事は可能ではある)。更に黒幕として名前が挙げられている近衛前久に対しては本能寺の変の当日に出家しており(数日後とも)、これは細川藤孝の出家と同様に信長に殉じたと解釈するのが適切である事や後々まで信長の死を惜しんだ和歌を残している事などの反証が挙げられている。また、正親町天皇や誠仁親王に関しても具体的な証拠があるわけではなくこれも仮説の域を出ない。
その他
- イエズス会説(立花京子) - 日本の政権交代をもくろんだもの、とする説
- 羽柴秀吉説要出典
- 毛利輝元(あるいは小早川隆景)説要出典
- 長宗我部元親説 - 元親の妻が明智家臣斎藤利三の娘であったことから(井沢元彦著『逆説の日本史』より)
- 朝廷と羽柴秀吉の共謀説要出典
- 徳川家康説要出典
動機と首謀者に関するその他の考察
- 光秀がいつごろから謀反を決意していたかは明らかではないが、亀山城出陣を前にして、愛宕権現での連歌の会で光秀が詠んだ発句、「時は今 天が下知る 五月哉」は、「時(とき)」は源氏の流れをくむ土岐氏の一族である光秀自身を示し、「天が下知る」は、「天(あめ)が下(した)治る(しる)」、すなわち天下を治めることを暗示していると解し、この時点で謀反の決意を固めていたのだとする説もある。※「時は今 雨が下なる 五月哉」と詠んだいう説もある。
- NHKの大河ドラマで信長・秀吉およびその周辺人物を題材にした作品では、光秀が謀反に至る経緯がストーリーの大きな軸のひとつとなっている。近年の作品では光秀は従来の「謀反人」のイメージで描かれることはほとんど無く、むしろ光秀に同情的である。1996年の『秀吉』では徳川家康と千利休の謀略として描かれ、2006年の『功名が辻』では、光秀と信長の正妻・濃姫との関係にスポットを当てている。2007年1月3日にフジテレビ系列で放送されたドラマ『明智光秀~神に愛されなかった男~』では、信長とは違い民衆と仲良く平和に天下を統一したいと考える秀吉、光秀両人の意思が疎通し合い、光秀が謀叛することを秀吉は察知しており、光秀も自ら秀吉に自分を討たせ、秀吉に天下を取らせたという設定で、秀吉・光秀共謀説のように描かれた。また、信長が朝廷を滅ぼす意思を光秀に語った件から光秀の様子がおかしくなっており、朝廷を守護する為に信長を討ったというテイストも見え隠れする。いずれにしてもこれらはフィクションである。
- 織田方の各武将が遠征に出、信長の本拠が手薄のこの時期に茶会を進言したのは、堺の豪商・千利休であったが、そのことが何らかの黒幕の存在と結びつくとする考えもある。漫画、へうげものでは、千宗易(後の利休)が秀吉を煽動し、二人が光秀を謀叛に追い込んで信長を抹殺した、という説をとっている(表面上はすべて史実通りの展開)。光秀はツメが甘く信長を殺せないのでは、と危惧した秀吉が自ら本能寺に潜入して信長を斬殺する、という珍しいシーンがある。
本能寺の変後の諸将の動向
明智光秀
光秀は、6月3日、4日を諸将の誘降に費やした後、6月5日安土城に入った。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の山崎の戦いに敗れ、同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)で土民に討たれた。京都で政務を執ったのが10日から21日の11日間と短かったため、三日天下と呼ばれた。
期待していた細川忠興、筒井順慶ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったと言える。
羽柴秀吉
秀吉は清水宗治の篭る備中高松城を包囲して毛利氏と対陣していた。
早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津まで進んだ。ここで摂津の武将中川清秀・高山右近・池田恒興を味方につけ、さらに四国出兵のため堺にいた織田信孝・丹羽長秀と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を中国大返しと呼ぶ。
織田政権内での主導権をもくろむ秀吉は、さらに清洲会議にて信忠の子・三法師(織田秀信)の後見となり、事実上の信長の後継者としての地位を確立する。
信長の死の報をいち早く入手した事、兵糧攻めによりほとんど戦力を失っていなかった事など、秀吉はあまりに都合の良い状況で光秀と戦って勝利を収めたこと、本能寺の変をきっかけに秀吉が天下人となり、結果的に一番利益を得ていること。これらの経緯から、秀吉こそが本能寺の変の黒幕だとする意見も多い。
柴田勝家
勝家は佐々成政・前田利家とともに、6月3日上杉氏の越中国魚津城を3ヶ月の攻城戦の末攻略に成功。しかしその頃信長は既に亡かった。変報が届くと、上杉景勝の反撃や地侍の蜂起によって秀吉のように軍を迅速に京へ返す事ができなかった。ようやく勝家が軍を率いて江北に着いた頃、既に明智光秀は討たれていた。その後清洲会議で秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗北、自害した。
徳川家康
家康は、信長の招きで5月に安土城を訪れた後、家臣30余名とともに堺に滞在した。6月2日朝、返礼のため長尾街道を京へ向かっていたところ、四条畷付近で京から駆けつけた茶屋四郎次郎に会い、本能寺の変を知る。家康はうろたえ、一時は京に行き本能寺で信長に殉じるとまで言ったが、家臣に説得され帰国を図る。山城綴喜・近江・加太峠・伊賀の山中を通って伊勢へ抜け、伊勢湾を渡って本国三河に戻った。後に「神君伊賀越え」と称される。
後年、「神君のご艱難」と称される家康最大の危機であった。実際、堺まで同行しながら伊賀越えで別行動を取った穴山信君は、山城綴喜の河原の渡しで土豪の襲撃を受けて死んでいる。この時、家康の苦難の伊賀越えに協力したのが伊賀衆であり、その際の伊賀の棟梁、服部半蔵の功で江戸城に「半蔵門」が作られる。なお、堺で討たれたと言う伝説も存在し、堺市内の南宗寺には彼の名前が刻まれた墓が現存するが、実はこれは後の大坂の陣の際に生まれた伝説である。
三河に帰り光秀を討とうと出陣し、熱田神宮まで来たが山崎の戦いの報を聞き、引き返した。一説によると酒井忠次は北伊勢まで進軍していたと言う。もし、これが事実なら家康は美濃~京へ進軍する方と、伊勢~京に進軍する二手に分かれることになる。
その後、家康は信長の死により空白地帯となった信濃・甲斐を占領し、武田家の最盛期を超える大大名となった。
織田信雄
信長の次男・織田信雄は、本能寺の変の後明智光秀を討とうと近江の土山へ進軍するが、山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に大敗したことにより撤退。その後安土城を焼いてしまうと云う愚かな行動に出る(異説あり)。このことにより清洲会議にて織田家の跡継ぎにならなかった。これを不服として一時家康と共に秀吉と相対するが、結局講和して秀吉の下に下った(小牧・長久手の戦い)。
滝川一益
滝川一益は関東の上野国厩橋城にいた。本能寺の変の報を聞くとすぐさま撤退するが、小田原の北条氏直が上野国奪取を目指して進出、敵中突破を試みた一益は大敗して領国の伊勢長島城へ帰還した(神流川の戦い)。一益の敗戦により上野、信濃の織田勢力は一掃される結果となり、一益は織田家重臣の列から外され、清洲会議にも出席できなかったという。
織田信孝・丹羽長秀
織田信孝は丹羽長秀、信長の甥・津田信澄(父は織田信勝(信行))らとともに大坂にて四国の長宗我部元親討伐の準備を進めていた。本能寺の変の報が伝わると、すぐさま丹羽長秀は信孝の指示に従って信澄を殺害した。その後、丹羽長秀は信孝とともに京都に向かう羽柴軍に合流した。
信澄殺害は、信澄の父・信勝がかつて信長に謀反を企てて殺されている事や彼が光秀の娘婿であった事から光秀と通じていると見なされた事による。しかしながら、「父信長だけでなく兄信忠も死んだ事を知った信孝が、予想される織田氏の家督争いの有力者の一人になる可能性のある信澄を言いがかりをつけて殺害した」とする見方もある。
長宗我部元親
長宗我部元親は信長の四国征伐の影響もあり、兵を白地城に休ませていたが、信長横死を知るや、兵を阿波・讃岐に兵を出し、完全に勢力下に入れた。