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'''古市 公威'''(ふるいち こうい、[[嘉永]]7年閏[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]([[1854年]][[9月13日]]) - [[昭和]]9年([[1934年]])[[1月28日]])は、[[日本]]の学者。[[男爵]][[博士 (工学)|工学博士]]。東京帝国大学名誉教授。
  
 
工科大学長・土木学会長・工学会の会長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を作った。
 
工科大学長・土木学会長・工学会の会長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を作った。

2009年12月20日 (日) 02:29時点における版

古市 公威(ふるいち こうい、嘉永7年閏7月21日1854年9月13日) - 昭和9年(1934年1月28日)は、日本の学者。男爵工学博士。東京帝国大学名誉教授。

工科大学長・土木学会長・工学会の会長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を作った。

来歴

幼少~パリ留学

古市公威は、姫路藩士、古市孝の長男として1854年(安政元年)に江戸の藩屋敷で生まれた。1869年(明治2年)に旧幕府の開成所を復興し開校した開成学校に入学し、1870年(明治3年)には姫路藩の貢進生として大学南校(旧開成学校)へ進学した。1873年(明治6年)には開成学校に設置された諸芸学科へ進学、1875年(明治8年)諸芸学修行のため文部省最初の留学生として欧米諸国へ派遣されることとなった。1879年(明治12年)8月、フランスの中央工業大学(エコール・サントラル)を卒業して工学士の学位を受領、同年にはパリ大学理学部に入学、翌年には同校を卒業して理学士の学位を受領している。

帰国後

帰国した古市は1880年(明治13年)12月、内務省土木局雇いとなり、内務技師として現場で勤務するかたわら、翌年には東京大学講師を兼任することとなり、以後、官僚技術者と大学教官の二足の草鞋をはいた。

1886年(明治19年)には32歳にして工科大学(東京大学工学部の前身)初代学長に就任、1894年(明治27年)には内務省の初代土木技監に就任した。土木行政の改善を図り、土木法規を制定するなど、技術上・行政上に非凡の才能を振るい、近代土木界の最高権威とされる。文京区本郷2丁目に現存する1887年(明治20年)頃建てたと思われる古市の旧居は、住宅および蔵が2003年(平成15年)3月、国登録文化財となった。

業績・人柄

古市は内務省土木局のトップとして全国の河川治水、港湾の修築のみならず、日本近代土木行政の骨格を作るとともに、工科大学長・土木学会長・工学会の会長として、日本近代工学ならびに土木工学の制度を作った。彼の代表的な功績として、横浜港の建設がある。1905年(明治38年)、横浜港に日本最初の大般の繋船壁が完成したが、その設計を担当したのは古市だった。

また、古市は都市交通についても造詣が深く、内務省が軌道法を鉄道作業局(帝国鉄道庁から鉄道院を経て鉄道省へ改組)と共同所轄していた関係から、日本初の都市間高速電車(インターアーバン)となった阪神電気鉄道の成立にも関与した。本来、軌道法は路面電車を前提とした法令であり、より高規格かつ長距離を運行する高速電気鉄道への適用は想定外の事態であった。だが、既設の官鉄線との競合を理由に私設鉄道法での大阪 - 神戸間電気鉄道免許出願を鉄道作業局から却下された阪神による、窮余の策とも言える軌道法に基づく路線特許出願に対し、古市は「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との見解を示して容認した。この判断は、以後の日本国内に軌道法を法的根拠とする、国鉄線に対する競合線となる高規格な都市間電気鉄道群が次々に建設されるきっかけを与えることとなった。

古市は公平無私であり、よく学生を導いたといわれる。また、日本工学会の初代会長として、世界の中で、日本の工学技術の声価を高めることに寄与した。作家三島由紀夫の本名、“公威”は、内務官僚であった彼の祖父平岡定太郎が恩顧を受けた古市の名をとって命名したといわれている。

司馬遼太郎は自著『国家・宗教・日本人』において、フランスに留学中、あまりの猛勉強ぶりに体を壊しはしないかと心配した下宿先の女主人が休むように勧めると、古市は「自分が一日休むと、日本が一日遅れます」と答えたというエピソードを井上ひさしとの対談の中で語っている。

古市公威が関係した土木構造物

古市公威に関する著作物

  • 『古市公威とその時代』(著者:土木学会土木図書館委員会・土木学会土木史研究委員会)

関連項目

外部リンク