「四代目柳家小さん」の版間の差分
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− | + | 入門7年目の25歳の時、1913年(大正2年)平山鉄五郎の長女「はな」と結婚した。同年4月小さん一門の出世名であり、二つ目のまま師匠三代目柳家小さんの前名「五代目柳家小三治」を襲名した。入門10年目の1916年(大正5年)2月に小三治のまま真打に昇進。[[1918年]](大正7年)3月、「四代目蝶花楼馬楽」を襲名した。[[1928年]](昭和3年)4月、師匠「三代目柳家小さん」引退に伴い「四代目柳家小さん」を襲名した<ref>江国滋『落語無学』ちくま文庫</ref>。 | |
[[1934年]](昭和9年)に落語協会を脱退し、東宝専属となる。戦後は、落語協会に復帰して会長になる。 | [[1934年]](昭和9年)に落語協会を脱退し、東宝専属となる。戦後は、落語協会に復帰して会長になる。 | ||
− | 終戦の翌々年[[1947年]] | + | 終戦の翌々年[[1947年]]に9月30日、満59歳で急逝した。五代目が小三治(九代目)で真打になった直後に、上野鈴本演芸場で新作落語の「鬼娘」をやった後に楽屋に下がったところで倒れ、間もなく亡くなった。[[五代目柳家小さん]]は師匠に遺骸を稲荷町の自宅へ送る人力車のそばをついて歩いた<ref>[https://www.110107.com/s/oto/diary/detail/1598?ima=0000&oto=ROBO004&cd=rensai 第44回「小さん師弟の絆」]OTONANO,2014/04/29</ref>。 |
墓所は台東区の本寿寺(東京都台東区谷中1丁目4−9)。 | 墓所は台東区の本寿寺(東京都台東区谷中1丁目4−9)。 | ||
==得意ネタ== | ==得意ネタ== | ||
+ | 淡々とした芸で、素人受けはしなかったが、仲間内の評価は二分されていた。 | ||
三代目柳家小さん譲りの滑稽噺が多かった<ref>講談社文芸文庫編(2013)『昭和戦前傑作落語選集 伝説の名人編』東京 講談社</ref>。 | 三代目柳家小さん譲りの滑稽噺が多かった<ref>講談社文芸文庫編(2013)『昭和戦前傑作落語選集 伝説の名人編』東京 講談社</ref>。 | ||
*『かぼちゃ屋』 | *『かぼちゃ屋』 | ||
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==逸話== | ==逸話== | ||
*四代目柳家小さんと五代目柳家小さんはどちらも無口のため、朝から晩まで一つ屋根の下でひとこともことばを交わさないことがよくあったという。 | *四代目柳家小さんと五代目柳家小さんはどちらも無口のため、朝から晩まで一つ屋根の下でひとこともことばを交わさないことがよくあったという。 | ||
+ | *趣味は俳句であった。 | ||
+ | *落語に関する書物を集め、落語図書館を作るため、古い速記本、雑誌、落語家の手記を集めていたが1945年(昭和20年)5月25日の戦災で焼失した。 | ||
==弟子== | ==弟子== |
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四代目柳家小さん(よんだいめ やなぎやこさん,1888年4月18日 - 1947年9月30日)は落語家。師匠は三代目柳家小さん。
概要[編集]
1888年4月18日、麹町紀尾井町で大野市兵衛の四男として生まれる。本名は大野菊松(後に平山家に養子に行き平山菊松に改姓)。家は大きな畳屋で、職人が20名いた。小学校卒業後、暁星中学に合格したが、大腸カタルのため進学をあきらめ、洗濯屋に奉公に出る。姉の家の向かいに三代目小さんが住んでいた。小三治に勧められて1906年(明治39年)、18歳で「三代目柳家小さん」に入門し、「柳家小菊」と名乗る。若手勉強会『胆力養成会』で実力をつけ将来を期待された[1]。1908年(明治41年)「小きん」と改名し、二つ目に昇進する。
入門7年目の25歳の時、1913年(大正2年)平山鉄五郎の長女「はな」と結婚した。同年4月小さん一門の出世名であり、二つ目のまま師匠三代目柳家小さんの前名「五代目柳家小三治」を襲名した。入門10年目の1916年(大正5年)2月に小三治のまま真打に昇進。1918年(大正7年)3月、「四代目蝶花楼馬楽」を襲名した。1928年(昭和3年)4月、師匠「三代目柳家小さん」引退に伴い「四代目柳家小さん」を襲名した[2]。
1934年(昭和9年)に落語協会を脱退し、東宝専属となる。戦後は、落語協会に復帰して会長になる。
終戦の翌々年1947年に9月30日、満59歳で急逝した。五代目が小三治(九代目)で真打になった直後に、上野鈴本演芸場で新作落語の「鬼娘」をやった後に楽屋に下がったところで倒れ、間もなく亡くなった。五代目柳家小さんは師匠に遺骸を稲荷町の自宅へ送る人力車のそばをついて歩いた[3]。
墓所は台東区の本寿寺(東京都台東区谷中1丁目4−9)。
得意ネタ[編集]
淡々とした芸で、素人受けはしなかったが、仲間内の評価は二分されていた。 三代目柳家小さん譲りの滑稽噺が多かった[4]。
- 『かぼちゃ屋』
- 『二十四孝』
- 『ろくろ首』
- 『三軒長屋』
- 『青菜』
- 『おばけ長屋』
- 『雑俳』
- 『三人旅』
- 『芋俵』
逸話[編集]
- 四代目柳家小さんと五代目柳家小さんはどちらも無口のため、朝から晩まで一つ屋根の下でひとこともことばを交わさないことがよくあったという。
- 趣味は俳句であった。
- 落語に関する書物を集め、落語図書館を作るため、古い速記本、雑誌、落語家の手記を集めていたが1945年(昭和20年)5月25日の戦災で焼失した。
弟子[編集]
- 二代目柳家小満ん
- 五代目柳家小さん
注・参考文献[編集]
- ↑ 保田武宏(1982)「四代目柳家小さん小伝」)斎藤忠市郎編『名人名演落語全集 第7巻』)東京 立風書房
- ↑ 江国滋『落語無学』ちくま文庫
- ↑ 第44回「小さん師弟の絆」OTONANO,2014/04/29
- ↑ 講談社文芸文庫編(2013)『昭和戦前傑作落語選集 伝説の名人編』東京 講談社