「ファシスト党」の版間の差分
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国家ファシスト党(こっかファシストとう、PNF)は、かつて存在したイタリア王国の政党。ファシズム思想の創始者である政治家ベニート・ムッソリーニが自身の理論を具体化する為、イタリア戦闘者ファッシを基盤に設立した。1922年にサヴォイア家との協力体制を作り、1943年の国王命令による解散まで事実上の一党独裁を成立させた。全体主義に基いた統治を行ったと一般に考えられるが、後世においては議論もある。
現在のイタリア共和国議会では民主主義に対する脅威として、後継組織である共和ファシスト党と並んで再結党が禁止されている。
目次
党名の由来と党員構成[編集]
「ファッショ (fascio)」とはイタリア語で「束」、「結束」を意味し、1919年にファシスト党の前身「イタリア戦闘者ファッシ」がその組織名として用いている(fasciは、fascioの複数形)。古代ローマ時代のラテン語まで語源をさかのぼると、共和政ローマの執政官の権威の象徴であったファスケス(束桿)を意味している。このためファスケスはファシスト党の意匠として用いられた。
「ファッショ」の語は19世紀後半以降、社会運動の結社の名にしばしば用いられており、「イタリア戦闘者ファッシ」結成段階ではまだ特定の意味をもつものではなかった。
ファシスト党の党員は、共産主義革命の防止を目的とした中間層・農民中心の雑多な集団であった。「イタリア戦闘者ファッシ」に参加したのは、第一次世界大戦の勃発に際してイタリア参戦を主張したグループ、また、大戦の勇士として知られた選抜突撃隊の兵士たち、さらに、ジョルジュ・ソレルやフィリッポ・マリネッティの影響を受けた未来派のメンバーであり、イタリア社会党や革命的サンディカリスムの系譜をひく戦闘的分子も含んでいた。復員兵士が多く、その党勢の拡大に果たした役割は大きい。左翼革命を怖れる資本家・地主・軍部・官僚などの支援を受けて勢力を拡大した。
組織[編集]
象徴[編集]
- 党歌:『ジョネヴィッツァ』
- 党章・党旗等
党旗(黒旗、ファスケス)
指導体制[編集]
1926年、1938年に制定された党規約[1]による
合議機関[編集]
ファシズムの指導は、ドゥーチェの指導の下、ファシズム大評議会の示した方針により、中央及び地方の合議機関を通じておこなわれるとされていた。全国規模の合議機関は全国評議会と全国指導部、地方においては県ごとに置かれる県連合とその指導部であった。県連は戦闘者ファッシをまとめる存在であると定義されていた。
指導部[編集]
- ドゥーチェ(統領、頭領)
- ムッソリーニの地位の呼称であり、ファシスト党の長であるとされた。1932年以降は幹部の項目に記載されず、別格扱いとなる。
- ファシズムの最高機関とされ、1928年には国政機関となった。構成員はドゥーチェ、閣僚、ファシスト四天王、党書記長 、党全国評議会メンバー、内閣府・内務・外務の次官、義勇軍(黒シャツ隊の後身)総司令官もしくは参謀総長、ファシスト労働者総連合会長、ファシスト雇用者総連合会長など
- 党書記長
- ファシズム大評議会では書記を務める。政権獲得後は勅令による任免を受けるようになり、内閣閣議に参加した。
- 全国指導部
- 戦闘者ファッショ書記
議席数[編集]
年度 | 党首 | 得票数 | 得票率 | 議席数 |
---|---|---|---|---|
1921年 | ベニート・ムッソリーニ | 31,000 | 0.5% | 2 |
1924年 | ベニート・ムッソリーニ | 4,305,936 | 61.3% | 356 |
1929年 | ベニート・ムッソリーニ | 8,517,838 | 98.33% | 535 |
1934年 | ベニート・ムッソリーニ | 10,026,513 | 99.84% | 535 |
スローガン[編集]
- Il Duce! (我らがドゥーチェ)
- Viva il Duce! (ドゥーチェ万歳)
- Eja, eja, alalà! (万歳!万歳!万歳!)
- Viva la morte (犠牲を払え)
- Credere, obbedire, combattere ("信じ、従い、戦う")
- Libro e moschetto - fascista perfetto (書物と銃がファシストを作る)
- Tutto nello Stato, niente al di fuori dello Stato, nulla contro lo Stato (国家こそ全て、国家の外には何もない)
- Se avanzo, seguitemi. Se indietreggio, uccidetemi. Se muoio, vendicatemi (我らが進むなら、汝も続け。我らが退けば、汝が殺せ。我らが死ねば、汝が復讐せよ。)
- Me ne frego (何も気に留めず)
- La libertà non è diritto è un dovere (自由は権利ではない、義務である)
- Noi tireremo diritto (我らは進む)
- La guerra è per l'uomo, come la maternità è per la donna (男の闘争性は、女の母性と同じである)
党史[編集]
ファシスト党誕生の背景[編集]
第一次世界大戦後の混乱がつづくイタリアでは、戦勝国でありながら、期待していたフィウーメなどの領地が得られず、ヴェルサイユ体制に強い不満をもつ人も少なくなかった。また、資源に乏しく経済基盤の脆弱であったイタリア王国は、その戦費を外債に依存したため財政難にみまわれた。経済危機も深刻で、大量の失業者が生まれ、ロシア革命の影響も受けて、労働者のストライキや農民の小作争議がひろがり、社会主義勢力が拡大した。物資不足から激しいインフレーションも起こって民衆の生活を直撃した。あたたかい歓迎と安定した暮らしを夢みてイタリアのために戦った兵士たちは、経済混乱にあえぐ祖国に帰り、新たな失業者の一群、余計者の集団として、むしろ冷たい視線を浴びることとなった。
折から1919年から1920年にかけては、労働者のストライキや農民の小作争議が頻発して社会不安が増加していたのである。
「イタリア戦闘者ファッシ」から政権獲得まで[編集]
第一次世界大戦前のベニート・ムッソリーニは、イタリア社会党内では正統派マルクス主義というよりはジョルジュ・ソレルの思想に影響を受けており、党主流の社会改良主義的な路線とは一線を画し、その批判者として頭角を現した。
1912年には社会党執行委員に選ばれ、党の重要な日刊紙「アバンティ!'、「前進」 )」の編集長にまでなっていたが、1914年夏、第一次世界大戦がはじまると、伝統的な平和主義から「イタリアの絶対中立」を唱えた党の方針に反対、戦争とその帰結にこそ革命の展望があるとする立場から11月「ポポロ・ディタリア」を創刊して、イタリアが英仏協商側に立って参戦すべきとの意見を主張してイタリア社会党を除名された。また、14年末からはイタリア各地でうまれた参戦主義者団体「革命行動団」の指導者となった。
1919年3月23日、ムッソリーニはミラノで、復員軍人を主体にして、革命阻止と国粋主義の立場で「イタリア戦闘者ファッシ」を組織した。創立大会の出席者は145人といわれ、復員将校のほか、地主や資本家の子息である右翼学生が多く、上述のように「未来派」の影響を受けた青年も多かった。創立大会宣言では、イタリアの領土の拡大を主張している。6月6日にはポポロ・ディタリアからフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティらによるファシスト・マニフェストが出版されている。
1919年から1920年にかけて、北部イタリアの諸都市では労働者のストライキが頻発し、農村では農民が地主の土地を占拠して地代の支払いを拒否するなどの小作争議も起こって社会不安が醸成されていた。
戦闘者ファッシは、当初は、王政の廃止、戦時利得の85パーセント没収、労働者の経営権への参加、最低賃金制、大土地所有者の土地の農民への分与などサンディカリスム的な綱領を掲げていた。そうしたなかで、1919年11月の総選挙ではイタリア社会党が全体の3割にあたる180万票を獲得して154議席を確保したのに対し、戦闘者ファッシの獲得票は5,000票たらずであり、1人の当選者も出なかった。
1920年になるとストライキは激化し、9月には北イタリアで社会党左派(1921年1月、イタリア共産党を結成)の指導のもと50万人の労働者が工場を占拠し、農民も各地で地主保有地を占拠するなど、あたかも革命前夜を思わせるような情勢となった。社会党指導部の不決断により工場占拠闘争が敗れ、革命的情勢は退潮に向かったものの、ポー平原のボローニャ県とフェラーラ県では、農業労働者による農業協約改訂闘争が勝利し、社会党も10月の地方選挙で引きつづき優位に立って2,000以上の自治体を掌握した。
こうした、零細農民や労働者の直接行動に危機感を抱いた地主、土地を得た中小農、都市の中間層は、自由主義政府の支援を求めた。しかし、それがかなわないと知ると、彼らは戦闘者ファッシと連携して武装行動隊(squadra)を編成し、20年秋より直接行動の挙に出た。
ムッソリーニも黒いシャツを制服として使用させた「黒シャツ隊」を武装行動隊として編成して、こうした革命的な動きを暴力的に鎮圧した。これにより、中産階級・資本家、軍部、地主層などの支持を広げて資金や武器を得て1921年5月の総選挙ではムッソリーニふくむ35名の下院議員を当選させ、同年11月、戦闘者ファッシは政党「ファシスト党」(全国ファシスタ党)に改組、ミケーレ・ビアンキを書記長とした。1922年5月と8月の2度にわたり、政府軍に代わってゼネラルストライキを鎮圧し、軍や資本家の支持を不動のものとした。
さらに1922年10月24日、ナポリで開かれたファシスト党大会でムッソリーリは「政権がわれわれに与えられるか、われわれがそれをとるかだ」と演説し、28日、4万人のファシスト党員がビアンキ、デ=ボーノ、デ=ベッキ、バルボの「ファシスト四天王(ムッソリーニ四天王)」と称される4人の幹部に率いられてナポリなどからローマにむけて進軍する示威行動、いわゆる「ローマ進軍」をおこなった。ムッソリーニ自身はこの進軍に参加せず、ミラノに待機した[2]。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は10月30日ムッソリーニに組閣を命じ、首班指名を受けて政権を授与された。彼は翌31日、ミラノから寝台列車でローマにはいった。こうして、史上初のファシズム政権が成立した。
独裁体制の確立[編集]
1923年ファシスト党に有利な新選挙法が制定され、1925年から26年にかけて結社や治安・行政権の集中に関する諸法律を制定、1926年11月にはファシスト党以外のすべての政党の解散を遂行して、一党独裁制を確立した。、イタリア王室、軍部、財界などの支持を得て独裁体制をととのえた。またファシスト産業組合を設立して労働組合を統制し、言論の自由もきびしく制限された。1924年にはユーゴスラビアとの直接交渉で未回収のイタリアの一部であるフィウーメ自由市を獲得し、ファシズム政権最初の外交的勝利となった。1928年9月には、ファシズム大評議会を正式に国政の最高機関とした。
1929年にはローマ教皇ピウス11世とラテラノ条約を結び、ローマ教皇庁との和解が成立し、イタリア王国はカトリックを唯一の宗教とすることを認め、教皇の主権下にバチカン市国がイタリアから独立することを承認した。これにより、1870年以来つづいてきた教皇庁とイタリア王国の対立は解消し、ファシスト党はカトリック教徒の支持を確保したこととなる。ムッソリーニは、ローマ教皇庁に対し、小中学校におけるカトリック教育の義務化、聖職者の徴兵の免除、教会の葬祭・婚姻の統制などを認めるなど大幅に譲歩し、これらと引き替えにファシスト独裁体制の威信を高めることに成功した。
ムッソリーニはつとにヴェルサイユ体制の打破を唱えた。また、「古代ローマ帝国の復興」を掲げたが、これは単なる士気向上が主目的であり、現実味の片鱗もない話ではあった。経済危機を打開するために膨張主義政策に着手し、1927年にはアルバニア王国を保護国化、1935年10月にはエチオピアを併合した。1938年、人種法を制定する。
経済政策の面では、1922年から1925年にかけてアルベルト・ステファニが政府のコストを削減し、民間企業をほとんど国有化することなく、一時頻発したストライキをおさえ、景気は回復して失業者も減少し、生産力も増した。治安も改善して、特にマフィアの活動を押さえ込んで犯罪件数を減少させた。所有形態を維持しながら一連の成果を挙げたため、イギリスやアメリカなどの民主主義国家の指導者や評論家のなかにも「ムッソリーニこそ新しい時代の理想の指導者」と称える向きがあり、辛口な論評で知られたイギリスのウィンストン・チャーチルさえ「偉大な指導者の一人」と高く評価していた。
しかし、1929年の世界恐慌の影響により失業者が100万人以上に膨れ上がり、次第に財政支出を増やし始め、第二次世界大戦が開戦する1939年までには、イタリアはソビエト連邦に次いで国有企業の多い国となった。1939年3月、議会を廃止して全国組合協同会議にかえ、全体主義の組合国家体制としている。
ムッソリーニ失脚と党の解体[編集]
1943年、連合国軍の本土上陸を許した上に、エチオピアを含むアフリカでの戦いにも敗北し、完全に劣勢に立たされたイタリアでは国王を中心にムッソリーニ追放の動きが始まった。7月24日、5年ぶりにヴェネツィア宮殿(en)で行われたファシズム大評議会において、下院議長で王党派のディーノ・グランディ伯爵は連合国との開戦とその後におけるムッソリーニの指導責任を追及し、「統帥権の国王への返還」の動議を提出した。これにに対し、ムッソリーニの女婿でもあったガレアッツォ・チアーノ外務大臣を含む多くのファシスト党の閣僚がこれに賛同し、過半数の賛成を得て成立した。ムッソリーニは翌7月25日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世にその旨を報告したその直後に憲兵隊に拘束され、即座に幽閉された。
ムッソリーニの失脚により、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世はファシスト党の解散を命令、ピエトロ・バドリオを首相に任命した。その後、ムッソリーニは、9月ヒトラーの指令によるグラン・サッソ襲撃によって救出され、ドイツ支配下の北イタリアに建てられた傀儡政権イタリア社会共和国(サロ政権)の首班となった。ドイツの強い要請により大評議会で賛成票を投じたチャーノら幹部は処刑された。社会共和国でファシスト党は共和ファシスト党として再建されヴェローナ憲章(it:Manifesto di Verona)を綱領としたが、ほとんど活動は行われなかった。1945年4月25日に社会共和国が崩壊すると、党も自然消滅した。
ファシスト党の流れを汲む現代政党[編集]
イタリアにおいては、第二次世界大戦後もファシスト党の流れを汲む一定の勢力(イタリア社会運動)が存在した。現在のイタリアの極右政党国民同盟も、穏健化してはいるがファシスト党の影響を残している。国民同盟の穏健化は国民から評価され、1994年のフォルツァ・イタリアによるシルヴィオ・ベルルスコーニ政権誕生へとつながった。
また国民同盟はかつて、ベニート・ムッソリーニの孫娘アレッサンドラ・ムッソリーニが所属していた。アレッサンドラは国民同盟を離党後、極右政党「行動の自由」(現在の名称は「社会行動 (Azione Sociale)」)を結成した。欧州議会選挙では他のネオ・ファシズム運動と連携して会派「社会的選択」を組織して票を獲得し、アレッサンドラは欧州議会議員に当選した。
出典[編集]
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 大森実『人物現代史2 ムッソリーニ』講談社 講談社文庫 1994年8月 ISBN 4-06-185732-0
- 佐藤優「民族の罠(第五回)ファシズムの誘惑」『世界』745号 岩波書店 2005年
- ジョルジュ・ソレル『暴力論(上・下)』今村仁司、塚原史訳、岩波文庫、新版2007年 (上巻)ISBN 978-4003413814、(下巻)ISBN 978-4003413821
- 高橋進『イタリア・ファシズム体制論 : ファシズム大評議会と閣議(1)』