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+ | <!--*野添(1993,pp.32-36)によると、戦後、花岡では中国人強制連行事件・花岡事件はタブー視されており、事件について調べようとした野添は手紙や電話による脅迫や暴力団による自宅への投石、秋田県内で予定していた講演会の中止や仕事のキャンセルなどに遭ったが、「山狩り」の過程で中国人の元労務者と遭遇し、事件の加害者となったことが原体験となって、地元住民らによって事件の記録や証言を残そうとする活動が続けられてきたといい、1975年のNHKのテレビ番組などで花岡事件のことが取り上げられた頃から、事件の報道はかなり自由になってきたという。--> | ||
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+ | 2000年の和解が成立した後、2001年から2010年までは、日本の支援者と花岡受難者聨誼会、花岡平和友好基金運営委員会が、被害者やその遺族らで構成される数十人規模の代表団をほぼ毎年日本へ派遣し、代表団は大館市主催の慰霊式に参加するなどしている<ref>李(2010)p.105、新美(2006)pp.308-309</ref>。 | ||
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+ | 2001年の慰霊式には、[[花岡平和友好基金]]の運用により来日した12人の生存者と19人の遺族が出席し、約400人が献花、鹿島から初めて常務取締役が参席した<ref>杉原(2002)pp.83-84</ref>。 | ||
+ | <!-- 2009年8月には、[[日中友好宗教者懇話会]]と[[中国人強制連行殉難者合同慰霊実行委員会]]が東京で遺骨発掘60周年の記念法要を行なった。<ref>李(2010)p.105</ref> --> | ||
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2017年12月31日 (日) 02:18時点における版
花岡事件(はなおかじけん)は、1944年8月から1945年10月頃までに、中国の河北省・山東省などから日本に連行され、秋田県北秋田郡花岡町にあった鹿島組花岡出張所の土木工事現場で使役されていた華人労務者約1,000人のうち、400余人が死亡した事件。1945年6月30日または7月1日に華人労務者による暴動事件が発生し、鎮圧時・鎮圧後に数十人が殺害されたり死亡したりしたが、同出張所の華人労務者の死亡率が高い状況は暴動の前後も続いており、差別的な待遇による過酷な労働・生活環境や、出張所責任者の物資横流しによる食糧の不足、出張所の輔導員(監視員)による日常的な暴行などの非人道的な取扱いが、暴動事件や高い死亡率の原因になったとみられている。
1948年にアメリカ軍による戦犯裁判で同出張所の関係者や地元の大館警察署の関係者が虐待・虐待致死容疑で有罪判決を受けた。1949年頃から1960年代前半にかけて、花岡に残された事件犠牲者の遺骨を発掘し、中国に送還する運動が行なわれた。1995年に東京地裁に鹿島建設(旧鹿島組)に対する損害賠償請求訴訟が提起され、2000年に東京高裁で和解が成立。鹿島が5億円を中国紅十字会に信託し、2009年12月末までに花岡平和友好基金から「受難者」約1,000人のうち、和解に応じた約480人に補償金が支払われたが、10数人が和解を拒否した。2015年に大阪地裁に日本政府に対し損害賠償と謝罪を求める訴訟が提起された。
目次
背景
華人労務者の内地移入
1937年7月の盧溝橋事件以降、中国大陸での戦線拡大により労働力が不足していた旧満州国や北海道の土木建築業界や鉱山採掘業界から、華北の労働力を生産に充てたいと要望があり、政府・軍部との協議を経て、1941年頃から、華北では治安維持を名目にした討伐作戦や清郷工作により捕えた労働者を旧満州などへ連行し働かせることが行われるようになった[1]。
1942年11月27日に東條内閣は、日中戦争の長期化と太平洋戦争の開戦にともない労働力が不足するようになった内地の国民動員計画産業に充当する労働力として華人労務者の内地「移入」を認める閣議決定をした[2]。1943年4月から11月にかけての試行の後、1944年2月の次官会議の決定を経て、「移入」は本格的に行われるようになり、河北省・山東省・河南省などで日本軍に捕えられた中国人約4万人が日本に連行された[3]。
「華人労務者移入計画」に基づく割当を受けた企業は、華北労工協会と「労工供出契約」を締結し、「労工教習所」[4]に収容されていた中国人を華人労務者(華工、華労)として日本に連行して使役した[5]。華人労務者には元農民が多かったが元軍人も含まれており、当時、実質的な交戦国だった中国から日本への労務者の移入を治安面で警戒する向きもあり、軍部からは強圧的に接すれば暴動のおそれがあり、宥和的に接することが有効な対策との意見があったが、外交筋から「甘やかすとつけあがる」的な主張もなされており、事業所によって華人労務者の管理方針には差異があった[6]。
戦時中の花岡鉱山
花岡鉱山は、秋田県北部に位置し、1915年以来、合名会社藤田組が経営していた鉱山で、太平洋戦争開始後の1942年に鉱山全体が軍需工場に指定され、月産3-5万トンの生産を義務付けられていたが、鉱山関係機械が不足し、また鉱山労働者が兵役にとられて労働力も不足していた[7]。このため、高齢者や女性、少年が動員され、坑内労働にあたっていたが、太平洋戦争末期になると機械の調達ができなくなり、労働力の不足は深刻だったため、日本に連行されてきた朝鮮人や、米国人の俘虜、中国人の徴用工などが採掘作業に使役された[8]。
鹿島組花岡出張所
鹿島組は花岡鉱山の選鉱場(鉱滓堆積ダム)の付帯工事を請け負っており、また七ツ館事件の後、花岡川の水路変更・改修工事も請け負うことになった[9]。鹿島組は、これらの工事に充てるため華人労務者を使役することを考え[10]、日本政府の「華人労務者移入計画」に基づく割当を受けて、職員を中国に派遣して華北労工協会と「労工供出契約」を締結し、「労工教習所」にいた中国人700人の中から300人を選別して日本に連行した[11]。
1944年8月に、花岡町にあった鹿島組花岡出張所に第1次・300人弱の華人労務者が到着した[12]。華人労務者たちは、花岡出張所の「中山寮」に入れられ、鉱滓堆積ダムの建設工事や花岡川の改修工事などに使役された[13]。
藤田組の花岡鉱山で使役されていた華人労務者は「東亜寮」に入っており、「中山寮」の華人労務者とは区別されていて、待遇も異なっていた[14]。
事件
鹿島組花岡出張所の華人労務者は、警察や内務省の指導により、十分な食糧や日用品、休養を与えられずに重労働に従事し、現場で華人労務者の監督・監視にあたっていた輔導員から日常的に暴行を受けていた上に、同出張所の関係者や輔導員らによる食糧のピンハネ・横流しによって配給予定量の食糧を与えられず、病欠者が多くなると食糧の配給が減らされ、衣料品の支給も少なく中山寮の建物・設備が粗末で冬場の寒さがしのげないなど、劣悪な生活・労働環境に置かれていた[15]。1945年6月までに、花岡出張所に連行された華人労務者合計1,000人弱のうち、約140人が死亡した[16]。
1945年6月30日または7月1日の深夜に、中山寮に宿泊していた輔導員ら5人が殺害され、鹿島組花岡出張所の華人労務者約800人が集団脱走する暴動事件が起き、翌日以降、警察や地元住民を動員して「山狩り」が行なわれ、憲兵隊が出動して暴動は鎮圧された。逮捕時の銃撃・暴行や、逮捕後に共楽館で行われた警察による尋問時の暴行・虐待により、数十人が殺害されたり死亡したりした。暴動の首謀者とされた耿諄以下の華人労務者の幹部13人が起訴され、終戦後も手続きが継続されて、1945年9月11日に秋田地方裁判所で「戦時騒擾殺人罪」により無期懲役以下の判決が下されたが、受刑者は数日後に秋田に進駐してきた米軍によって保護された。
暴動事件が起きた1945年7月の1ヵ月間に、鹿島組花岡出張所では、華人労務者100人が死亡し、同年8月には49人、9月に68人、10月に51人、11月に9人が死亡と、米軍が介入する10月まで死者数の多い状況が続いた[17]。同年10月に米軍の調査隊が花岡に入った後、食糧が十分に支給されるようになり、病人が花岡鉱山病院に収容され治療を受けるようになると、華人労務者の栄養状況・健康状態は眼に見えて改善した。
同年11月29日に、元華人労務者たちは、戦犯裁判の証人として残された11人や秋田刑務所に残っていた13人を除いて、江の島丸に乗船して中国に帰国した[18]。
戦後の動向
華人労務者使役企業への国家補償金の支払
1945年12月30日に、日本建設工業会の働きかけにより、「終戦後の損害に対する補償」が閣議決定され、国が推薦した中国人を使役していたために終戦後に損失を被ったとして、政府から関係企業に国家補償が行われ、鹿島組は5事業所で使役していた中国人連行使用者1,888人に対して約346万円を受け取った[19]。また1946年3月30日付商工省指令「終戦前の損害に対する補償」により、戦時中の損失についても国家補償が行われ、鹿島組は約58万円を受給している[20]。
事件の調査と戦犯裁判
1945年10月初に米軍が鹿島組花岡出張所の調査に入って「中山寮」に放置されていた華人労務者の遺体を確認、同出張所の河野正敏署長ら出張所関係者7人を逮捕した。翌年初には捜査が鹿島組の社長・鹿島守之助にも及び、鹿島組は弁護団を強化して、戦犯裁判の証人として日本に残っていた元華人労務者と個別に交渉して帰国を促し、大館警察署の管理上の問題を告発して元警察署長らをGHQに逮捕させるなどの弁護活動を展開した。中国大陸での国共内戦において国民党が劣勢に立たされ、日本や米国との連携強化を志向するにつれて、国民党の駐日代表部は往事の日本政府・企業の責任を問う戦犯裁判に消極的な姿勢を取るようになった。
1948年3月1日にアメリカ軍横浜裁判(BC級戦犯裁判)で、鹿島組花岡出張所の関係者4人と地元の大館警察署の関係者2人が、虐待・虐待致死により、絞首刑以下の有罪判決を受けたが、戦犯受刑者はのちに減刑されて全員が出所した。
遺骨の発掘・送還運動
1949年の中華人民共和国成立の頃から、地元・花岡の労働組合や在日華僑団体が中心となって、花岡や日本各地の華人労務者使役事業所で死没した華人労務者の遺骨を発掘し、中国へ送還する運動を展開した。遺骨発掘活動が団体の機関誌で報道されたことを契機に、花岡事件は日本全国で知られるようになった。発掘・収集された遺骨は、中国人俘虜殉難者慰霊実行委員会によって、中国から日本への帰還者と入れ替わりに、1953年7月から1964年11月にかけて、当時日本と国交がなかった中国へ送還された。
鹿島建設に対する損害賠償請求訴訟
1983年から、劉智渠ら日本に残留した被害者と石飛仁らは鹿島建設に対して労賃支払を求める交渉を行い、その過程で中国に帰国していた耿諄の消息が明らかになった。1989年に耿諄らは花岡受難者聨誼会を結成し、これを日本の中国人強制連行を考える会が支援する形で鹿島建設との補償交渉が行なわれ、1990年7月5日の共同発表で鹿島建設は事件の責任を認め生存者・遺族に謝罪した。しかしその後、聨誼会が要求した補償金支払や記念館建設を巡る交渉がまとまらず、1995年6月28日に、聨誼会の生存者・遺族11人は、東京地裁に、鹿島建設に対する損害賠償請求訴訟を提起した。
1997年に東京地裁が原告の訴えを却下した後、原告側が控訴し、東京高裁の和解勧告を受けて2000年11月29日に和解が成立。鹿島が5億円を中国紅十字会に信託し、花岡平和友好基金を通じて、戦時中、鹿島組花岡出張所に連行された元華人労務者約1,000人が和解条項を承認した場合に補償金が支払われることになった。2009年12月時点で約1,000人の「受難者」のうち約520人の身元が判明、このうち約480人が支払いを受け、10数人が和解を拒否している。
日本政府に対する訴訟
2015年6月26日に、花岡事件の生存者(2人)とその遺族ら13人が、大阪地裁に、日本政府に対し、損害賠償金の支払いと謝罪を求める訴訟を提起した。
慰霊
慰霊式と代表団の派遣
1985年6月30日に、大館市で、畠山健治郎市長(社会党)の主導で、自治体主催での「中国人殉難者慰霊式」が開催され、以後2017年現在まで毎年慰霊式が続けられている[21]。
2000年の和解が成立した後、2001年から2010年までは、日本の支援者と花岡受難者聨誼会、花岡平和友好基金運営委員会が、被害者やその遺族らで構成される数十人規模の代表団をほぼ毎年日本へ派遣し、代表団は大館市主催の慰霊式に参加するなどしている[22]。
2001年の慰霊式には、花岡平和友好基金の運用により来日した12人の生存者と19人の遺族が出席し、約400人が献花、鹿島から初めて常務取締役が参席した[23]。
記念館の設立
- ↑ 杉原(2002)pp.35-44
- ↑ 野添(1993)pp.9-11、杉原(2002)pp.45-49,西成田(2002)pp.60-61、林(2005)pp.9-10、石飛(2010)pp.20-21。国立国会図書館リサーチナビ トップ>政治・法律・行政>日本> 昭和前半期閣議決定等> 華人労務者内地移入ニ関スル件 2017年12月30日閲覧。
- ↑ 西成田(2002)pp.175-183、野添(1993)pp.11-14
- ↑ 実質的には「捕虜収容所」だったが、日中戦争開戦後も日本は形式的に中国と交戦中であることを認めていなかったため、捕虜の存在を認めず、別名称を用いた(新美,2006,pp.212-213)。
- ↑ 西成田(2002)pp.54-58
- ↑ 西成田(2002)pp.68-71
- ↑ 野添(1993)pp.6-7、西成田(2002)pp.363-364
- ↑ 野添(1993)p.7
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、西成田(2002)pp.363-364、石飛(1996)p.58、野添(1993)p.8
- ↑ 野添(1993)pp.8-9
- ↑ 新美(2006)p.184
- ↑ 野添(1992,pp.10-13)は、第1次は出発時300人だったが、乗船までに1人が逃亡して射殺され、1人は乗船時に海に飛び込み、1人が船中で病死して、下関に到着したのは297人、下関から貨物列車で大館を経由して花岡に到着するまでに2人が死亡し、花岡に到着したのは295人だったとしており、新美(2006,p.304)では出発時299人、到着時294人としている。西成田(2002,p.364)によると、鹿島組花岡出張所の『華人労務者就労顛末報告書』は8月8日付で297人を「移入」したとしている。野添(1993,p.21)では花岡到着の全数を297人としている。
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、李(2010)p.98、野添(1993)pp.15-16、林(2005)p.10
- ↑ 西成田(2002)pp.365-366
- ↑ 野添(1993)pp.19-23
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、新美(2006)p.304、西成田(2002)p.364、野添(1993)p.23
- ↑ 大館郷土博物館(2014)、西成田(2002)pp.395-396、野添(1993)p.27、野添(1992)p.195。
- ↑ 野添(1992)pp.218-220。野添(1993)p.28では、戦犯裁判の証人として12人が残された、としている。
- ↑ 野添(1993)p.29、野添(1992)p.233
- ↑ 野添(1993)p.29、野添(1992)p.233
- ↑ 野添(1993)p.37、杉原(2002)p.82、「秋田)花岡事件から72年 慰霊式に遺族ら220人」『朝日新聞デジタル』2017年7月1日3:00
- ↑ 李(2010)p.105、新美(2006)pp.308-309
- ↑ 杉原(2002)pp.83-84