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1887年(明治18)年、工部省廃止の時期に退官する。
 
1887年(明治18)年、工部省廃止の時期に退官する。
 
1886年(明治19年)[[帝国大学]]工科大学教授に就任する。同年、造家学会(のちの[[日本建築学会]])を設立。辰野金吾建築事務所を設立する。
 
1886年(明治19年)[[帝国大学]]工科大学教授に就任する。同年、造家学会(のちの[[日本建築学会]])を設立。辰野金吾建築事務所を設立する。
1896年(明治29年)2月、設計した[[日本銀行]]が竣工する。重要文化財。
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1896年(明治29年)2月、設計した[[日本銀行]]が竣工する。近代日本建築の祖の代表作であり、日本の国家を代表する建築がはじめて日本人建築家の手に委ねられた記念的作品である<ref name=kanayama>金山弘昌,「日本橋の近代建築案内」,日本橋学研究,Vol.1(No.1),pp.33-49, 2008年</ref>
1898年(明治31年)[[帝国大学]]工科大学学長。
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1902年(明治35年)工科大学を辞職。
 
1902年(明治35年)工科大学を辞職。
 
1903年(明治36年)[[葛西萬司]]と辰野葛西事務所を開設(東京)。
 
1903年(明治36年)[[葛西萬司]]と辰野葛西事務所を開設(東京)。

2017年9月24日 (日) 14:22時点における最新版

辰野 金吾 (たつの きんご、1854年10月13日- 1919年3月25日) は、日本建築家帝国大学工科大学学長である。東京駅駅舎、日本銀行本店などの設計を行った。

経歴[編集]

1854年(嘉永7年)肥前国(現佐賀県唐津藩の下級役人・姫松蔵右衛門とオマシの間に次男として生まれる。 1868年(明治元年)叔父の辰野宗安の養子となり、辰野金吾となる。 1873年(明治6年)工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生(第2回募集)として入学した。 1877年(明治10年)ロンドン出身のジョサイア・コンドルが造家学教師に着任し、教えを受ける。 1879年(明治12年)造家学科を首席で卒業した(同期生に曽禰達蔵片山東熊佐立七次郎)。 1880年(明治13年)英国留学、コンドルの師であるバージェスの事務所やロンドン大学で学んだ。 1883年(明治16年)日本に帰国し、工部省営繕課に勤務する。 1884年(明治17年)コンドルが教授を退官後、工部大学校教授に就任した。 1887年(明治18)年、工部省廃止の時期に退官する。 1886年(明治19年)帝国大学工科大学教授に就任する。同年、造家学会(のちの日本建築学会)を設立。辰野金吾建築事務所を設立する。 1896年(明治29年)2月、設計した日本銀行が竣工する。近代日本建築の祖の代表作であり、日本の国家を代表する建築がはじめて日本人建築家の手に委ねられた記念的作品である[1] 1902年(明治35年)工科大学を辞職。 1903年(明治36年)葛西萬司と辰野葛西事務所を開設(東京)。 1905年(明治38年)片岡安と辰野片岡事務所を開設(大阪)。 1914年、東京駅が竣工。重要文化財。 1918年、大阪市中央公会堂(実施設計)。 1919年(大正8年)、スペインかぜに罹患し死去。

建築作品[編集]

  • 日本銀行本店,1896年,重要文化財
  • 日本銀行京都支店,1906年,重要文化財
  • 日本生命九州支店,1909年,重要文化財
  • 岩手銀行本店本館,1911年,重要文化財
  • 東京駅(旧中央停車場),1914年,重要文化財
  • 武雄温泉新館・楼門,1914年,重要文化財
  • 大阪市中央公会堂,1918年,重要文化財

弟子[編集]

帝国大学で伊東忠太長野宇平治武田五一中條精一郎塚本靖野口孫市、大沢三之助、関野貞岡田時太郎らの人材を輩出した。

参考文献[編集]

  1. 金山弘昌,「日本橋の近代建築案内」,日本橋学研究,Vol.1(No.1),pp.33-49, 2008年