「野球害毒論」の版間の差分
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2007年5月5日 (土) 05:55時点における版
野球害毒論(やきゅうがいどくろん)とは、1911年(明治44年)に当時の東京朝日新聞(現・朝日新聞東京本社版。※)が紙面で展開した野球に対するネガティブ・キャンペーンである。
※当時の朝日新聞合資会社(現・朝日新聞社)から発行していた。大阪では大阪朝日新聞(現・朝日新聞大阪本社版)を発行。
概要
1911年(明治44年)8月29日から9月22日までの間に、東京朝日新聞は「野球と其害毒」と題した記事を22回にわたって掲載した。著名人の野球を批判する談話、全国の中学校校長を対象に実施されたアンケートの結果などで構成されている。
主な談話
- 新渡戸稲造:第一高等学校校長 「野球という遊戯は悪くいえば巾着切りの遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、ベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り神経を鋭くしてやる遊びである。ゆえに米人には適するが、英人やドイツ人には決してできない。野球は賤技なり、剛勇の気なし」
- 乃木希典:学習院長 「対外試合のごときは勝負に熱中したり、余り長い時間を費やすなど弊害を伴う」
- 金子魁一:東京大学医科整形医局長 「連日の疲労は堆積し、一校の名誉の為に是非勝たなければならぬと云う重い責任の感が日夜選手の脳を圧迫し甚だしく頭に影響するは看易い理である」
- 磯部検三:日本医学校幹事 「あんなにまでして(ここでは渡米試合のことを指す)野球をやらなければ教育ができぬというなれば、早稲田、慶應義塾はぶっつぶして政府に請願し、適当なる教育機関を起こして貰うがいい」「早稲田、慶応の野球万能論のごときは、あたかも妓夫や楼主が廃娼論に反対するがごときもので一顧の価値がない」
- 松見順天中学校校長 「手の甲へ強い球を受けるため、その振動が脳に伝わって脳の作用を遅鈍にさせる」
- 川田府立第一中学校校長 「野球の弊害四ヵ条。一、学生の大切な時間を浪費せしめる。二、疲労の結果勉強を怠る。三、慰労会などの名目の下に牛肉屋、西洋料理等へ上がって堕落の方へ近づいていく。四、体育としても野球は不完全なもので、主に右手で球を投げ、右手に力を入れて球を打つが故に右手のみ発達する」
時代背景
東京朝日新聞が「野球と其害毒」を連載したのには、2つの理由が考えられている。
野球熱の異様な高まり
この連載当時、学生野球の人気はすさまじいものがあった。1906年(明治39年)秋の早慶戦は第1戦が10月28日に早大戸塚グラウンドで慶應義塾大学が2 - 1で勝利。続く第2戦は11月3日に慶大三田グラウンドで早稲田大学が3 - 0で雪辱。第3戦は11月13日に決まったが、あまりに盛り上がりすぎて早慶のみならず審判を務める予定だった学習院大学にまで脅迫状が届く事態となり、無期延期となった。
その後、対戦相手を失った早慶両校は渡米したり、逆にアメリカ合衆国からチームを招聘したりするようになる。選手はちやほやされるようになり、味を占めた選手の中には野球を続けるためわざと留年したあげく新任教師より年上という者まで現れた。
さらに他の学校でも野球は大人気だったが、行き過ぎた応援が徐々に問題視されるようになり、野球禁止を掲げる学校が増えていった。あまりにも野球人気が高くなりすぎたために賛否両論が巻き起こったのである。
大阪毎日新聞社の東京進出
もう1つの理由としてあげられるのは、ライバル大阪毎日新聞(現・毎日新聞大阪本社版)の東京進出である。「野球と其害毒」が連載された明治44年、大阪毎日新聞社(後の毎日新聞社)は東京日日新聞(毎日新聞東京本社版)を買収し東京進出を果たしている。
そこで、東京朝日新聞が自らの存在をアピールするために、当時国民的人気を誇っていた野球を利用したのではないか、というわけである。
その後
東京朝日新聞が大キャンペーンを行ったにもかかわらず、野球人気が衰えることはなかった。東京日日新聞を筆頭に他紙が害毒論に反対する論陣を張り、押川春浪らが野球擁護の文章を発表して社会的な議論へと発展したが、「野球が楽しければそれでよいではないか」という意見がキャンペーンを圧倒したのである。
一方、大阪朝日新聞にはこのキャンペーンは記事としては掲載されず(東京朝日にて連載中という案内は掲載された)、キャンペーン終了直後には野球特集を組んでいた。このスタンスの違いは、キャンペーンが東京朝日社会部長の渋川玄耳のイニシアティブによって行われたからであるといわれている。
「野球と其害毒」連載から4年後(1915年=大正4年)、朝日新聞合資会社は180度方針転換し、大阪朝日新聞が全国中等学校野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)を主催することになった。当時の社説には「攻防の備え整然として、一糸乱れず、腕力脚力の全運動に加うるに、作戦計画に知能を絞り、間一髪の機知を要するとともに、最も慎重なる警戒を要し、而も加うるに協力的努力を養わしむるは、吾人ベースボール競技をもってその最たるものと為す」と書かれている。
そして、東京朝日新聞は販売促進のために野球を学校教育と結びつけ、印象向上を狙ったのである。野球に対するネガティブ・キャンペーンは失敗に終わったものの、大阪朝日新聞が中等学校野球大会を開催する上でも、正反対のベクトルとはいえ野球と学校教育を結びつけるという視点は変わらなかった。
とりわけ、害毒論とのバランスを取るために「中等学校野球大会は教育の一環である」という点が強調されたことで、今日に続く学校スポーツの抱える問題点を逆に拡大する結果を招いたともいえる。また、この方針変更はスポーツを論評の対象から自らの拡販への利用に転換した点で、日本のスポーツジャーナリズムのあり方に大きな影響と課題を残した。
1991年になって、朝日新聞記者の本多勝一が「野球と其害毒」の後を承け、「新版「野球とその害毒」」を発表した(すずさわ書店『貧困なる精神〈第21集〉「新版「野球とその害毒」」』収録)。高校野球に対する内部批判ともいえたが、ほとんど話題にならずに終わっている。
関連項目
このページは Wikipedia日本語版由来のコンテンツを利用しています。もとの記事は野球害毒論にあります。執筆者のリストは履歴をご覧ください。 Yourpediaと同じく、WikipediaはGFDLのライセンスで提供されています。 コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。