「灘中学校・高等学校」の版間の差分
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設立にあたっては白鶴嘉納家の縁戚で、[[講道館]][[柔道]]の創始者であり、[[東京高等師範学校]](現・[[筑波大学]])やその[[附属学校|附属校]](現・[[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大附属中・高]])などの学校長職を25年間ほど務めた[[嘉納治五郎]]が顧問として参画。治五郎が柔道の精神として唱えた'''「精力善用」「自他共栄」'''が校是となった。(この嘉納治五郎の影響で柔道の時間が体育とは別に週1時間ある。) | 設立にあたっては白鶴嘉納家の縁戚で、[[講道館]][[柔道]]の創始者であり、[[東京高等師範学校]](現・[[筑波大学]])やその[[附属学校|附属校]](現・[[筑波大学附属中学校・高等学校|筑波大附属中・高]])などの学校長職を25年間ほど務めた[[嘉納治五郎]]が顧問として参画。治五郎が柔道の精神として唱えた'''「精力善用」「自他共栄」'''が校是となった。(この嘉納治五郎の影響で柔道の時間が体育とは別に週1時間ある。) | ||
− | 初代校長は東京高師の数物化学科を卒業後各地で教職を歴任していた[[眞田範衞]]が治五郎からの要請で就任。眞田は灘校の「教育の方針」を定め、自ら校歌・生徒歌も作詞した。[[1927年]]([[昭和]]2年)[[10月24日]] | + | 初代校長は東京高師の数物化学科を卒業後各地で教職を歴任していた[[眞田範衞]]が治五郎からの要請で就任。眞田は灘校の「教育の方針」を定め、自ら校歌・生徒歌も作詞した。[[1927年]]([[昭和]]2年)[[10月24日]]に設置認可を受け、この日を創立記念日とする。その翌年の[[1928年]]([[昭和]]3年)に開校。設置者は[[学校法人灘育英会]]。 |
当時は[[兵庫県立神戸高等学校|神戸一中]]や[[兵庫県立兵庫高等学校|二中]]に入学できなかった者が入学してきたが、当初から公立中学を抜かすことを考えていた様で、学力向上に力を入れ、学力別にA・B・C・Dに学級分けにした。[[第二次世界大戦]]前は柔道部の活躍の方が有名であった。 | 当時は[[兵庫県立神戸高等学校|神戸一中]]や[[兵庫県立兵庫高等学校|二中]]に入学できなかった者が入学してきたが、当初から公立中学を抜かすことを考えていた様で、学力向上に力を入れ、学力別にA・B・C・Dに学級分けにした。[[第二次世界大戦]]前は柔道部の活躍の方が有名であった。 | ||
第二次世界大戦後、公立高校の学区制度が実施された為、戦後から昭和40年代にかけて徐々に[[東京大学]]への進学校として台頭してきた。[[1968年]]([[昭和]]43年)度東大入試において、それまでトップの座に君臨してきた[[東京]]の[[東京都立日比谷高等学校|日比谷高校]]を抜き去り、私学では初めて単独での東大合格者数首位の座を掴む。以来、東大合格者数トップ校の一角を占める学校として知られる。 | 第二次世界大戦後、公立高校の学区制度が実施された為、戦後から昭和40年代にかけて徐々に[[東京大学]]への進学校として台頭してきた。[[1968年]]([[昭和]]43年)度東大入試において、それまでトップの座に君臨してきた[[東京]]の[[東京都立日比谷高等学校|日比谷高校]]を抜き去り、私学では初めて単独での東大合格者数首位の座を掴む。以来、東大合格者数トップ校の一角を占める学校として知られる。 | ||
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2012年9月17日 (月) 16:58時点における版
灘中学校・高等学校(なだちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、兵庫県神戸市東灘区にある私立の中高一貫制男子校である。また、学力日本一の高校である。『灘』となっているが、神戸市灘区にはなく東灘区に所在する。
アクセス
沿革
灘地方で酒造業を営む、嘉納治郎右衛門(菊正宗)、嘉納治兵衛(白鶴)、山邑太左衛門(櫻正宗)によって設立された。同様に酒造業者が設立した学校として甲陽学院がある。
設立にあたっては白鶴嘉納家の縁戚で、講道館柔道の創始者であり、東京高等師範学校(現・筑波大学)やその附属校(現・筑波大附属中・高)などの学校長職を25年間ほど務めた嘉納治五郎が顧問として参画。治五郎が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」が校是となった。(この嘉納治五郎の影響で柔道の時間が体育とは別に週1時間ある。)
初代校長は東京高師の数物化学科を卒業後各地で教職を歴任していた眞田範衞が治五郎からの要請で就任。眞田は灘校の「教育の方針」を定め、自ら校歌・生徒歌も作詞した。1927年(昭和2年)10月24日に設置認可を受け、この日を創立記念日とする。その翌年の1928年(昭和3年)に開校。設置者は学校法人灘育英会。
当時は神戸一中や二中に入学できなかった者が入学してきたが、当初から公立中学を抜かすことを考えていた様で、学力向上に力を入れ、学力別にA・B・C・Dに学級分けにした。第二次世界大戦前は柔道部の活躍の方が有名であった。
第二次世界大戦後、公立高校の学区制度が実施された為、戦後から昭和40年代にかけて徐々に東京大学への進学校として台頭してきた。1968年(昭和43年)度東大入試において、それまでトップの座に君臨してきた東京の日比谷高校を抜き去り、私学では初めて単独での東大合格者数首位の座を掴む。以来、東大合格者数トップ校の一角を占める学校として知られる。
1995年1月17日早朝に発生した阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)では、当校も被災した。学校の保健室が臨時の診療所として使用され、体育館は緊急の遺体安置所として使用された。
校舎のうち、事務棟として現在も使用中の本館は国の登録有形文化財に登録されている。
校風
制服の着用義務が無い他、明文化された校則を有せず、風紀について大部分を生徒の良識に委ねるなど、自由な校風を特徴とする。遠足など、校外行事においては現地集合、現地解散が慣習となっており、この事からも校風の自由さを見いだせる。生徒をできるだけ紳士として扱おうとしており、サンダル、半ズボン、ランニングシャツなどによる登校は禁止されている。
また、設立の経緯から、現在でも中学校及び、高校1年次では、柔道が全員必修になっている。
灘・甲南定期戦
毎年6月に甲南中学校・高等学校と灘・甲南定期親善試合を催している。
甲南学園は戦前、主に帝国大学入学を志す生徒が集まる旧制七年制高等学校であったが、学制改革により、新制の甲南大学と甲南中高に改組する。同じくして新制高等学校となった灘校から多数の生徒が甲南大に入学した。その事が縁で甲南と灘校の間で交流戦が始まり、現在に至る。1年ごとに開催場所を交代(奇数年は甲南、偶数年は灘)している。