「京都・神奈川親族連続殺人事件」の版間の差分
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− | + | 松村恭造は1月23日の夕方、東京都[[練馬区]]内を歩いていたところを京都府警の捜査員に発見され、叔母に対する強盗殺人で逮捕。[[2月21日]]には大叔父に対する強盗殺人の容疑で再逮捕された。 | |
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− | 犯人の松村は短気で切れやすく、自分の思い通りにならないとすぐに暴力に訴えたという。家庭内では主に母親に対して暴力をふるい、母親の髪を切って坊主頭にしたこともあったという。学生時代にも学校で暴力をふるい、好きな女生徒にふられたときには授業中に自らの手首を切るなどの[[自傷]]行為を行ない、教師・生徒の双方から何をしでかすかわからない存在と恐れられた。[[大検]] | + | 犯人の松村は短気で切れやすく、自分の思い通りにならないとすぐに暴力に訴えたという。家庭内では主に母親に対して暴力をふるい、母親の髪を切って坊主頭にしたこともあったという。学生時代にも学校で暴力をふるい、好きな女生徒にふられたときには授業中に自らの手首を切るなどの[[自傷]]行為を行ない、教師・生徒の双方から何をしでかすかわからない存在と恐れられた。[[大検]]に合格して入った東京の大学も暴力沙汰などから中退を余儀なくされ、その後に始めたアルバイトでも人間関係を作ることができず、そればかりかアルバイト先の店長に暴力をふるい、同僚から財布を奪った容疑など傷害・暴行・窃盗容疑などで逮捕されてしまった。この事件で松村は3ヶ月の拘留を受け、[[懲役]]2年6ヶ月、[[執行猶予]]4年の判決を受けて仮釈放された。 |
− | しかし逮捕されたことから松村は父親から勘当同然の身となり、息子の暴力を恐れて家から離れていた母親を頼るようになる。しかしそこでも暴力沙汰を繰り返して警察に逮捕されたり、[[滋賀県]] | + | しかし逮捕されたことから松村は父親から勘当同然の身となり、息子の暴力を恐れて家から離れていた母親を頼るようになる。しかしそこでも暴力沙汰を繰り返して警察に逮捕されたり、[[滋賀県]]内の養豚場や電気機器工場など、住み込み可能な仕事を探して職に就いたこともあったがやはり暴力事件を起こしたりしていずれも長続きしなかった。やがて無職になったAは金に困るようになり、親族に無心するようになった。しかし松村の暴力沙汰には親族も迷惑を被っており、相手にされるはずもなく、松村はそのことを逆恨みして凶行に及んだのである。 |
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− | + | 裁判でも松村恭造は傍若無人な発言を繰り返した。初公判では「人殺しくらいやって当然」と述べた。さらに「2人の冥福を祈るつもりは全くない」などとも述べた。 | |
[[2008年]][[3月17日]]、[[京都地方裁判所|京都地裁]]で裁判長が「犯行を認めますか」という罪状認否に対して、「俺が2人を殺した。俺は人殺しという大仕事を冷静に成し遂げた。俺は自分をほめてやりたい」と発言した。動機に関しても、「人生がうまくいかない。どうせ死ぬのなら恨みがあるやつを殺してからにしようとした」と発言した。 | [[2008年]][[3月17日]]、[[京都地方裁判所|京都地裁]]で裁判長が「犯行を認めますか」という罪状認否に対して、「俺が2人を殺した。俺は人殺しという大仕事を冷静に成し遂げた。俺は自分をほめてやりたい」と発言した。動機に関しても、「人生がうまくいかない。どうせ死ぬのなら恨みがあるやつを殺してからにしようとした」と発言した。 | ||
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また、自身を勘当した父親を憎んでか、父親に対して「事件はてめえの責任」と述べるなど、不規則発言を繰り返した。また、自分を馬鹿にしたとして同級生を3人目の殺害対象にしていたとも証言した。 | また、自身を勘当した父親を憎んでか、父親に対して「事件はてめえの責任」と述べるなど、不規則発言を繰り返した。また、自分を馬鹿にしたとして同級生を3人目の殺害対象にしていたとも証言した。 | ||
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+ | これらの不規則発言から反省の意思がまったくないとして、[[3月28日]]に京都地裁は「事件の責任は重大。被告の反省の態度が見られず、更生を期待するのは極めて困難」として死刑判決が下した。弁護側は即日控訴したが、松村が自ら取り下げて[[4月8日]]に死刑が確定した。 | ||
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2012年4月14日 (土) 13:56時点における版
京都・神奈川親族連続殺人事件とは、2007年1月に京都・神奈川で起こった殺人事件である。
事件
2007年1月16日、松村恭造(当時25歳)は京都府長岡京市在住の叔母(当時59歳)を襲って殺害し、現金およそ2万円とキャッシュカードを強奪して逃走した。京都府警は1月20日、犯人を特定して全国指名手配(非公開)する。松村恭造はその頃には東京都に逃走しており、奪った金で風俗店で遊びまわって使い果たしてしまっていた。金に困った松村恭造は、1月22日に神奈川県相模原市在住の大叔父(当時72歳)を頼って金を無心したが断られた。宿泊を頼み込んで認められたが、1月23日の深夜、松村恭造は大叔父が就寝しているところを鈍器で滅多打ちにして殺害。遺体を押入れに隠し、現金およそ1万円と携帯電話を盗んで逃走した。大叔父の遺体は早朝に発見された。
松村恭造は1月23日の夕方、東京都練馬区内を歩いていたところを京都府警の捜査員に発見され、叔母に対する強盗殺人で逮捕。2月21日には大叔父に対する強盗殺人の容疑で再逮捕された。
松村恭造
犯人の松村は短気で切れやすく、自分の思い通りにならないとすぐに暴力に訴えたという。家庭内では主に母親に対して暴力をふるい、母親の髪を切って坊主頭にしたこともあったという。学生時代にも学校で暴力をふるい、好きな女生徒にふられたときには授業中に自らの手首を切るなどの自傷行為を行ない、教師・生徒の双方から何をしでかすかわからない存在と恐れられた。大検に合格して入った東京の大学も暴力沙汰などから中退を余儀なくされ、その後に始めたアルバイトでも人間関係を作ることができず、そればかりかアルバイト先の店長に暴力をふるい、同僚から財布を奪った容疑など傷害・暴行・窃盗容疑などで逮捕されてしまった。この事件で松村は3ヶ月の拘留を受け、懲役2年6ヶ月、執行猶予4年の判決を受けて仮釈放された。
しかし逮捕されたことから松村は父親から勘当同然の身となり、息子の暴力を恐れて家から離れていた母親を頼るようになる。しかしそこでも暴力沙汰を繰り返して警察に逮捕されたり、滋賀県内の養豚場や電気機器工場など、住み込み可能な仕事を探して職に就いたこともあったがやはり暴力事件を起こしたりしていずれも長続きしなかった。やがて無職になったAは金に困るようになり、親族に無心するようになった。しかし松村の暴力沙汰には親族も迷惑を被っており、相手にされるはずもなく、松村はそのことを逆恨みして凶行に及んだのである。
裁判
裁判でも松村恭造は傍若無人な発言を繰り返した。初公判では「人殺しくらいやって当然」と述べた。さらに「2人の冥福を祈るつもりは全くない」などとも述べた。
2008年3月17日、京都地裁で裁判長が「犯行を認めますか」という罪状認否に対して、「俺が2人を殺した。俺は人殺しという大仕事を冷静に成し遂げた。俺は自分をほめてやりたい」と発言した。動機に関しても、「人生がうまくいかない。どうせ死ぬのなら恨みがあるやつを殺してからにしようとした」と発言した。
また、自身を勘当した父親を憎んでか、父親に対して「事件はてめえの責任」と述べるなど、不規則発言を繰り返した。また、自分を馬鹿にしたとして同級生を3人目の殺害対象にしていたとも証言した。
松村は、「事件に至った原因の半分は父親にある。ざまぁみろと思っている」と、反省の言葉はまったくなかった。
これらの不規則発言から反省の意思がまったくないとして、3月28日に京都地裁は「事件の責任は重大。被告の反省の態度が見られず、更生を期待するのは極めて困難」として死刑判決が下した。弁護側は即日控訴したが、松村が自ら取り下げて4月8日に死刑が確定した。