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西三河に該当する三河国造の本拠は、[[二子古墳]]のある[[鹿乗川流域遺跡群]]([[安城市]]桜井町地域)と推定されている<ref>[[平凡社]][[マイペディア]]、[[愛知県埋蔵文化財センター]]、[[安城市埋蔵文化財センター]]<references/>。石神遺跡から出土した木簡に、桜井君、長浴部直と記載された地方国主を想定するものがある。また、三河国内では、古代の木簡は、安城市の[[下懸遺跡]](小川町)・[[上橋下遺跡]](古井町)からしか出土していない。また、市の付く地名が、その国の中心地と想定され、大市郷<ref>石神遺跡木簡に記載あり<references/>(安城市上条町)、古市(安城市古井町)と、「市人」と記載された墨書土器出土(ニ子古墳南の桜林遺跡;安城市桜井町桜林)など、安城市の鹿乗川流域にある。
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西三河に該当する三河国造の本拠は、[[二子古墳]]のある[[鹿乗川流域遺跡群]]([[安城市]]桜井町地域)と推定されている<ref>[[平凡社]][[マイペディア]]、[[愛知県埋蔵文化財センター]]、[[安城市埋蔵文化財センター]]</ref>。石神遺跡から出土した木簡に、桜井君、長浴部直と記載された地方国主を想定するものがある。また、三河国内では、古代の木簡は、安城市の[[下懸遺跡]](小川町)・[[上橋下遺跡]](古井町)からしか出土していない。また、市の付く地名が、その国の中心地と想定され、大市郷<ref>石神遺跡木簡に記載あり</ref>(安城市上条町)、古市(安城市古井町)と、「市人」と記載された墨書土器出土(ニ子古墳南の桜林遺跡;安城市桜井町桜林)など、安城市の鹿乗川流域にある。
  
 
==三河の語源と用法==
 
==三河の語源と用法==
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[[レオン・パジェス]](1814~1886)の『[[日本切支丹宗門史]]』下巻の1631年の項でも三河、御油吉田と列挙していることからも、[[矢作川]]流域を三河と呼称していた。
 
[[レオン・パジェス]](1814~1886)の『[[日本切支丹宗門史]]』下巻の1631年の項でも三河、御油吉田と列挙していることからも、[[矢作川]]流域を三河と呼称していた。
  
幕末に編纂された[[徳川実紀]]において、初めて、西三河という呼称が登場する。この頃になって、ようやく三河国を東西に分割して、西三河(矢作川流域)、東三河(吉田川流域)と呼称するようになったと思われる<ref>三河国を東西に分割して、西三河、東三河と呼称したことがわかる確実な史料は、徳川実紀;嘉永2年(1849)である。「是より先三河國帰順の後は本國の國士を二隊に分。酒井忠次。石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが。家成今度懸川を留守するにおよび。旗頭の任は甥の数正にゆずり。」<references/>。
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幕末に編纂された[[徳川実紀]]において、初めて、西三河という呼称が登場する。この頃になって、ようやく三河国を東西に分割して、西三河(矢作川流域)、東三河(吉田川流域)と呼称するようになったと思われる<ref>三河国を東西に分割して、西三河、東三河と呼称したことがわかる確実な史料は、徳川実紀;嘉永2年(1849)である。「是より先三河國帰順の後は本國の國士を二隊に分。酒井忠次。石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが。家成今度懸川を留守するにおよび。旗頭の任は甥の数正にゆずり。」</ref>。
  
 
==国府、守護所、一宮、総社、国分寺==
 
==国府、守護所、一宮、総社、国分寺==
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*[[渥美郡]]
 
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==国号==
 
==国号==
三河の国号の由来は、元来不明であるが、西尾の神官の渡辺政香;参河志:1836年(天保7)の中で「三川は参河国なり。此国、男川 豊川<ref>江戸時代末期の天保年間には、吉田川(豊川とよがわ濁音ではない)と江戸幕府は明記しているのだが、海道記に、豐河の宿に泊りぬ。この川は流ひろく、水深くして、まことに豐かなる渡りなり。と記載されているため、宿場名(集落名)と河の呼称を混同して、豊川と引用したものと思われる。鎌倉時代当時は、律令制と同じ飽海川であったと思われる。室町~江戸末期は、吉田川。明治以降、豊川(とよがわ濁音)。<references/>矢作川<ref>矢作川の呼称は、古代から現在に至るまで、矢作川(矢矧川、やはぎには各種の字が当てられている。)で不動であり、著名な1級史料その他に多数引用されているため、間違うことはない。<references/>とて、三の大川 ある故に、三川と名くと云えり」との記述がある。この記述は尾張藩士の岡田啓による三河国号起源にも引用されている<ref>参河国全図;天保8年<references/>。
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三河の国号の由来は、元来不明であるが、西尾の神官の渡辺政香;参河志:1836年(天保7)の中で「三川は参河国なり。此国、男川 豊川<ref>江戸時代末期の天保年間には、吉田川(豊川とよがわ濁音ではない)と江戸幕府は明記しているのだが、海道記に、豐河の宿に泊りぬ。この川は流ひろく、水深くして、まことに豐かなる渡りなり。と記載されているため、宿場名(集落名)と河の呼称を混同して、豊川と引用したものと思われる。鎌倉時代当時は、律令制と同じ飽海川であったと思われる。室町~江戸末期は、吉田川。明治以降、豊川(とよがわ濁音)。</ref> 矢作川<ref>矢作川の呼称は、古代から現在に至るまで、矢作川(矢矧川、やはぎには各種の字が当てられている。)で不動であり、著名な1級史料その他に多数引用されているため、間違うことはない。</ref>とて、三の大川 ある故に、三川と名くと云えり」との記述がある。この記述は尾張藩士の岡田啓による三河国号起源にも引用されている<ref>参河国全図;天保8年</ref>。
 
==国境==
 
==国境==
 
隣国との境界線は、いずれも「境川」である。(現在名も同様。)詳しくは[[境川 (境川水系・愛知県)]]及び[[境川 (豊橋市)]] を参照。
 
隣国との境界線は、いずれも「境川」である。(現在名も同様。)詳しくは[[境川 (境川水系・愛知県)]]及び[[境川 (豊橋市)]] を参照。
  
 
東海道名所図会より、堺川(尾三両国堺) 三遠境川。
 
東海道名所図会より、堺川(尾三両国堺) 三遠境川。

2012年3月31日 (土) 10:38時点における版

三河国 (みかわのくに) は、かつて日本の地方行政区分だったの一つで、東海道に位置する。現在の愛知県の東部にあたる。三の大字を用いて参河国とも表記する。三州または参州 (さんしゅう) と呼ぶこともある。延喜式での格は上国、近国。 大宝律令以前は、三川と表記。律令制~平城京までは参河と表記。長岡京以後は、三河と表記したことが、木簡から判明している。

沿革

645年大化の改新後に穂国造と参河国造(三河、三川)の支配領域を合わせて成立したと考えられているが確証はない。参河国が確実に存在したのは律令制の成立以後である。また7世紀後半に石神遺跡から、三川国穂評と記載された木簡が出土することから、穂国造を否定する説もある。ちなみに穂国造は、偽書説のある先代旧事本紀にしか登場しない(他の史料で、東三河を穂国(穂の国)と呼称している事実はない)。

穂国造の本拠は宝飯郡であるが、確定できる主要な古代遺跡がないため中心地は不明である。

西三河に該当する三河国造の本拠は、二子古墳のある鹿乗川流域遺跡群安城市桜井町地域)と推定されている[1]。石神遺跡から出土した木簡に、桜井君、長浴部直と記載された地方国主を想定するものがある。また、三河国内では、古代の木簡は、安城市の下懸遺跡(小川町)・上橋下遺跡(古井町)からしか出土していない。また、市の付く地名が、その国の中心地と想定され、大市郷[2](安城市上条町)、古市(安城市古井町)と、「市人」と記載された墨書土器出土(ニ子古墳南の桜林遺跡;安城市桜井町桜林)など、安城市の鹿乗川流域にある。

三河の語源と用法

西三河=三河国造、東三河=穂国造と称していることから、通常三河といえば、西三河を指す。三河物語においても、西三河を単に、三河(国)と言い。牛窪・吉田(豊川豊橋)辺りを特段に指定する場合、東三河(国)と呼称している。

レオン・パジェス(1814~1886)の『日本切支丹宗門史』下巻の1631年の項でも三河、御油吉田と列挙していることからも、矢作川流域を三河と呼称していた。

幕末に編纂された徳川実紀において、初めて、西三河という呼称が登場する。この頃になって、ようやく三河国を東西に分割して、西三河(矢作川流域)、東三河(吉田川流域)と呼称するようになったと思われる[3]

国府、守護所、一宮、総社、国分寺

国府は2説があり、時代による移動があったという説もある。一つは、豊川市白鳥町上郷中・下郷中付近説で、総社があることや「おとど(大臣)」の地名から推定された。平成3年から9年度にかけて総社周辺の発掘調査が行われ、建物跡が確認された。政庁の可能性が高い。もう一つは、豊川市国府(こう)町中道付近説で、守公神社付近が政庁跡とする説がある。

大久保彦左衛門著の三河物語に、今川義元が尾張への出兵のくだりに、「先手ハ下地之御位・小坂井・岡(コウ)・御油・赤坂に陣取」、とある。

承久の乱の後に三河守護に任命された足利義氏が、矢作東宿(岡崎市明大寺付近と推定)に守護所を設置したと推定されている。矢作東宿には、額田郡公文所も設置された。

延喜式神名帳には26座25社が記載されており、全て小社である。

一宮は豊川市(旧:宝飯郡一宮町域)の砥鹿神社で、1264年の史料に「一宮領内麻宇田村」とある。

三河物語に、一ノ宮、市之宮とある。元禄14年の三河国絵図に、一之宮村とある。江戸後期の三河国図に、一之宮とある。天保8年の三河国全図に、一宮とある。

二宮は知立市知立神社であるが、知立神社が二宮とする中世史料は見つかっていない。三宮は豊田市猿投町の猿投神社であるが、初見は1662年の史料で中世史料にはそれを示すものは見つかっていない。四宮以下はない。

総社は豊川市白鳥町上郷中にある「総社」。別名を白鳥神社上宮ともいう。

国分僧寺は、豊川市八幡町本郷にあった。昭和60年から63年の発掘調査で金堂講堂、塔跡などが確認された。現在は跡地に永正年間創建の国府山国分寺があり、古代の国分寺の銅鐘(梵鐘)を伝える。尼寺は同じく豊川市八幡町忍池にあった。発掘調査で遺構が確認されている。現在跡地に祇園山清光寺が建っている。

守護

鎌倉幕府

室町幕府

国号

三河の国号の由来は、元来不明であるが、西尾の神官の渡辺政香;参河志:1836年(天保7)の中で「三川は参河国なり。此国、男川 豊川[4] 矢作川[5]とて、三の大川 ある故に、三川と名くと云えり」との記述がある。この記述は尾張藩士の岡田啓による三河国号起源にも引用されている[6]

国境

隣国との境界線は、いずれも「境川」である。(現在名も同様。)詳しくは境川 (境川水系・愛知県)及び境川 (豊橋市) を参照。

東海道名所図会より、堺川(尾三両国堺) 三遠境川。
  1. 平凡社マイペディア愛知県埋蔵文化財センター安城市埋蔵文化財センター
  2. 石神遺跡木簡に記載あり
  3. 三河国を東西に分割して、西三河、東三河と呼称したことがわかる確実な史料は、徳川実紀;嘉永2年(1849)である。「是より先三河國帰順の後は本國の國士を二隊に分。酒井忠次。石川家成二人を左右の旗頭として是に属せしめられしが。家成今度懸川を留守するにおよび。旗頭の任は甥の数正にゆずり。」
  4. 江戸時代末期の天保年間には、吉田川(豊川とよがわ濁音ではない)と江戸幕府は明記しているのだが、海道記に、豐河の宿に泊りぬ。この川は流ひろく、水深くして、まことに豐かなる渡りなり。と記載されているため、宿場名(集落名)と河の呼称を混同して、豊川と引用したものと思われる。鎌倉時代当時は、律令制と同じ飽海川であったと思われる。室町~江戸末期は、吉田川。明治以降、豊川(とよがわ濁音)。
  5. 矢作川の呼称は、古代から現在に至るまで、矢作川(矢矧川、やはぎには各種の字が当てられている。)で不動であり、著名な1級史料その他に多数引用されているため、間違うことはない。
  6. 参河国全図;天保8年