「益田孝」の版間の差分
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2018年9月30日 (日) 16:55時点における最新版
益田 孝(ますだ たかし、嘉永1年10月17日(1848年11月12日) - 昭和13年(1938年)12月28日)は、三井財閥を支えた実業家。幼名は徳之進。茶人としても高名で鈍翁と号し、近代小田原三茶人の一人としても知られる。男爵。
経歴[編集]
佐渡の出身。父の鷹之助は箱館(函館)奉行を務めたのち、江戸に赴任。孝も江戸に出て、麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に勤務する。ヘボン塾(現・明治学院大学)に学んだ。文久3年(1863年)フランスに派遣された父とともにヨーロッパにも行っている。帰国後は幕府陸軍に入隊し、騎兵畑を歩んだ。1867年6月15日には旗本となり、慶応4年(1868年)1月には騎兵頭並に昇進した。
明治維新後は明治5年(1872年)に井上馨の勧めで大蔵省に入り、造幣権頭となり大阪へ。1974年には井上とともに政府を辞職し、井上とともに先収会社を設立した(副社長に就任)。明治9年(1876年)の三井物産設立とともに、3年契約で同社の総轄に就任する。同年には中外物価新報(日本経済新聞の前身)を創刊。三井物産は日本の商社の代表として綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期には日本の貿易総額の2割ほどを占めていたという。また、益田は工部省から三池炭鉱の払下げを受け、明治22年(1889年)「三池炭鉱社」(のちの三井鉱山)を設立、団琢磨を事務長に据えた。明治33年(1900年)に台湾製糖設立。大正2年(1913年)辞任。
明治中期頃から茶道をたしなみ、明治39年(1906年)には小田原市の板橋に掃雲台を造営し、「白雲洞」・「不染庵」・「対字斎」という庵を立てた。このことが後に近代茶人らが小田原・箱根へ集まる初めとなっている。
趣味の茶器収集も有名であった。鈍翁の号は、彼が収集した茶器「鈍太郎」に由来する。墓所は護国寺にある。
系譜[編集]
- 実妹に瓜生繁子(1862年4月18日-1928年11月3日)(旧姓永井繁子)がいる。幕府軍医・永井久太郎(玄栄)の養女。津田梅子、山川捨松とともにアメリカ留学して帰国後女子教育で活躍した。
- 長男は夭逝。次男に劇作家・益田太郎冠者。三男は初代小田原市市長の益田信世。歌手・岩崎宏美の前夫は益田の玄孫にあたる。
自伝・伝記[編集]
- 「自叙益田孝翁伝」益田孝(中公文庫)
- 「鈍翁・益田孝」〈上・下〉白崎秀雄(中公文庫)