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[[2009年]]、アルバム『'''ジャーナル・フォー・プレイグ・ラヴァーズ'''』を発表。全曲リッチーが残していた歌詞を元に制作、[[プロデューサー]]に[[ニルヴァーナ (バンド)|ニルヴァーナ]]の[[イン・ユーテロ]]などを手がけた[[スティーブ・アルビニ]]を起用している。イギリスの大手スーパーマーケットチェーンはアルバム・カバーの絵を問題視し、無地のスリップケースに入れた上で販売している。[http://www.barks.jp/news/?id=1000049347] | [[2009年]]、アルバム『'''ジャーナル・フォー・プレイグ・ラヴァーズ'''』を発表。全曲リッチーが残していた歌詞を元に制作、[[プロデューサー]]に[[ニルヴァーナ (バンド)|ニルヴァーナ]]の[[イン・ユーテロ]]などを手がけた[[スティーブ・アルビニ]]を起用している。イギリスの大手スーパーマーケットチェーンはアルバム・カバーの絵を問題視し、無地のスリップケースに入れた上で販売している。[http://www.barks.jp/news/?id=1000049347] | ||
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僕達はこれまで常に自分達が受けた影響を超越できるような作品を創ろうと努力してきた。同時に僕らはプレスと同じくらい偽善的でもある。でも僕らの音楽だけは真実だ。多くの人間は未だにロックについての古臭い理念を持ち続けているけど。有機性なんかクソ食らえ!セックス・ピストルズやジーン・ヴィンセントを聴くのにヘロイン漬けじゃないと解らないなんて法がどこにある?スティーヴィー・ワンダーを理解するのに盲目じゃないとダメだなんて法がどこにある?虚構と偽善のR&R。誰も政治や人生一般に対し完璧さなんか期待しやしない。なのに何故、一介のロック・バンドにそれを期待する?僕達は最高の作品を創る為に自分自身に対し決死のプレッシャーをかけた。僕らの1stアルバムを最高の作品にしたかったが為に「これこそが最初で最後のアルバムなんだ」と自分達に言いきかせてもきた。どんなバンドであろうと創造性が枯渇した時にはいさぎよく朽ち果てるべきだと思ってるから。 | 僕達はこれまで常に自分達が受けた影響を超越できるような作品を創ろうと努力してきた。同時に僕らはプレスと同じくらい偽善的でもある。でも僕らの音楽だけは真実だ。多くの人間は未だにロックについての古臭い理念を持ち続けているけど。有機性なんかクソ食らえ!セックス・ピストルズやジーン・ヴィンセントを聴くのにヘロイン漬けじゃないと解らないなんて法がどこにある?スティーヴィー・ワンダーを理解するのに盲目じゃないとダメだなんて法がどこにある?虚構と偽善のR&R。誰も政治や人生一般に対し完璧さなんか期待しやしない。なのに何故、一介のロック・バンドにそれを期待する?僕達は最高の作品を創る為に自分自身に対し決死のプレッシャーをかけた。僕らの1stアルバムを最高の作品にしたかったが為に「これこそが最初で最後のアルバムなんだ」と自分達に言いきかせてもきた。どんなバンドであろうと創造性が枯渇した時にはいさぎよく朽ち果てるべきだと思ってるから。 | ||
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2011年5月6日 (金) 01:38時点における最新版
マニック・ストリート・プリーチャーズ(Manic Street Preachers)はイギリスのロックバンド。愛称はマニックス(Manics)。
目次
概要[編集]
1986年にジェームス・ディーン・ブラッドフィールドを中心に結成。1992年にアルバム『ジェネレーション・テロリスト』でデビュー。
その後2枚のアルバムを発表し、バンドとしての評価が高くなった1995年、突如ギターのリッチー・ジェームスが失踪。その後も彼は見つからず、2008年11月24日、死亡宣告が出された 。
一時は解散も検討されたが、3人体制となって活動を継続。立て続けに傑作アルバムを発表したことにより、90年代イギリスを代表するロックバンドとして認知されるようになる。リッチーは今でもメンバー扱いとなっており、彼の分の印税はリッチーの家族に等分されている。
メンバー[編集]
- ジェームス・ディーン・ブラッドフィールド (James Dean Bradfield、1969年2月21日 - ) - ボーカル、ギター
- ニッキー・ワイアー(Nicky Wire、本名:ニコラス・アレン・ジョーンズ、Nicholas Allen Jones、1969年1月20日 - ) - ベース
- ショーン・ムーア(Sean Anthoney Moore、1968年7月30日 - ) - ドラムス
- リッチー・ジェームス(Richey James、本名:リチャード・ジェームス・エドワーズ、Richard James Edwards、1967年12月22日 - ? ) - ギター
バンドの歴史[編集]
1991年まで[編集]
ベティ・ブルー(37°2 le matinというフランス映画の英語のタイトルから取られた)と名付けられたバンドが1986年にジェームス・ディーン・ブラッドフィールド(リードギター)、フリッカー(ベース)、ショーン・ムーア(ドラムス、ジェームスの従兄弟)、ニッキー・ワイヤー(リズムギター)で結成された。短い間Jenny Watkins-Isnardiがシンガーとして参加していたが、彼がバンドを辞めた後ジェームスがシンガーとなった。
1988年、フリッカーがバンドを辞め3人になり、ニッキーはリズムギターからベース担当になり、最初のシングル「スーサイド・アレイ」を自主制作で録音した。その後間もなくリッチーが正式に加入。 1990年、彼らはパンクレーベル「Damaged Goods Records」と1枚のEPの契約を交わした。4曲入りのEP「ニュー・アート・ライオット」を発表。「Hall Or Nothing」マネージメントの助けで「Heavenly Records」と契約を結び「モータウン・ジャンク」(1991年1月21日)を「Heavenly Records」での最初のシングルとして発表。同時に「30曲入りの2枚組のデビューアルバムを発表、世界中でナンバーワンにして解散する。」といった内容の解散宣言をする。
次のシングル「ユー・ラブ・アス」を発表。今では伝説となった事件が起きる。彼らの大げさな宣伝に軽蔑した態度をとったNME誌のインタビュアー(Steve Lamacq)に対してマニックスが本物であることを証明するために「4 Real」とリッチーがカミソリの刃で自らの腕に切り刻み17針の大怪我を負う。その後まもなくソニーレコードと契約を結び、ファーストアルバムの製作にとりかかった。
1992年から1995年[編集]
1枚組(レコードでは2枚組)のデビューアルバム「ジェネレーション・テロリスト」を発表。バンドは世界中をツアーし、多くの国々で成功し、特に日本では熱狂的なファンに迎えられた。しかし、アメリカでは全く成功しなかった(イギリス・チャート13位)。
解散宣言を撤回[1]、セカンドアルバム「ゴールド・アゲインスト・ソウル」を発表。イギリスのチャートで8位まで上昇した。
1994年8月30日、次のアルバム「ホーリー・バイブル」を発表。彼らの批判精神を取り戻したアルバムであった(イギリス・チャート6位)。[2]またアルバム発表時、イギリスの音楽番組トップ・オブ・ザ・ポップスでジェームスがバラクラバ帽を被り歌った為視聴者が激怒、TV局にセックス・ピストルズのビル・グランディ事件を超える程記録破りの抗議が殺到した。
程なくしてリッチーが精神病を患い精神病院に入院、その後退院し一時はバンド活動に復帰するも、アメリカ・ツアー前夜の1995年2月1日リッチーはジェイムスと泊まっていたロンドンのベイズウォーターにあるエンバシー・ホテルから突然姿を消してしまう。[3]バンドは6ヶ月間活動を休止したが、リッチーの家族の願いもあり活動を再開した。
1996年から現在まで[編集]
リッチーが行方不明になってからの最初のアルバム「エヴリシング・マスト・ゴー」(リッチーによって書かれたかまたはニッキーと共同で書かれた4曲を含む)は好意的なレビューによって迎えられた。「デザイン・フォー・ライフ」は労働者階級のアンセムとなり、日本の深夜に放送されていた音楽番組『BEAT UK』(フジテレビ)でもUKシングルチャートでNo.1を獲得した。アルバムは1996年の「マーキュリー賞」の最終選考リストに載り、「エヴリシング・マスト・ゴー」、「オーストラリア」、「ケビン・カーター」のヒット曲を生んだ。
1998年のアルバム「ディス・イズ・マイ・トゥルース・テル・ミー・ユアーズ」も成功し、バンドのはじめてのナンバー1ヒット「輝ける世代のために」をもたらした。この曲はスペイン内戦について書かれ、ジョージ・オーウェルの「カタロニア賛歌」、ザ・クラッシュの「スペイン戦争」にインスパイアされて書かれた。
2000年には限定版のシングル「ザ・マッシズ・アゲインスト・ザ・クラッシズ」を発表した。これは19世紀の首相ウィリアム・グラッドストンの"All the world over, I will back the masses against the classes"の言葉から名付けられた。プロモーションをほとんどしなかったにも関わらず、イギリスのシングルチャート1位を記録した。
2001年、カール・マルクスシアターでライブを行い、キューバで初めて演奏する西側のロックバンドとなった。カストロに会い、「Louder than War」と言われ、これがこのライブDVDのタイトルにもなった(日本未発売であったが、2007年11月21日に発売)。
2004年、アルバム『ライフブラッド』を発表するも、全英13位に終わる。
2006年、2005年から2年間の活動休止期間中にジェームスがアルバム『ザ・グレート・ウェスタン』ニッキーがアルバム『アイ・キルド・ザ・ザイトガイスト』とそれぞれソロ・アルバムを発表した。
2007年、ソロ・プロジェクトを経てバンド活動を再開し、アルバム『センド・アウェイ・ザ・タイガーズ』を発表した。シングル「ユア・ラブ・アローン・イズ・ノット・イナフ」ではカーディガンズのニーナ・パーションとデュエットしている。
2008年11月24日、英国の裁判所がリッチーの死亡宣告を発した。
2009年、アルバム『ジャーナル・フォー・プレイグ・ラヴァーズ』を発表。全曲リッチーが残していた歌詞を元に制作、プロデューサーにニルヴァーナのイン・ユーテロなどを手がけたスティーブ・アルビニを起用している。イギリスの大手スーパーマーケットチェーンはアルバム・カバーの絵を問題視し、無地のスリップケースに入れた上で販売している。[1]
解散宣言撤回声明[編集]
僕達はこれまで常に自分達が受けた影響を超越できるような作品を創ろうと努力してきた。同時に僕らはプレスと同じくらい偽善的でもある。でも僕らの音楽だけは真実だ。多くの人間は未だにロックについての古臭い理念を持ち続けているけど。有機性なんかクソ食らえ!セックス・ピストルズやジーン・ヴィンセントを聴くのにヘロイン漬けじゃないと解らないなんて法がどこにある?スティーヴィー・ワンダーを理解するのに盲目じゃないとダメだなんて法がどこにある?虚構と偽善のR&R。誰も政治や人生一般に対し完璧さなんか期待しやしない。なのに何故、一介のロック・バンドにそれを期待する?僕達は最高の作品を創る為に自分自身に対し決死のプレッシャーをかけた。僕らの1stアルバムを最高の作品にしたかったが為に「これこそが最初で最後のアルバムなんだ」と自分達に言いきかせてもきた。どんなバンドであろうと創造性が枯渇した時にはいさぎよく朽ち果てるべきだと思ってるから。
僕らのこれまでの発言からじゃなく、今書いてきたような視点から審判を下して欲しい。(この世においての)誠実さなんかとっくの昔に腐敗し、変質してしまってる。僕らは決して両親達が望むような子供にはなれないし、20世紀の苦痛全てが、誰かに強制されたものだと言っても決して過言じゃない。音楽ジャーナリズムは当人の創る音楽よりも、その人間の発言のほうを重要なものにしてしまう。ルールは常に勝者によって口述され、メディアは常に敗北者の名前を除去したがる。君の要求が少なければ少ないほど君自身が黙殺されるんだ。かつて僕ら以外のどのバンドが2ndアルバムを作る事を糾弾された?
誰もバンドの創る音楽や歌詞そのものに対し、興味なんか示さない。バンドをファッション・アクセサリーみたく扱わないでくれ。僕らを皮ズボンや、僕自身の馬鹿げたコンプレックスなんかで判断しないでくれ。科学そのものだって、馬鹿げてる。解りきった事を勿体ぶって証明しなければならず、そのあげく阿呆らしい結論を容認しなきゃならない。誰の意見だってその人間がかつて読んだ文章からの自己編集ヴァージョンさ。政治家達は嘘を売る。そんな事は誰でも知ってる。どんな宣伝だって偽のイメージを売ってるんだ。なのに何故バンドをやってるような男4人に雪のような純粋さを期待する?
こういう点さえ認めてるからこそ「僕らはもっとも正直なバンドだ」と言ってきた。ライヴ・エイドの偽善性を見たかい?ポップ・スター達がさもアフリカの難民を心配してるふりをしながら、その裏では高級ブティックやナイト・クラブへ通い、10代の女の子の裸体からコカインを吸ってたのを。R&Rは決して満たされない愛の賠償みたいなもの。誰も愛せる人間なんか居ないから、その愛を自分自身に向けるんだ。
"個性"という言葉の幻想-個人の思想を表現する権利はその本人が独自の思想を持ち得た場合のみ意味を成す。キリスト教の教義は"死"そのものを非現実的なものに変えてしまった。人はそれが全く無意味である事が解ってても人生計画を立て、毎日を生き長らえていこうとする。これがヘタに知性を得た事の報酬さ。どの学校でも要求されるのは従順さと円満さだけ。
刑罰と買収。何故、男どもは女性への憎悪を認めないんだろう?性愛は嘘を言う。が、ポルノグラフィーは真実を映し出す。誰もが民主主義の報いには密かな不満を抱いてる筈なのに-ファシズムは政治的な問題じゃない。人間の脳に巣食う精神的な問題だ。誰の心にも潜む自由への抑圧意識みたいなもの。誰かに命令されたがる人間の服従願望みたいなもの。
皆がそれを望んでるからといって僕らは解散するべきなんだろうか?それともあくまでも自分達の意志に従うべきなんだろうか?理想主義や栄誉。全ての純粋な思想が自分への小さな嘘から始まっていく。太宰の恋愛関係は常に正直だったか?全てに満ち足りた人間が他人を愛したりできるだろうか?ロック評論家達は思慮の足りない若者達を虚構のポップ・コンベアー・ベルトで骨抜きにする。頭が悪くて内気な奴ほどそういうシステムに馴れやすいんだ。
僕は支配者的な人間を憎悪する。ジッドは言った。ジーンズのコマーシャルを見れば自分の性欲も満足するし、君のポケットから10ポンド札がはみ出してたらそれは「盗んでくれ」と言ってるようなものさ、と。それがどう考えても罪である事にさえ気付かないまま……。人間性は常に君を落胆させる。愛は残骸を残し、憎悪は不変性を残す。そして僕は今もそのほこりにまみれたままでいる。
8 April 1993 CENSOR WHITE FUNK BANDS, Richey[4]
その他[編集]
- バンド名の由来は、メンバー全員がザ・クラッシュのファンであり、多大な影響を受けていたことから、クラッシュの曲「クラッシュ・シティ・ロッカーズ」をもじったものである(マニックス結成以前に路上で歌っていたジェームスが通りすがりの老人に言われた言葉から付けたという説もある)。
- リッチー失踪後ジェームスがセラピー?にセカンドギターとして加入するという話(何度かセッションも行われた)もあったが実現はしなかった。
- リッチーは日本で「根性焼き」という言葉を覚えて左腕に実践していた。
- リッチーの好きな作家はカフカ、カミュ、ヘンリー・ミラー、ウィリアム・バロウズ、アラン・シリトー、太宰治等で愛読書は長距離走者の孤独、人間失格等。
- 失踪前のリッチーに最後に接触したのは、日本の音楽雑誌『ミュージック・ライフ』(当時シンコー・ミュージック・エンタテイメント発行)の記者である。
- ニッキーの兄は詩人のパトリック・ジョーンズ。
- ジェームスとショーンは従兄弟同士である。
- ショーンはゲームが好きで、来日時に10本ものソフトを買って帰ったことがある。
- 現在のメンバー3人は皆既婚者。
- ジェームス、ニッキーがそれぞれソロ活動中に、ショーンは剣道を習っていた。
ディスコグラフィー[編集]
- 日付は英国での発売日を示す。「英」とはイギリスの「UK Albums Chart」の、「日」は「オリコン・アルバムチャート」におけるチャートの最高位を示す。「ゴールド等認定」については、イギリスの「BPI」における記録である。
スタジオ・アルバム[編集]
年 | アルバム | 英 | 日 | ゴールド等認定 | |
---|---|---|---|---|---|
1 | 1992 | ジェネレーション・テロリスト Generation Terrorists
|
13 | 20 |
|
2 | 1993 | ゴールド・アゲインスト・ザ・ソウル Gold Against the Soul
|
8 | 32 |
|
3 | 1994 | ホーリー・バイブル The Holy Bible
|
6 | 50 | |
4 | 1996 | エヴリシング・マスト・ゴー Everything Must Go
|
2 | 48 |
|
5 | 1998 | ディス・イズ・マイ・トゥルース・テル・ミー・ユアーズ This Is My Truth Tell Me Yours
|
1 | 27 |
|
6 | 2001 | ノウ・ユア・エネミー Know Your Enemy
|
2 | 26 | |
7 | 2004 | ライフブラッド Lifeblood
|
13 | 49 | |
8 | 2007 | センド・アウェイ・ザ・タイガーズ Send Away The Tigers
|
2 | 39 |
|
コンピレーション・アルバム[編集]
年 | アルバム | 英 | 日 | ゴールド等認定・補足 | |
---|---|---|---|---|---|
1 | 2002 | フォーエヴァー・ディレイド Forever Delayed
|
4 | 68 |
|
2 | 2003 | リップスティック・トレイス Lipstick Traces (A Secret History of Manic Street Preachers)
|
11 | 243 |
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来日公演[編集]
- 1992年 Generation Terrorists Tour (川崎クラブチッタなど)
- 1993年 Gold against the soul Tour (渋谷On-Air Eastなど)
- 1999年 This is my truth tell me yours Tour(渋谷On-Air Eastなど)
- 2001年 フジ・ロック・フェスティバル(第1日目)
- 2003年 Greatest Hits Tour(東京ベイNKホールなど)
- 2005年 Life Blood Tour(渋谷AXなど)
- 2007年 サマーソニック07(初日大阪、二日目東京)
関連項目[編集]
脚注[編集]
外部リンク[編集]
- 公式サイト(英語)
- ジェームス・ディーン・ブラッドフィールド公式サイト(英語)