「還俗」の版間の差分
提供: Yourpedia
(新規 僧侶が、俗人に戻ること) |
細 (追記) |
||
1行目: | 1行目: | ||
− | '''還俗'''(げんぞく,Repatriation)出家した[[僧侶]] | + | '''還俗'''(げんぞく,Repatriation)出家した[[僧侶]]が、[[俗人]]に戻ることをいう。 |
==概要== | ==概要== | ||
− | [[692年]](持統6年)、[[山田史御形]] | + | [[692年]](持統6年)、[[山田史御形]]は務広肆(のちの従七位下相当)を授けられたが、もとは新羅で学んだ沙門であった(『[[日本書紀]]』)。還俗の古い事例である。[[高句麗沙門福嘉]]は[[693年]](持統7年)に還俗させられた(『日本書紀』)<ref>新川登亀男(2015)「日本仏教以前の仏教」早稲田大学総合人文科学研究センタ研究誌(3), pp.307-312</ref>。 |
− | + | 僧[[通徳]]は[[700年]](文武4年)に還俗させられた。陽侯史久尓曾という姓名を与えられ、務広肆を授与された。養老5年正月甲戌条などによれば、「芸」を採用するための還俗であったとされる<ref>『[[続日本紀]]』養老 5 年正月甲戌条</ref>。 | |
==注・参考文献== | ==注・参考文献== |
2021年11月27日 (土) 09:28時点における版
還俗(げんぞく,Repatriation)出家した僧侶が、俗人に戻ることをいう。
概要
692年(持統6年)、山田史御形は務広肆(のちの従七位下相当)を授けられたが、もとは新羅で学んだ沙門であった(『日本書紀』)。還俗の古い事例である。高句麗沙門福嘉は693年(持統7年)に還俗させられた(『日本書紀』)[1]。
僧通徳は700年(文武4年)に還俗させられた。陽侯史久尓曾という姓名を与えられ、務広肆を授与された。養老5年正月甲戌条などによれば、「芸」を採用するための還俗であったとされる[2]。