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'''野呂 景義'''(のろ かげよし、[[1854年]]-[[1923年]][[9月8日]])は、[[明治]]期日本の技術者。[[東京大学]]理学部で採鉱冶金学を専攻し、卒業後も冶金学の研究を継続。東京大学で教鞭を取りながら[[農商務省]]の技師となり、近代的な鉄冶金技術の開発・普及に貢献した。[[東京市水道鉄管事件]]に関与して帝国大学教授・農商務省技師を解任されたが、その後も技術者として活動し、[[日本鉄鋼協会]]の初代会長となった。
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'''野呂 景義'''(のろ かげよし、[[1854年]]-[[1923年]][[9月8日]])は、[[明治]]期日本の技術者。[[東京大学]]理学部で採鉱冶金学を専攻し、卒業後も冶金学の研究を継続。東京大学で教鞭を取りながら[[農商務省]]の技師となり、近代的な鉄冶金技術の開発・普及に貢献した。[[東京市水道鉄管事件]]に関与して帝国大学教授・農商務省技師を解任されたが、その後も技術者として活動し、[[日本鉄鋼協会]]の初代会長となった。{{先編集者|由亜辺出夫}}
  
 
== 経歴 ==
 
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安政元年(1854年)9月、名古屋藩士・[[野呂伊三郎]]の次男として[[名古屋]]に生まれる{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}。
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安政元年(1854年)9月、名古屋藩士・野呂伊三郎の次男として[[名古屋]]に生まれる{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}。
  
 
1882年(明治15年)、[[東京大学]]理学部採鉱冶金学科を卒業{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}。
 
1882年(明治15年)、[[東京大学]]理学部採鉱冶金学科を卒業{{Sfn|長沼|2015|p=84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。}}。
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=== 参考文献 ===
 
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*{{Aya|香山|year=2015}} [[香山里絵]]「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41
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*{{Aya|香山|year=2015}} 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41
 
*{{Aya|長沼|year=2015}} 長沼秀明「[http://www.tokugawa.or.jp/institute/pdf_file/kiyou49-naganuma.pdf 徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味]」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93
 
*{{Aya|長沼|year=2015}} 長沼秀明「[http://www.tokugawa.or.jp/institute/pdf_file/kiyou49-naganuma.pdf 徳川義礼の英国留学 - ユニテリアン告白の意味]」徳川黎明会『金鯱叢書』第42輯、2015年、pp.83-93
  

2018年6月26日 (火) 23:23時点における版

野呂 景義(のろ かげよし、1854年-1923年9月8日)は、明治期日本の技術者。東京大学理学部で採鉱冶金学を専攻し、卒業後も冶金学の研究を継続。東京大学で教鞭を取りながら農商務省の技師となり、近代的な鉄冶金技術の開発・普及に貢献した。東京市水道鉄管事件に関与して帝国大学教授・農商務省技師を解任されたが、その後も技術者として活動し、日本鉄鋼協会の初代会長となった。先編集者由亜辺出夫


経歴

安政元年(1854年)9月、名古屋藩士・野呂伊三郎の次男として名古屋に生まれる[1]

1882年(明治15年)、東京大学理学部採鉱冶金学科を卒業[1]

卒業後も大学でクルト・ネットーEnglish版の下で冶金学を研究[1]

1884年頃、徳川義礼吉田知行堀鉞之丞らと英国へ留学[2]。1885年-1886年にかけて、ロンドンユニバーシティ・カレッジEnglish版に在学した。その後、ドイツのフライブルク鉱山大学English版にも在学。[3]

帰国後、東京大学准教授を経て、帝国大学工科大学の教授兼農商務省技師となる[4]

1890年(明治23年)、古河深川骸炭製造所コークス配合技術を開発[1]

1891年(明治24年)、『鉄業調』を起草し、製鉄所建設論を主張。官営製鉄所の建設計画に参加する[1]

1892年(明治25年)、釜石鉱山田中製鉄所の顧問となる。25トン高炉のコークス操業を成功に導き、日本の製鉄技術の基礎を築いた。[1]

(いつ?)東京市水道鉄管事件に関与し、帝国大学教授・農商務省技師を解任され、製鉄所建設からも離れる。[1]

その後も技術者として活動。日本鉄鋼協会の発足時には、初代会長となった。[1]

1923年(大正12年)9月8日没、享年70[1]

著書

  • 野呂景義「鉄業調」『秘書類纂 第14巻』秘書類纂刊行会、1933年-1936年、198頁、NDLJP 1877097/294 (閉)

付録

関連文献

  • 飯田賢一『近代日本の技術と思想』東洋経済新報社、1974年、JPNO 69005774
  • 井上 (2006) 井上琢智『黎明期日本の経済思想 - イギリス留学生・お雇い外国人・経済学の制度化』〈関西学院大学経済学部研究叢書 第32編〉日本評論社、2006年、ISBN 978-4535555082

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 長沼 2015 84 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)による。
  2. 長沼 2015 84-85
  3. 長沼 2015 87 - 井上 (2006 46)による。
  4. 長沼 2015 84,87 - 『国史大辞典 第11巻』(吉川弘文館、1990年)および井上 (2006 46)による。

参考文献