「片桐助作 (1851年生)」の版間の差分
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開墾地事務所は1888年(明治21年)に廃止となり、その後残務整理も終了したため{{Sfn|香山|2014|pp=24-25}}、 | 開墾地事務所は1888年(明治21年)に廃止となり、その後残務整理も終了したため{{Sfn|香山|2014|pp=24-25}}、 | ||
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*{{Aya|香山|year=2015}} 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41 | *{{Aya|香山|year=2015}} 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/f288e26192a7749fd5b95f8951f47540c8adbd4d.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月]、pp.27-41 | ||
*{{Aya|香山|year=2014}} 香山里絵「徳川義親の美術館設立想起」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/41.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.41、2014年3月]、pp.1-29 | *{{Aya|香山|year=2014}} 香山里絵「徳川義親の美術館設立想起」[http://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/41.pdf 徳川美術館『金鯱叢書』v.41、2014年3月]、pp.1-29 | ||
+ | *{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563 | ||
*{{Aya|徳川|year=1973}} 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、{{JPNO|73011083}} | *{{Aya|徳川|year=1973}} 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、{{JPNO|73011083}} | ||
*{{Aya|徳川|year=1963}} 徳川義親(述)「私の履歴書‐徳川義親」日本経済新聞社『私の履歴書 文化人 16』1984年、pp.85-151、ISBN 4532030862 初出は1963年12月。 | *{{Aya|徳川|year=1963}} 徳川義親(述)「私の履歴書‐徳川義親」日本経済新聞社『私の履歴書 文化人 16』1984年、pp.85-151、ISBN 4532030862 初出は1963年12月。 |
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片桐 助作(かたぎり すけさく、1851年6月26日-1918年2月11日)は、尾張藩士、尾張徳川家の家職。同家第14代当主・徳川慶勝に見出されて、同家の北海道開拓地を選定、1884年から現地・八雲村に赴任して開拓の指導にあたったことで知られる。1891年に名古屋に戻り、以後も同家事務所の中心人物として、世襲財産・所有地の管理や名古屋大曽根の徳川義礼邸の建設を行い、退職後は同家の御相談人として、什宝の整理に携わった。
経歴
嘉永4年5月27日(1851年6月26日)生まれ[1]。尾張藩士で、儒学者・細野要斎に師事した[2]。片桐且元の子孫にあたる[3]。
1877年(明治10年)7月、尾張徳川家第14・17代当主・徳川慶勝から北海道開拓地の選定を命じられ、吉田知行・角田弘業とともに現地を調査[2]。入植先となったユーラップ(遊楽部)の地理について、調査報告書を著した[4]。
1884年(明治17年)9月、前任の海部昂蔵が、尾張徳川家第18代当主・徳川義礼の英国旅行に随行することになったため、同家の家扶心得(見習?)として、開墾地の北海道八雲村に移住し、開墾試験場の3代目委員となった[2][5]。
1885年(明治18年)3月に片桐は開墾場の制度改革を行い、移住者のうち成功の見込みがないと判断した8戸を退場・帰県させ、残った在住者に対しては、その年の穀物の播種に補助金を支給したのを最後に、以後直接的な保護を一切行わないことにして移住者の自立を促した[6]。
- 徳川 (1973 112)は、片桐は小柄で虚弱体質のため、指示をしても自分では農作業をあまりしなかったため、一部で不平も出たが、慧眼があって開拓民を自立に導いた、としている。
開墾地事務所は1888年(明治21年)に廃止となり、その後残務整理も終了したため[2]、
1891年(明治24年)、名古屋に戻り、尾張徳川家の世襲財産・所有地の調査役を命じられる[2]。
1893年(明治26年)、家扶心得[2]。1894年(明治27年)、家扶、庶務課長[2]。
1895年(明治28年)、会計課長[2]。会計・庶務・営繕を兼務し、尾張徳川家事務所の中心人物となった[2]。第18代当主・徳川義礼が本邸とした名古屋大曽根の新邸建設を担当[2]。
1899年(明治32年)7月11日、依願退職[2]。
什宝の整理
1910年(明治43年)11月から1915(大正4)年7月まで、名古屋の大曽根邸で、尾張徳川家の什宝のうち不要なものを処分する目的で、未鑑定品を中心とした什宝の整理と目録の作成を行った[7]。
- 徳川 (1963 102)および徳川 (1973 112)は、1910年に片桐が整理中に尾張家に2巻あると伝えられていた『源氏物語絵巻』に、別の1巻があることを発見した、としているが、源氏物語絵巻が3巻あることは片桐の整理より前から知られていた[8]。
1915年、什宝整理の終了後に、御相談人を解職となり[9]、3年後の1918年(大正7年)2月11日に死去[9][2]。
片桐の死後、1921年に尾張徳川家は片桐の什宝整理の結果を基にして重複品や不要と判断した什宝(全体の10-15%)を競売で売却し、その売上金約57万円は1935年に大曽根に開設された徳川美術館の建設・維持費用に充てられた[10]。
著書
- 片桐助作(誌)『丁丑北行日誌<資料紹介>』名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.25 no.2/3、1971年3月、pp.54-91、NDLJP 6045130/29
- 片桐助作『丁丑北行日誌 附「北地記事」』名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.26 no.2、1972年1月、pp.24-38、NDLJP 6045133/15
付録
関連文献
- 片桐寿・安藤慶六「片桐助作とその時代 - 頴川雑記」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.49 no.1、1994年8月、pp.43-60、NDLJP 6045201/23
- 八雲町 (1984) 八雲町史編さん委員会(編)『改訂 八雲町史 上』八雲町、1984、NDLJP 9571213
- 徳川林政史研究所(編)『尾張徳川家の幕末維新 - 徳川林政史研究所所蔵写真』吉川弘文館、2014年、ISBN 978-4642038270 - 写真あり
脚注
参考文献
- 香山 (2015) 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月、pp.27-41
- 香山 (2014) 香山里絵「徳川義親の美術館設立想起」徳川美術館『金鯱叢書』v.41、2014年3月、pp.1-29
- 大石 (1994) 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
- 徳川 (1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、JPNO 73011083
- 徳川 (1963) 徳川義親(述)「私の履歴書‐徳川義親」日本経済新聞社『私の履歴書 文化人 16』1984年、pp.85-151、ISBN 4532030862 初出は1963年12月。