「柏戸宗五郎 (2代)」の版間の差分
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'''柏戸宗五郎'''(かしわど そうごろう、[[寛政]]5年(1793年)‐[[天保]]13年11月17日(1842年))は、江戸時代後期の大相撲力士。本姓は木村で、名は長八と推定されるが不詳。[[下野国]]寒川郡([[栃木県]][[小山市]])出身。初代[[柏戸宗五郎(初代)|柏戸宗五郎]]及び[[柏戸利助]]の弟子で、彼らの年寄名跡の変遷により所属部屋も[[伊勢ノ海部屋]]・[[柏戸部屋]]と変わった。2代目'''柏戸宗五郎'''であると同時に、5代目'''[[柏戸]]'''でもある。 | '''柏戸宗五郎'''(かしわど そうごろう、[[寛政]]5年(1793年)‐[[天保]]13年11月17日(1842年))は、江戸時代後期の大相撲力士。本姓は木村で、名は長八と推定されるが不詳。[[下野国]]寒川郡([[栃木県]][[小山市]])出身。初代[[柏戸宗五郎(初代)|柏戸宗五郎]]及び[[柏戸利助]]の弟子で、彼らの年寄名跡の変遷により所属部屋も[[伊勢ノ海部屋]]・[[柏戸部屋]]と変わった。2代目'''柏戸宗五郎'''であると同時に、5代目'''[[柏戸]]'''でもある。 | ||
− | 下野国寒川郡鏡(栃木県小山市鏡)に生まれる。初土俵は文化7年(1810年)10月場所で、初め故郷の地名にちなんで | + | 下野国寒川郡鏡(栃木県小山市鏡)に生まれる。初土俵は文化7年(1810年)10月場所で、初め故郷の地名にちなんで'''鏡島'''('''鏡嶋'''とも)'''長八'''と名乗った。文化8年(1811年)11月、兄弟子の頂利助(のちの柏戸利助)の前名を譲り受けて'''外ヶ濱浪五郎'''と改名。[[文政]]8年(1825年)10月入幕。同13年3月に'''柏戸宗五郎'''を襲名。天保6年(1835年)1月まで幕内で相撲を取った。土俵生活24年間のうち、幕内には10年間・19場所在籍した。文政11年(1828年)3月に[[横綱]]免許を取得したばかりの[[阿武松緑之助]]を破り、更に文政13年(1830年)にも横綱[[稲妻雷五郎]]を破っている。当時の名力士である阿武松と稲妻を破ったことで、柏戸は大物食いの評判を取った。 |
引退後は年寄伊勢ノ海(6代目)を襲名。天保11年(1840年)2月場所には勧進元をつとめている。天保13年11月17日、50歳で没した。 | 引退後は年寄伊勢ノ海(6代目)を襲名。天保11年(1840年)2月場所には勧進元をつとめている。天保13年11月17日、50歳で没した。 |
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柏戸宗五郎(かしわど そうごろう、寛政5年(1793年)‐天保13年11月17日(1842年))は、江戸時代後期の大相撲力士。本姓は木村で、名は長八と推定されるが不詳。下野国寒川郡(栃木県小山市)出身。初代柏戸宗五郎及び柏戸利助の弟子で、彼らの年寄名跡の変遷により所属部屋も伊勢ノ海部屋・柏戸部屋と変わった。2代目柏戸宗五郎であると同時に、5代目柏戸でもある。
下野国寒川郡鏡(栃木県小山市鏡)に生まれる。初土俵は文化7年(1810年)10月場所で、初め故郷の地名にちなんで鏡島(鏡嶋とも)長八と名乗った。文化8年(1811年)11月、兄弟子の頂利助(のちの柏戸利助)の前名を譲り受けて外ヶ濱浪五郎と改名。文政8年(1825年)10月入幕。同13年3月に柏戸宗五郎を襲名。天保6年(1835年)1月まで幕内で相撲を取った。土俵生活24年間のうち、幕内には10年間・19場所在籍した。文政11年(1828年)3月に横綱免許を取得したばかりの阿武松緑之助を破り、更に文政13年(1830年)にも横綱稲妻雷五郎を破っている。当時の名力士である阿武松と稲妻を破ったことで、柏戸は大物食いの評判を取った。
引退後は年寄伊勢ノ海(6代目)を襲名。天保11年(1840年)2月場所には勧進元をつとめている。天保13年11月17日、50歳で没した。
主な成績[編集]
- 初土俵:文化7年10月場所新序
- 入幕:文政8年10月場所
- 最終場所:天保6年1月場所
- 幕内成績:48勝55敗6分4預1無62休(19場所)
- 勝率:0.466
参考文献[編集]
- 「相撲」編集部編『大相撲人物大事典』ベースボールマガジン社、2001年。
- 日本相撲協会監修『相撲大事典』現代書館、2011年。