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'''髙山 清司'''(たかやま きよし、[[1947年]][[9月5日]] - )は、[[ヤクザ]]、[[指定暴力団]]・六代目[[山口組]][[若頭]]兼[[中部地方|中部]]ブロック長、二代目[[弘道会]]会長、二代目[[高山組|髙山組]]総裁(初代組長)、旧[[弘田組]]若頭補佐、元[[菱心会]]理事長。
 
'''髙山 清司'''(たかやま きよし、[[1947年]][[9月5日]] - )は、[[ヤクザ]]、[[指定暴力団]]・六代目[[山口組]][[若頭]]兼[[中部地方|中部]]ブロック長、二代目[[弘道会]]会長、二代目[[高山組|髙山組]]総裁(初代組長)、旧[[弘田組]]若頭補佐、元[[菱心会]]理事長。
  
[[愛知県]][[津島市]]出身。[[高等学校|高校]]中退後、[[賭場]]に出入りするようになり、[[1967年]]に三代目山口組 弘田組 [[佐々木組 (弘道会)|佐々木組]]([[名古屋市|名古屋]]、組長・[[佐々木康裕]]<small>(後の五代目山口組若中)</small>)に加入。[[1969年]]5月に弘田組傘下の組事務所が[[大日本平和会]] [[山中会|山中組]][[小牧市|小牧]]支部の集団に襲われ2人が死亡する事件が起きると、同年7月、弘田組若頭・[[司忍|司 忍]]([[司興業]]組長<small>。後の六代目山口組組長</small>)の指揮で行われた大日本平和会[[春日井市|春日井]]支部長殺害の報復戦に加わり、[[懲役]]4年の刑を受けた。この功績により出獄後、佐々木組若頭に就任。[[1974年]]に佐々木組が「菱心会」に改称されると引き続き同会理事長を務め、自らの組織「&#x9ad9;山組」を結成した。[[1976年]]に弘田組直参となり、[[1980年]]には同組若頭補佐に就任した。
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[[六代目山口組]]第二の有力者と目される人物で、[[警察庁]]の報告書は、4,000名の人員を擁する弘道会という強力な組織をわずか26年という短期間のうちに作り上げた張本人(中心人物)と名指しする。六代目山口組組長・[[司忍]]が服役していた時期には、山口組の『事実上の最高指導者』とされていた。
  
弘田組の後継として[[1984年]]に結成された弘道会(会長・司 忍)では若頭補佐兼渉外委員長を務め、[[1989年]]に若頭に昇格し、五代目山口組若頭補佐を務める会長・司を支えて会の運営に尽力。弘道会を数千人規模の巨大組織に発展させた。
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刀傷によるものと伝えられる閉じた片目を外観上の際立った特徴としている。
  
[[1991年]]、地元の[[博徒]]組織・八代目[[稲葉地一家]]の本部長・[[中村英昭]](後の九代目稲葉地一家総裁)と兄弟盃を交わし、永く続いた対立関係に終止符を打った。
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== 来歴 ==
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[[愛知県]][[津島市]]に出生。10代で暴力団の世界に加入し、[[弘道会]]の前身にあたる弘田組の傘下組織に加入した1975年に[[司忍]]と出会い、それからというもの常に司とともにあった。やがて2005年における司を首領に据えた[[六代目山口組|山口組六代目体制]]の発足と同時に、[[宅見勝]]の[[宅見若頭射殺事件|暗殺]]以来空席となっていた[[山口組若頭]]の役に就任。
  
[[2005年]]1月、&#x9ad9;山組を若頭・[[竹内照明]]に継がせて二代目&#x9ad9;山組総裁に就任。同年3月、弘道会2代目を継承して翌4月に山口組直参に昇格。2ヶ月後の6月には山口組若頭補佐に就任し、7月に山口組中部ブロック長を兼任。同年8月には司率いる六代目山口組の若頭に就任し、直参昇格からわずか4ヶ月で山口組ナンバー2にまで上り詰める異例な昇進を果たした。
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==私生活==
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[[六代目山口組]]の発足に伴い若頭の役に就いて以降は、[[神戸市]]内の私邸に居住し、平日は午前から夕方頃まで山口組の総本部へ詰め、週末だけ名古屋に帰省するという生活様式となっている。[[新神戸駅]]近くの高台に位置するその私邸は、入り口に防弾仕様と見られるステンレス製の門と監視カメラを四方配置、さらに最高幹部の護衛役を担う組員らの詰め所と見られる4階建てのビルが隣接し、その内部では接近者の監視を行う10数台のモニターが稼動しているという状況で、2008年に立ち入った捜査員いわく“[[砦]]のようであった”という。
  
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== 逮捕(2010年) ==
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いずれにしても件の逮捕は警察当局による“山口組壊滅作戦”の一環にあたるものとされた出来事で、それからわずか2週間後には六代目山口組第三の有力者と目される[[宅見組]]組長の[[入江禎]]が逮捕されるに至っている。
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===逮捕後の経過===
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逮捕後は京都拘置所に収容されていたものの、病気を理由に2012年の1月20日から同年2月20日まで拘留停止へ。6月には[[京都地裁]]の決定に基づき[[保釈]]となった。[[保釈保証金]]は15億円。異例の高額であった。
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== 山口組ナンバー2に懲役6年実刑判決(2013年3月) ==
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[[みかじめ料]]名目で建設業の男性(67)から現金4千万円を脅し取ったとして、恐喝罪に問われた指定暴力団山口組ナンバー2で弘道会会長、高山清司(65)の判決公判が22日、京都地裁で開かれ、小倉哲浩裁判長は懲役6年(求刑懲役10年)を言い渡した。
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公判では被害男性による供述の信用性や配下組員らとの共謀の有無などが主な争点だった。
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高山は一貫して無罪を主張。弁護側も男性証言の信用性に疑義を示した上で、「捜査機関が捏造した事実無根のストーリーにすぎない」と訴えていた。
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一方、検察側は「配下の者が了解を得ずに恐喝行為に及ぶことはありえない」と強調。「勢力拡大をもくろみ、組織的威力を背景に収入源を得ようとした」として、法定刑上限の懲役10年を求刑していた。
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高山は平成17~18年、山口組系[[淡海一家]]([[大津市]])総長の高山義友希(よしゆき)(56)=恐喝罪などで分離公判中=らと共謀し、京都市内のホテルなどで建設業の男性から計3回にわたり、4千万円を脅し取った。
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2013年3月22日 (金) 21:00時点における最新版

髙山 清司(たかやま きよし、1947年9月5日 - )は、ヤクザ指定暴力団・六代目山口組若頭中部ブロック長、二代目弘道会会長、二代目髙山組総裁(初代組長)、旧弘田組若頭補佐、元菱心会理事長。

六代目山口組第二の有力者と目される人物で、警察庁の報告書は、4,000名の人員を擁する弘道会という強力な組織をわずか26年という短期間のうちに作り上げた張本人(中心人物)と名指しする。六代目山口組組長・司忍が服役していた時期には、山口組の『事実上の最高指導者』とされていた。

刀傷によるものと伝えられる閉じた片目を外観上の際立った特徴としている。

来歴[編集]

愛知県津島市に出生。10代で暴力団の世界に加入し、弘道会の前身にあたる弘田組の傘下組織に加入した1975年に司忍と出会い、それからというもの常に司とともにあった。やがて2005年における司を首領に据えた山口組六代目体制の発足と同時に、宅見勝暗殺以来空席となっていた山口組若頭の役に就任。

私生活[編集]

六代目山口組の発足に伴い若頭の役に就いて以降は、神戸市内の私邸に居住し、平日は午前から夕方頃まで山口組の総本部へ詰め、週末だけ名古屋に帰省するという生活様式となっている。新神戸駅近くの高台に位置するその私邸は、入り口に防弾仕様と見られるステンレス製の門と監視カメラを四方配置、さらに最高幹部の護衛役を担う組員らの詰め所と見られる4階建てのビルが隣接し、その内部では接近者の監視を行う10数台のモニターが稼動しているという状況で、2008年に立ち入った捜査員いわく“のようであった”という。

逮捕(2010年)[編集]

2010年11月18日 ― 建設業に従事する京都の男性に対して恐喝行為を行ったとする容疑をもって逮捕された。司忍が服役していた最中の逮捕、山口組の『事実上の指導者』の歴史的逮捕であった。そしてその背景についての様々な疑義を呼び起こすに至った逮捕でもあった。その過程にあっては、件の被害者とされた人物の『どうもただの一般人ではない』ことを思わせる素性などが議論の的とされた。

上田藤兵衛の説明によると、上田と渡辺芳則は30年来の旧友であったが、2005年に渡辺が引退したため、これを奇貨とした高山清司が高山義友希と共謀して上田を子分に取り込み、それによって京都の土建関連の同和利権を掌握しようと目論んだのであろうという。

いずれにしても件の逮捕は警察当局による“山口組壊滅作戦”の一環にあたるものとされた出来事で、それからわずか2週間後には六代目山口組第三の有力者と目される宅見組組長の入江禎が逮捕されるに至っている。

逮捕後の経過[編集]

逮捕後は京都拘置所に収容されていたものの、病気を理由に2012年の1月20日から同年2月20日まで拘留停止へ。6月には京都地裁の決定に基づき保釈となった。保釈保証金は15億円。異例の高額であった。

山口組ナンバー2に懲役6年実刑判決(2013年3月)[編集]

みかじめ料名目で建設業の男性(67)から現金4千万円を脅し取ったとして、恐喝罪に問われた指定暴力団山口組ナンバー2で弘道会会長、高山清司(65)の判決公判が22日、京都地裁で開かれ、小倉哲浩裁判長は懲役6年(求刑懲役10年)を言い渡した。

公判では被害男性による供述の信用性や配下組員らとの共謀の有無などが主な争点だった。

高山は一貫して無罪を主張。弁護側も男性証言の信用性に疑義を示した上で、「捜査機関が捏造した事実無根のストーリーにすぎない」と訴えていた。

一方、検察側は「配下の者が了解を得ずに恐喝行為に及ぶことはありえない」と強調。「勢力拡大をもくろみ、組織的威力を背景に収入源を得ようとした」として、法定刑上限の懲役10年を求刑していた。

高山は平成17~18年、山口組系淡海一家(大津市)総長の高山義友希(よしゆき)(56)=恐喝罪などで分離公判中=らと共謀し、京都市内のホテルなどで建設業の男性から計3回にわたり、4千万円を脅し取った。

先代:
司忍
弘道会会長
二代目: 2005-
次代:

テンプレート:六代目山口組