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2020年1月17日 (金) 22:07時点における最新版
天動説(てんどうせつ)は、すべての天体が地球の周りを公転しているという学説のこと。大別して、エウドクソスが考案してアリストテレスの哲学体系にとりこまれた同心天球仮説と、プトレマイオスの天動説の2種がある。単に天動説と言う場合、後発で最終的に体系を完成させたプトレマイオスの天動説のことを指すことが多い。
目次
概要[編集]
2世紀にクラウディオス・プトレマイオスによって体系化された。地動説に対義する学説である。地球が宇宙の中心にあるという地球中心説ともいうが、地球が動いているかどうかと、地球が宇宙の中心にあるかどうかは厳密には異なる概念であり、天動説は「Geocentric model (theory)(=地球を中心とした構造模型)」の訳語として不適切だとの指摘もある。なお中国語では「地心説」という。後述する、半球型の世界の中心に人間が住んでいるという世界観と天動説は厳密に区別される。(しかし、日本語では、「天動説」という語が当てられたため、天上の天体が運動しているという世界観のすべてが天動説であると誤解されることが多い)13世紀から17世紀頃までは、カトリック教会公認の世界観だった。
古代、多くの学者が宇宙の構造について考えを述べた。古代ギリシャでは、アリストテレスやエウドクソスは、宇宙の中心にある地球の周りを全天体が公転しているという説を唱えていたが、エクパントスは、地球が宇宙の中心で自転しているという説を唱え、ピロラオスは地球も太陽も宇宙の中心ではないが自転公転しているという説を唱え、アリスタルコスは、宇宙の中心にある太陽の周りを地球が公転しているという説を唱えていた。(古代ギリシア以外の宇宙観については後述)
それらの学説からより確からしいものを集め、体系化したのがプトレマイオスである。ヒッパルコスの説に改良を加えたものだと考えられているが、確証はない。地球が宇宙の中心にあるという説を唱えた学者はこれ以前にもいるし、惑星の位置計算を比較的に正確に行った者もそれ以前にいたが、最終的にすべてを体系化したプトレマイオスの名をとり、今なおこの形の天動説は、プトレマイオスの天動説とも呼ばれる。
天動説では、宇宙の中心には地球があり、太陽を含めすべての天体は約1日かけて地球の周りを公転する。だが、太陽や惑星の速さは異なっており、これによって時期により見える惑星が異なると考えた。天球という硬い球があり、これが地球や太陽、惑星を含むすべての天体を包み込んでいる。恒星は天球に張り付いているか、天球にあいた細かい穴であり、天球の外の明かりが漏れて見えるものと考えた。惑星や恒星は、神が見えない力で押して動いている。あらゆる変化は地球と月の間だけで起き、これより遠方の天体は、定期的な運動を繰り返すだけで、永遠に変化は訪れないとした。
天動説は単なる天文学上の計算方法ではない。それには当時の哲学や思想が盛り込まれている。神が地球を宇宙の中心に据えたのは、それが人間の住む特別の天体だからである。地球は宇宙の中心であるとともに、すべての天体の主人でもある。すべての天体は地球の僕であり、主人に従う形で運動する。中世ヨーロッパにおいては、当時アリストテレス哲学をその体系の枠組みとして受け入れていた中世キリスト教神学に合致するものとして、天動説が公式な宇宙観とみなされていた。14世紀に発表されたダンテの叙事詩『神曲』天国篇においても、地球のまわりを月・太陽・木星などの各遊星天が同心円状に取り巻き、さらにその上に恒星天、原動天および至高天が構想されていた。
天動説の歴史[編集]
エウドクソスの同心天球[編集]
紀元前4世紀、古代ギリシアのエウドクソスは、地球を中心に重層する天球が包む宇宙を考えたとされる。いちばん外側の天球には恒星がちりばめられており(恒星球)、天の北極を軸に、およそ1日で東から西へ回転する(日周運動)。太陽を抱える天球は恒星球に対して逆方向に西から東へ、およそ1年で回転する(年周運動)。太陽の回転軸は恒星球の回転軸とは傾いているために、1年の間でその南中高度が変わり、季節が説明される。恒星球と太陽の間には惑星を運行させる天球を置いた。地球から見て惑星は星座の中をゆっくりと動くように見える。これは恒星球に対して惑星を運ぶ天球の相対運動で説明されたが、惑星は天球上で速さを変えたり、逆行といって一時期だけ逆に動くことがある。逆行を説明するために、いくつかの回転方向や速度の異なる複数の天球を1つの惑星の運行に用意した。これらの天球は動かぬ地球を共通の中心とする球体であったので、地球からそれぞれの惑星までの距離は変化することはない。エウドクソスの同心天球はアリストテレスの宇宙像に組み入れられた。
アポロニウスの周転円[編集]
紀元前3世紀ごろのアポロニウスあるいは 紀元前2世紀のヒッパルコスは、惑星が単に円運動を描くのではなく、円の上に乗った小さな円の上を動くと考えた。この小さな円を周転円、周転円が乗っている大きな円を従円と呼ぶ。感覚的には、遊園地の乗り物のコーヒーカップがこれに近い。コーヒーカップの取っ手を中心から見ると、2種類以上の円運動が合成されて、進む方向や速さが変化するように見える。これによって惑星の接近による明るさの変化、巡行と逆行の速度の差を大雑把に説明できた。
全ての惑星が同一平面上にある太陽を中心とした円軌道を等速運動しているのであれば、地球から見た惑星の運動は、円軌道と一つの周転円のみで記述することができるはずである。しかし、現実の惑星の運動はそのようにはなっておらず、惑星の運動を天動説で正確に記述するためにはより複雑な体系が必要になる。そのためヒッパルコス以降、プトレマイオスを始めとしてさまざまな天動説モデルが提唱され、最終的には地動説のコペルニクス、ケプラーを経てニュートンの万有引力の法則に基づく宇宙モデルに至ることになる。
プトレマイオスの体系[編集]
2世紀にアレクサンドリアで活躍したプトレマイオスは周転円を取り入れつつ、離心円とエカント(equant)を導入、体系化した。恒星球の中心は地球だが、惑星の従円の中心はこれとは異なる(離心円)。周転円の中心は離心円上を定速では回らないが、エカント点からこれを見ると一定の角速度で動いている。
図は比較的簡単な例であるが、これでも図示されている大きな離心円と小さな周転円のほかに、離心円の中心Xの運動、恒星球の日周運動、エカント点を中心とする角度など、このひとつの惑星の運行に5つの動きが絡んでいる。
プトレマイオスの体系では地球から惑星までの平均距離にほぼ相当する離心円の径をどう採っても、視方向が同じである周転円を作ることができる。とりあえず各惑星の周転円が重なり合うことを避けるため、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていった。その外側を恒星球が取り囲む。この宇宙像は、エウドクソス、アリストテレスの同心天球の拡張形とも言える。
プトレマイオス後の展開[編集]
プトレマイオスの体系をまとめた『アルマゲスト』は、中世イスラム世界を経て中世ヨーロッパへ引き継がれ、およそ1500年にわたって教科書的な権威を持ち続けた。
いっぽう、6世紀インドのアリヤバータ(Aryabhata)は太陽中心の地動説を唱えている。インドには古代ギリシアの天文学が入ってきており、その影響が指摘されている。彼の著作は8世紀にアラビア語に、13世紀にはラテン語に翻訳されている。
8世紀にアッバース朝が建設した都バグダードは、ヘレニズム文明、文化の継承とインド文明などが出会う「るつぼ」であり、イスラム科学の中心地となった。 9世紀ごろシリア地方で活躍したバッターニーは、詳しい観測を行い、プトレマイオスの体系を継承発展させた。
14世紀ウマイヤ朝のダマスカスに居たイブン・アル=シャーティル(Ibn al-Shatir)は、天動説の立場に立ちながらエカント点を排除する、コペルニクスと数学的にそっくりの系を考えた。円運動から直線往復運動を作り出す手法はシャーティルに先だって13世紀のナスィール・アル=ディーン・トゥースィー(Nasir al-Din Tusi)によって編み出されている(トゥースィーの対円、Tusi-couple)。 彼らの業績がコペルニクスの説に影響を与えた可能性も指摘されているが、証拠は認められていない。
ヨーロッパでの受容と展開[編集]
十字軍遠征やイベリア半島におけるレコンキスタ、地中海貿易などは、ヨーロッパとイスラム世界との接触を活発にした。11-13世紀にかけて、イスラム科学の成果はシチリア王国の首都パレルモ、カスティーリャ王国の首都トレドなどで精力的に研究され、翻訳が成された(→12世紀ルネサンス)。 アリストテレスなど古代ギリシアの文献も、アラビア語訳からの重訳という形でヨーロッパにもたらされた。 それまでのカトリック教会の神学はアウグスティヌスなどラテン教父による、ネオプラトニズムを基盤にしたものであった。1210年にパリの聖職者会議がアリストテレスを教えることを禁止するなど、新しく流入した知識を採り入れることに抵抗はあったものの、13世紀後半に活躍するアルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスらにより、けっきょくはアリストテレスの哲学はスコラ学の主流となる。
プトレマイオスの体系も受け入れられて、13世紀にカスティーリャ王国のアルフォンソ10世のもとで編纂された『アルフォンソ天文表』は、その後の補正を受けながらも17世紀までヨーロッパで使われていた。 15世紀のドイツでプトレマイオスなどの研究をしたレギオモンタヌス(ヨハン・ミューラー)の業績は、彼の死後1496年に『アルマゲスト綱要』として出版され、コペルニクスの研究に大きな影響を与えた。このころになると、『アルマゲスト』もアラビア語からの重訳ではなく、ギリシア語原典に当たることができていた。
16世紀のヨーロッパでニコラウス・コペルニクスが地動説を唱えた。コペルニクスの説は太陽を中心に地球を含む惑星が公転するという点で画期的であるとともに、エカント点を排除してすべての運行を大小の等速円運動で記述した。エカント点の排除に小周転円が必要だったので、計算の手間はプトレマイオスと大して変わらなかったし、予測精度も大きく上がることはなかった。地球の位置が動くならば恒星の見える方向が変化するはずなのに、当時の観測精度ではそれ(年周視差)が認められなかったことも、コペルニクスの説がただちには受け入れられなかった理由である。
コペルニクス説の影響を受けて、17世紀のティコ・ブラーエは、動かぬ地球を中心にしながらも、月と地球を除く惑星が太陽の回りを周回する宇宙を考えた。ティコの太陽系はプトレマイオスの天動説の発展形とも言える。プトレマイオスの体系でも太陽系というものがまったく存在しなかったわけではない。内惑星である水星と金星の離心円の回転角は、太陽のそれと同じであった。しかし外惑星は別扱いされた。内惑星を地球から見ると太陽からある程度以上は離れることはないが、外惑星は太陽の反対側へも回り込む。
プトレマイオスの体系では、地球から、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の順に積み重ねていた。この配列で水星、金星、太陽を見ると、この順に離心円の径が大きくなる。しかし、ティコはこれらを同じにした。周転円が重なり合うことを問題にしなければこれができ、これに応じて周転円の径を変えると地球からの視方向が同じであるものができる。この系では太陽の回りを水星、金星が回る。さらに外惑星も同じようにできるが、この場合は離心円の径と周転円の径の大小が反転する。しかし、もともと 離心円の径 > 周転円の径 であったのは、周転円同士が重なり合わないための要請で、それを取り払うと問題ではなくなる。すなわち、ティコが破ったプトレマイオスの掟は周転円同士の重なりであった。もとのプトレマイオスの体系でも離心円同士は重なっていたのだから、周転円同士の重なりを回避するのは不自然な要請だったのかもしれない。
16世紀にニコラウス・コペルニクスが地動説を唱えた後にも、天動説を脅かす事件は続いた。新星が観測されたことは月より遠方ではいかなる変化も起きないというアリストテレス的宇宙観にとって、これは大きな問題となった。さらに、ティコ・ブラーエが彗星を観測し、この天体が月より遠方にあることを証明した。これは激しい論争を生んだ。多くは彗星を気象現象として考えようというものだった。
地動説[編集]
そして破綻は17世紀にやってきた。ガリレオ・ガリレイは望遠鏡を用い、木星に衛星があることを発見した。当時、地動説を攻撃する理由に、次のようなものがあった。いわく、もし地球が太陽の周りを公転するのならば、月は飛ばされてどこかに行ってしまうだろう。しかし、天動説でも全く同様の問題が生じることが、これにより明らかになったのである。しかし、当時は望遠鏡を何かまやかしやごまかしの器具であると考えた者もいて、天動説を捨てる学者はなかなか現れなかった。天動説への不利な観測結果は、望遠鏡を用いて次々にもたらされた。
最終的に、ヨハネス・ケプラーの地動説モデル(ケプラーの法則)に基づくルドルフ星表の正確さが誰の目にも明らかになると、議論は収束に向かった。ニュートンは、ケプラーの法則の証明として慣性の概念を始めとした運動の法則、および万有引力の法則という極めて普遍的な法則を導きだしたが、これらの法則は天動説をとるにせよ地動説をとるにせよ大きな謎であった天体運動の原動力についての問題、月が飛ばされない問題等の困難を解決すると共に、惑星のみならず石ころから恒星まで、宇宙のあらゆる物体の運動をほぼ完全に予測・説明できる手段となった。これらの輝かしい成功によって、地球中心説としての天動説は完全に過去のものとなった。慣性の概念と万有引力の法則は、太陽を全宇宙の中心とする旧来の地動説をも葬り去ることになる。
他文明と天動説[編集]
古代ギリシア・古代ローマ文明以外では、天動説に類する宇宙観は生まれないか、発展しなかった。メソポタミア文明では、詳しい惑星の位置観測結果が粘土板として出土しているが、この文明がどのような世界観を持っていたのかは不明である。多くの文明は、半球状の世界の中心に観測者がいるという世界観を持っていた。この場合、球状の「地球」が世界の真ん中に浮かんでいるという概念がまだ存在しないので、天動説とは呼ばない。古代インドでは、須弥山説(ヘビの上にカメが乗り、その上にゾウが乗って、その上に人間の住む世界があるという世界観)が唱えられ、古代中国では、蓋天説や渾天説が唱えられた。ただし、これらの文明と古代ギリシア文明とは、学問の上で大きな接触があったとはいえず、これらの説や天動説が互いに影響を与えたかどうかについては詳しい研究はない。中国独自の無限宇宙論といえる宣夜説の形成には、天動説が影響したと考える研究者もいるが、確証はない。
前述したとおり、その後、天動説は古代ギリシア・ローマからアラビア文化圏を経て中国に渡り、アラビアと中国で独自の発展を遂げた。これらの文化圏が既に持っていた世界観との乖離は、特に問題とはならず、その地の知識人は抵抗もなくこれらの学説を受け入れた。しかし、アラビア、中国での天動説の発展は主に観測精度の向上で、体系の発展はあまりなかった。
現代における天動説の立場[編集]
2004年国立天文台の研究者のアンケートによると、小学生の4割が「太陽は地球の周りを回っている」と思っており、3割は太陽の沈む方角を答えられないという結果が出たという。文部科学省の答弁によると、「これらのことは、中学校で教育する。」とのことだったが、日本における理科離れ、科学リテラシーの低さとあわせて問題視する意見もある。一方で、多大な労力を要することになるが、それさえ厭わなければ、天動説の立場で天体の運動を数学的に記述することは可能であり、単に地動説を真理として「教育する」のが妥当かどうかは今後の議論が必要である。天動説が無知な古代人の妄想ではなく、緻密な数学的背景を持った科学的体系であったことを認識することは大切である。但し、天動説(地球中心説)が正しいのはあくまで数学的にであって、物理的(力学的)にはもちろん完全に破綻している。
なお、地球中心説としての天動説は誤りであったが、太陽が動いているという意味での天動説は、現在では新たな意味を持って復活している。ニュートンの万有引力の法則は、太陽が宇宙の中心ではない可能性を示唆するものでもあり、実際に太陽は宇宙の中心ではなかった。現在では太陽は銀河系を構成する無数の星のひとつとして(ちょうど地球が他の惑星と共に太陽のまわりを回っているように)他の星々と共に銀河系の中心のまわりを回っていることが知られており、その銀河系もまたこの宇宙に無数に存在する銀河の一つに過ぎないことが知られている。
参考文献[編集]
- 『アルマゲスト』プトレマイオス著 ; 薮内清訳 ; 恒星社厚生閣 1982年
- 『天體の囘轉について』コペルニクス著 ; 矢島祐利訳 ; 岩波書店 1953年 ISBN 4003390512
- 『天文対話』(上下巻)ガリレオ・ガリレイ著 ; 青木靖三訳 ; 岩波書店 1959年 ; 上巻:ISBN 400339061X 、下巻:ISBN 4003390628
- 『天動説の絵本—てんがうごいていたころのはなし』安野光雅著 ; 福音館書店 1979年 ; ISBN 4834007510
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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