「Wikipedia:削除された悪ふざけとナンセンス/うぃき洗い小町」の版間の差分
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2022年10月4日 (火) 22:04時点における最新版
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うぃき洗い小町 |
---|
作者(年代) |
偽阿弥(室町時代) |
形式 |
複式夢幻能 |
能柄<上演時の分類> |
四番目物 |
現行上演流派 |
廃絶 |
異称 |
うぃき洗い |
シテ<主人公> |
小野小町 |
その他おもな登場人物 |
大伴黒主、紀貫之、子方 |
季節 |
不定 |
場所 |
宮中 |
本説<典拠となる作品> |
草子洗小町? |
能 |
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「うぃき洗い小町」は、能の演目の一つで、三番目物、現在鬘物。作者は(世阿弥の息子を自称する)偽阿弥。有名な能の演目「草子洗小町(草紙洗)」に話がよく似ている、というより明らかに剽窃なのだが、もちろんなんら関係はない、と作者は強調している。
かのジミー・ウェールズがこの曲を観て、「ウィキペディア」のアイディアを思いついたとする説がごく一部で存在する。
発見[編集]
以前から、「草子洗小町」の古い写本の中に、典拠不明の異文があることが研究者の間では知られていた。しかし、これについては単なる書写の際の誤りとされることが一般的だった。
ところがぎなた研究の第一人者として孤塁を守る志賀津一が、ぎなた調査のため佐渡島へ渡った際、狂言鷽流宗家・手刀元彌の協力を得て、当地の万愚神社に奉納されていた古い謡本を発見した[1]。この謡本にはこれまで「草子洗小町」の異文だと思われていた詞が収められており、独立した別の演目であることが判明したのである。
なおこの曲の題は原文では「ゐきあらひこまち」とあるが、誤って「うぃき洗い小町」として発表されて以来(おそらく担当編集者のタイプミス)これが定着しているため、本文でもこれに倣うものとする。
演者[編集]
あらすじ[編集]
草子洗小町[編集]
参考のために、類曲(というよりオリジナル)である「草子洗小町」のあらすじを簡単に述べる。
宮中で歌合が行われることとなり、大伴黒主の相手は小野小町と決まる。しかし黒主には小町に勝つ自信がない。そこで前日、黒主は小町の邸に忍び込み、小町が明日詠む予定の歌を盗み聞きして、『万葉集』の草子にそれを書き込む。
歌合当日、著名な歌人たちが居並ぶ中、小町が自分の歌を詠む。その歌は帝からも絶賛を受けるが、すかさず黒主は、小町の歌は古歌であると訴える。黒主が取り出だしたる『万葉集』には確かに、先ほどの小町の歌が記されていた。もちろん、これは黒主が書き足したものなのだが、小町は窮地に立たされることとなる。
しかし小町は機転を利かせ、その草子を水で洗う。すると、元々の歌は残り、黒主が新しく書き込んだ部分はきれいに消えてしまったのである。悪事露見した黒主は自害を図るが、小町のとりなしで許され、丸く収まった祝いに小町は美しい舞を舞う。
生きた時代の違う小野小町と大伴黒主、紀貫之が同時に登場するなど、荒唐無稽の感が強い。しかしながら趣向の面白さや詞章・節の流麗さもあり、「王朝絵巻風の、しかもユーモラスな味わいをもった能」(羽田昶[2])と評される。また能の小野小町は老いさらばえた凄惨な姥として登場する曲が多いが(「卒塔婆小町」、「関寺小町」)、本曲では若き日の美しい才媛としての姿を描かれ、曲を華やかなものとしている。
うぃき洗い小町[編集]
「うぃき洗い小町」のストーリーは、「草子洗小町」とほとんど違わない。しかしながら、本曲では競うのが「歌」ではなく「うぃき」なるものであること、黒主が証拠として持ち出すのが『万葉集』ではなく自分の日記(詞章では『武呂具』という謎の名で呼ばれる、後述)であるという点に主な違いがある。
まずは冒頭。小野小町と大伴黒主が、「歌合」ならぬ「うぃき合」で対決することとなる。
- この「うぃき」が何なのか、曲中では全く言及がなく謎である。一説では「うぃき」とは秦の始皇帝が息子の教育のため『呂氏春秋』を元に作らせた『初記』(初心者向けの書)、あるいは『有為記』(役に立つ書)、即ち「百科事典」のようなものであったとも言われている[3]。この説によれば、「うぃき合」とは各人が書いた記事を審査しながら、一つの事典にまとめる作業であったと思われる。
いずれにせよ、「草子洗小町」同様、黒主は小町に勝てぬと悟って、こっそり小町の邸に忍び込み、小町の書いた「うぃき」の中身を盗み見た後、そこに「遣唐使・ヤリ○ン」と落書きして逃げる。
さて、自邸に戻った黒主は、自分の日記(『武呂具』と黒主はこれを呼ぶが、これは武人の末裔である大伴氏一族としての、軍事的備忘録の意があると考えられる[4])に、3年前の日付で、同じ内容を書き込む。
そして翌日、「うぃき合」が始まる。居並ぶ優良執筆者たちの前で、小町が自作の「うぃき」を披露する。「草子洗小町」同様、帝はその出来を褒め称え、他の執筆者たちも「新着記事」として推薦するとともに、「月間新記事賞」「秀逸な記事」間違いなしだと絶賛する。
しかしそこに、黒主が待ったを掛ける。黒主は自分の日記(武呂具)を取り出し、「小町の記事は私の『武呂具』を盗んだものだ」と主張する。確かにその内容は一言一句同じで、しかも日付は『武呂具』の方が古い。執筆者たちからも、「爺出衛府得[5]違反の虜」「固非変[6]」「*(削除)--~~~~」[7]などと、小町への批判の声が上がる。しかも例の落書きも見つかり、小町は窮地に立たされる。
そこで小町は潔白を示すため、図書寮に用意させた水で黒主の『武呂具』を洗うことの許しを願い出る。早速それを実行すると、他の文章は残ったのに、問題の記述はきれいさっぱり消えてしまう。さらに続いて小町が自分の「うぃき」も洗うと、例の落書きも新しく書き込まれたものなので、やはり消え失せる。これによって、この2箇所が、黒主によって新しく書き込まれたことが明るみに出る。
悪事の露呈した黒主は「草子洗」同様、自害を図るが、小町によって救われる。そしてやはり小町が可憐な舞を披露して、曲は終わる。
評価[編集]
このように「うぃき洗い小町」の筋は「草子洗小町」とほとんど同じであり、新たに付け加えられた部分もごちゃごちゃとして煩雑である。特に黒主の自害を小町が止めた後に、ツレの紀貫之が、何も考えずに付和雷同して小町を批判した他の執筆者に対して説教をする台詞が何故か付け加えられているが、これはテンポを損なう上後味が悪いと批判が多い要出典。使われている用語も「うぃき」「武呂具」を初め、意味不明なものが多く、曲としての完成度は極めて低いと評されている要出典。一方で、その用語のユニークさなどを評価し、擁護する声もある要出典。しかし、剽窃は剽窃であるとする声が強い要出典。
いずれにせよ関係者の間で一致しているのは、「こんな曲だが、偽阿弥の作品の中では一番見れる」という点である。
上演[編集]
発見直後の2000年4月1日、能楽研究者の四古一類次の監修で、復曲上演が為された。しかし本職の能楽師が誰も関わりたがらなかったため、四古一が教授を務める中洲産業大学の学生によって演じられた。
素人同然の出演者(本当に素人なのだが)、お粗末な節付け、そして何より曲自体が致命的につまらなかったこともあり、この公演は研究者・愛好家双方から完璧に黙殺された。その後現在に至るまで、再演されていない。
後世への影響[編集]
本曲は、ジミー・ウェールズが「ウィキペディア」を思いついたきっかけとなったとする説がある[8]。
この説によると、2000年、お忍びで日本を訪れていたウェールズは、偶然上記の復曲上演を観覧した。その際、「皆で作る百科事典」「荒らされても簡単に差し戻すことが出来るシステム」「コピペは削除する」などのアイディアを得て、これが翌年のウィキペディア創設のきっかけになったのだという。
これが本当だとすると、「うぃき洗い小町」はまさにウィキペディアの母ということになる。しかしながら、「ウィキ」のシステムを考えたのはそもそも彼ではなくウォード・カニンガムであるし、その他の共通点もこじつけに過ぎず、そもそもウェールズが日本をその時期訪れたという事実は確認されていない。
またこの説の支持者からも、「そもそも『うぃき洗い小町』は『草子洗小町』の著作権を侵害しているので、削除依頼にかけなければいけない」とする声が大多数である要出典。
作者について[9][編集]
志賀津一が発見した件の謡本には、末尾に作者・偽阿弥による識語が残されている。また当地の狂言鷽流宗家・手刀家からは、偽阿弥自筆と見られる『真・申楽談儀』などが発見された。
これらによると偽阿弥(にせあみ)は俗名を観世四一郎元元といい、かの世阿弥の庶子として応永4年4月1日に生を受けた。世阿弥の下で能役者として修行を積み、「天才と言われた兄・元雅、従兄・元重を遥かに上回る大天才」と言われたと自称するが、その評判が一切残っていないところ、また彼の人生から総合的に判断するに、「とても世阿弥の息子とは思われぬ大根役者」だったと考えられている。
世阿弥はこの出来の悪い息子をかなり心配していたらしく、多くの著作を残し[10]、偽阿弥に芸の心得を教え込もうとした。またそれまでかなりバリエーションに富んだ作風だった能という芸術を、出来る限り洗練させて類型化、偽阿弥が困らないように工夫した。さらに醍醐寺清滝宮の楽頭などの利権を確保し、偽阿弥の生活の糧にしようとした。しかし当の偽阿弥には、世阿弥の著書は高度過ぎ、洗練され深みを増した能は難解で付いていけず、楽頭の職分はとても果たせそうにないので従兄の元重に取り上げられてしまったという。
偽阿弥成年のころ、観世家では世阿弥の後継者を巡り、養子・音阿弥と、実子・元雅とが争っていた。音阿弥を寵愛する足利義教の介入もあり、元雅の弟・元能は出家遁世、元雅もまた30代前半という若さで謎の客死を遂げ、世阿弥は佐渡へ流罪となった。しかし偽阿弥は、どちら側からも特に問題視されず、蚊帳の外だったらしい。
世阿弥流罪後は母とともに、義兄弟の金春禅竹に助けられて暮らした。世阿弥の死後は図々しくも「二世世阿弥」を自称したが、世阿弥崇拝者だった禅竹に激怒されて放り出され、地方のドサ回り芸人として生活した。最初は「あの世阿弥がやってきた」と喜んだ地方の観衆も、そのあまりの酷さに「二世世阿弥」ではなく「偽世阿弥」と呼ぶようになり、いつしか「偽阿弥」で定着してしまったのだという。
禅竹はその晩年の著書『明宿集』の中で、当時地方での祭礼に呼ばれた能楽師が、強欲にも褒美や村の財産を過分にせしめる風潮があると述べ、「こんなことではやがて猿楽の道そのものがいつか廃れてしまうだろう。こうした連中を猿楽の道における最大の邪魔者と言わずしてなんと言おうか!」[11]と慨嘆しているが、偽阿弥のことが念頭にあったことはまず間違いない。
世阿弥、元雅、そして禅竹(一説には元能も)は多くの能を創作した。しかし偽阿弥は、彼らを上回るほどの能を創作したと考えられている。ただし、上回っているのは数だけで、過半数が剽窃どころか、他者の先行作品を自分のものだと主張して発表しただけである(その主な被害者は元雅、禅竹、元能であった)。しかもその多くを、「世阿弥」の署名付きで世に出したので、江戸時代ほとんどの能が世阿弥の作品として記録されることとなり、研究に大きな混乱をもたらすこととなった。またいくらかアレンジを加えたという場合も(「うぃき洗い小町」を見れば分かるとおり)例外なく元の作品より悪くなっている。
伝存する他の作品としては、「新隅田川」「にょろ法師」などがある。
- 新隅田川
- 兄・元雅の代表作「隅田川」の剽窃である。「隅田川」は終盤、母親が墓の前で死んだ子の姿を幻視する場面でよく知られている。元雅が実際に子方を舞台に上げその悲惨さをより強く演出しようとしたのに対し、父・世阿弥は子方を実際に登場させないソフトな演出を主張した。この対立は二人の作家性の違いを表すエピソードとして有名である。
- 偽阿弥による本曲では、何の説明もなく墓の中から子供が出てきて生き返ってしまう。しかもその喜びを表す詞章もなく(考えるのが面倒だったためだと思われる)、そのまま唐突に終わる。アレンジで台無しになった良い例である。
- にょろ法師
偽阿弥の晩年については明らかになっていないが、やはり音阿弥や禅竹を頼ってその周辺で暮らしていたらしい。世阿弥、音阿弥、禅竹らは晩年一休宗純と交際し、死に際しては引導を授けられたという伝承があり、特に禅竹は死後、一休によって川に投げ込まれて水葬にされたというが[13]、偽阿弥についても、寝てる間に、一休に死んだ禅竹と間違われて川に投げ込まれ、文字通り引導を渡されたという伝承がある[14]。
逸話[編集]
本曲と偽阿弥について調査しようとしていたある学者が、酔った勢いで「うぃき洗い小町」の謡本と、手刀家から発見された文献を水で洗ってみると、きれいさっぱり消えてしまったという要出典。
参考文献[編集]
- ↑ 志賀津一「佐渡ぎなた紀行」(「義鉈研究」所収、2000年)
- ↑ 『能・狂言事典』(平凡社、1989年)
- ↑ 英降一『中国驚異の教育術――ブルース・リーの作り方』(民明書房、1989年)
- ↑ 月馬樫『古墳時代武人事典』(民明書房、1996年)
- ↑ 「うぃき」執筆のルールらしいが、不明。爺衛府出得が正しいという説もある。とりあえず、ややこしかったらしい。
- ↑ こひへ、とルビが振られている。内容を変えずに写す、の意か
- ↑ この辺りは意味不明な言葉が多く、また誤字なども多いが、極力原文ママとする
- ↑ 古江異父「世界を支配する日本の能」(「ネット爆裏マガジン」vol.4-1所収、民明書房、2006年)
- ↑ 四古一類次『偽阿弥』(民明書房、2002年)
- ↑ 世阿弥は、応永年間後半に多くの伝書を執筆している。『風姿花伝』を除いた世阿弥の著作は、ほとんどこの時期に記されている。この時期、世阿弥は養子の元重(後の音阿弥)を廃嫡して、強引に実子・元雅に自分の跡を継がせたと考えられており、これらの著書は自分の後継者(=秘伝の伝承者)としての元雅の権威を確立するために世阿弥が書いたのだ、とする説が提示されてきた(香西精「元雅生年考」)。また世阿弥が同時期に、「座の指導者が下手でも、所属する役者たちはそれに従わなければならない」という訓戒を残していることもあり、これまで「祖父・観阿弥以上の天才」と評されてきた元雅が、実は凡庸だったのではないか、という疑惑が浮上していた(表章『観世流史参究』)。しかし元雅の作になる能はいずれも非凡で、それには異論も多かった。世阿弥伝書の伝授者が偽阿弥であったことが分かったことで、下手だったのは偽阿弥の方であり、上述の訓戒も「万が一偽阿弥が後継者になったら……」という世阿弥の心配の表れであると判明した。
- ↑ 金春禅竹『明宿集』「春日・翁一体のこと、翁の使者」
- ↑ 古代日本で作られていたチーズ
- ↑ 伊藤正義『金春禅竹の研究』(赤尾照文堂、1970年)
- ↑ 弥生三十二『強僧伝 一休最強伝説』(民明書房、1994年)
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