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2019年6月12日 (水) 16:59時点における最新版
加藤 勘十(かとう かんじゅう、1892年 - 1978年)
経歴[編集]
1892年(明治25)[1]、愛知県丹羽郡岩倉町で、農家の三男として生まれる[2]。
7歳の時、父と死別し、10歳から丁稚奉公に出る。その後、夕刊販売や牛乳配達をしながら、住み込みの書生として独学を続け、日本大学に夜学生として通学。[2]
1914年(大正3)、応召し、2年間の軍隊生活を送る[2]。
1918年(大正7)、シベリア出兵に従軍[2]。従軍体験から、「戦争は1人の人間の人生を強奪する」「戦争は人類にとって罪悪である」という反戦思想を持つようになったといい、除隊後、雑誌『労働世界』で働くようになる[2]。
『労働世界』の最初の仕事で、茨城県の唐虫炭坑で起きた暴動事件を視察[2]。
1920年(大正9)2月、八幡製鉄所の労働争議を指導し、4ヵ月間投獄される。その後も労働運動を指導して「火の玉勘十」とよばれ、しばしば投獄された。この間に、助産婦をしていた妻・きみと結婚し、2児をもうけた。[3]
1920年9月、東京・小石川区高田豊川町(椿山荘の隣地)に石本恵吉を訪ね、このとき石本夫人・静枝と初めて出会う[4][5]。
1922年10月、全日本鉱夫総連合の結成に参加し、調査部主任となる。この頃、石本恵吉から、同部の調査費用として1923年まで月500円の資金援助を取り付ける[5]。
1927年5月、第1回汎太平洋組合会議代表となり、検挙される[6]。
1928年12月、日本大衆党結成。青年部宣伝部員となる。[6]
1933年8月、ロマン・ロランらによる「世界反戦大会」(反戦、反ファシズム)の呼びかけに応じ、長谷川如是閑、麻生久らと極東反戦友の会を結成[7]。
1934年11月、日本労働組合全国評議会(全評)を結成し、中央執行委員となる[6]。
1935年頃、渡米し、アメリカの労働組合や農民の団体を訪問。この頃、夫と別居して品川区大井金子山で暮らしていた石本静枝の自宅を頻繁に訪れるようになり、渡米にあたっても支援を受けた。[8]
1936年6月、労農無産協議会を結成、委員長となる(翌年、「日本無産党」に改称)[6]。
1937年、日本無産党から東京市議会議員および衆議院に立候補し、続けて当選。同年12月7日からは、議員団長として中国の日本軍を慰問のため訪問し、長崎に帰港したところを第1次人民戦線事件で逮捕される[9]。
1938年暮に同事件の追起訴を受け、2年近く未決のまま拘置。1939年暮に保釈される。[10]
1941年11月、妻・きみが子宮癌で死去。特高警察の監視を受けながら、『東京日日新聞』のコラムを執筆するなどして生計を立て、2人の子供を養う。[11]
1944年11月、京都の平安神宮で加藤シヅエと結婚式を挙げる[11]。
1946年4月の衆議院議員選挙に愛知1区から出馬し、当選[13]。
1949年1月の衆議院議員選挙には落選。その後、1952年、1953年、1958年、1960年、1967年の衆議院議員選挙で当選した。[13]
1969年、衆議院議員を辞任[14]。
1978年に死去[15]。
栄典[編集]
- 1970年、勲一等瑞宝章授与[14]。
著作物[編集]
文献DB[編集]
- 国会図書館 (2019) 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス - 加藤勘十
著書[編集]
- 1918年 加藤勘十『寺内内閣と対支外交』加藤勘十、NDLJP 957956
- 1928年 -『階級戦の先頭を往く』前衛書房、NDLJP 10298492
- 1930年 -『ストライキ戦術』誠文堂、NDLJP 1882313
- 1936年 -『統一戦線の展望』時局新聞社、NDLJP 1455029
- 1936年 -『転換期のアメリカ』改造社、NDLJP 1463137
- 1963年 -『自叙伝』双藤会、NDLJP 2974564
- 1980年 -『加藤勘十の事ども』加藤シヅエ、JPNO 85044239
雑誌記事[編集]
#文献DBを参照。
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 国会図書館 2019
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 船橋 1988 362
- ↑ 船橋 1988 364
- ↑ 加藤 1988 216
- ↑ 5.0 5.1 船橋 1988 364,401
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 船橋 1988 402
- ↑ 船橋 1988 372,402
- ↑ 船橋 1988 368
- ↑ 船橋 1988 372
- ↑ 船橋 1988 377,378
- ↑ 11.0 11.1 船橋 1988 387
- ↑ 船橋 1988 387,399
- ↑ 13.0 13.1 13.2 船橋 1988 404
- ↑ 14.0 14.1 船橋 1988 405
- ↑ 船橋 1988 406