「二上達也」の版間の差分
(棋風) |
(追加) |
||
4行目: | 4行目: | ||
== 経歴 == | == 経歴 == | ||
− | [[1932年]]、[[北海道]][[函館市]]で生まれる。[[1939年]]に母が亡くなり、父も[[1946年]]に病気で亡くなった。[[1950年]] | + | [[1932年]]、[[北海道]][[函館市]]で生まれる。[[1939年]]に母が亡くなり、父も[[1946年]]に病気で亡くなった。[[1950年]]に道立函館高等学校、現在の函館中部高等学校を卒業した<ref>[https://www.shogi.or.jp/news/2016/12/250.html 二上達也九段「お別れの会」 ~関係者・ファン250人が故人の遺徳を偲ぶ~]将棋ニュース,日本将棋連盟,2016年12月22日</ref>。[[1949年]]、17歳のときにアマ名人戦北海道大会で準優勝し、アマ名人戦北海道代表となる。 |
1950年4月、[[奨励会]]に二段で入会した(18歳)。[[1951年]]の順位戦で初参加から3年連続昇級し、B級1組に達する。[[1952年]]五段、[[1953年]]六段、[[1954年]]七段、[[1956年]]にA級八段となる。入門から八段まで6年の記録は現在も破られていない。その後、23期連続でA級に留まった。 | 1950年4月、[[奨励会]]に二段で入会した(18歳)。[[1951年]]の順位戦で初参加から3年連続昇級し、B級1組に達する。[[1952年]]五段、[[1953年]]六段、[[1954年]]七段、[[1956年]]にA級八段となる。入門から八段まで6年の記録は現在も破られていない。その後、23期連続でA級に留まった。 | ||
− | [[1962年]]度の第12期王将戦で当時の五冠王である[[大山康晴]]を4勝2敗で破り、王将のタイトルを獲得した<ref> | + | [[1962年]]度の第12期王将戦で当時の五冠王である[[大山康晴]]を4勝2敗で破り、王将のタイトルを獲得した<ref>[https://www.shogi.or.jp/match/oushou/index.html 王将戦]棋戦一覧,日本将棋連盟</ref>。 |
[[]1973年]11月九段。 | [[]1973年]11月九段。 | ||
[[1980年]]度後期の第37期棋聖戦で[[米長邦雄]]を破り、棋聖のタイトルを獲得した。[[1981年]]度の前期、後期で棋聖位を防衛し3連覇した。 | [[1980年]]度後期の第37期棋聖戦で[[米長邦雄]]を破り、棋聖のタイトルを獲得した。[[1981年]]度の前期、後期で棋聖位を防衛し3連覇した。 | ||
13行目: | 13行目: | ||
[[1990年]]3月にB級1組に在籍のまま引退した。 | [[1990年]]3月にB級1組に在籍のまま引退した。 | ||
− | [[2016年]]11月1日、肺炎のため茨城県牛久市の病院で亡くなった<ref> | + | [[2016年]]11月1日、肺炎のため茨城県牛久市の病院で亡くなった<ref>[http://mainichi.jp/articles/20161104/k00/00e/040/228000c 訃報 二上達也さん84歳=元日本将棋連盟会長]毎日新聞,2016-11-04</ref>。 |
− | [[2016年]]12月19日、東京都千代田区の「ホテルニューオータニ東京」で「お別れの会」が開催され、将棋ファン含め250人が参列した<ref> | + | [[2016年]]12月19日、東京都千代田区の「ホテルニューオータニ東京」で「お別れの会」が開催され、将棋ファン含め250人が参列した<ref>[[https://www.shogi.or.jp/news/2016/12/250.html 『二上達也九段「お別れの会」 ~関係者・ファン250人が故人の遺徳を偲ぶ~』],日本将棋連盟,2016年12月22日</ref>。 |
== 日本将棋連盟会長 == | == 日本将棋連盟会長 == | ||
30行目: | 30行目: | ||
== 人物 == | == 人物 == | ||
− | その風貌から「北海の美剣士」と言われた。物静かで優しい人柄で人々に慕われていた<ref> | + | その風貌から「北海の美剣士」と言われた。物静かで優しい人柄で人々に慕われていた<ref>[http://www.hochi.co.jp/topics/20161219-OHT1T50136.html 『弟子の羽生三冠が追悼の言葉で手を震わせる 将棋棋士・二上達也九段お別れの会』],スポーツ報知,2016-12-19</ref>。 |
弟子の中で将棋棋士になったのは、[[瀬戸博晴]]と[[羽生善治]]の2名である。 | 弟子の中で将棋棋士になったのは、[[瀬戸博晴]]と[[羽生善治]]の2名である。 | ||
2017年9月5日 (火) 14:25時点における最新版
二上達也(ふたかみ たつや、1932年1月2日 - 2016年11月1日)は、将棋棋士である。タイトル獲得通算5期、一般棋戦優勝回数 5回。タイトル戦登場回数26回。渡辺東一名誉九段門下。
経歴[編集]
1932年、北海道函館市で生まれる。1939年に母が亡くなり、父も1946年に病気で亡くなった。1950年に道立函館高等学校、現在の函館中部高等学校を卒業した[1]。1949年、17歳のときにアマ名人戦北海道大会で準優勝し、アマ名人戦北海道代表となる。 1950年4月、奨励会に二段で入会した(18歳)。1951年の順位戦で初参加から3年連続昇級し、B級1組に達する。1952年五段、1953年六段、1954年七段、1956年にA級八段となる。入門から八段まで6年の記録は現在も破られていない。その後、23期連続でA級に留まった。
1962年度の第12期王将戦で当時の五冠王である大山康晴を4勝2敗で破り、王将のタイトルを獲得した[2]。 [[]1973年]11月九段。 1980年度後期の第37期棋聖戦で米長邦雄を破り、棋聖のタイトルを獲得した。1981年度の前期、後期で棋聖位を防衛し3連覇した。
1990年3月にB級1組に在籍のまま引退した。
2016年11月1日、肺炎のため茨城県牛久市の病院で亡くなった[3]。
2016年12月19日、東京都千代田区の「ホテルニューオータニ東京」で「お別れの会」が開催され、将棋ファン含め250人が参列した[4]。
日本将棋連盟会長[編集]
1981年から日本将棋連盟副会長。1989年~2003年まで日本将棋連盟会長(14年間は歴代最長期間)。[5] 2003年から2005年まで相談役。
棋風[編集]
タイトル[編集]
- 王将 通算1期 1962年度(第12期)
- 棋聖 通算4期(第8期-1966年前期・37期~39期)
人物[編集]
その風貌から「北海の美剣士」と言われた。物静かで優しい人柄で人々に慕われていた[8]。 弟子の中で将棋棋士になったのは、瀬戸博晴と羽生善治の2名である。
表彰[編集]
- 最優秀棋士賞 第 8回(1980年度)
- 特別賞 第17回(1989年度)
- 東京将棋記者会賞 第31回(2003年度)
- 紫綬褒章 1992年
- 函館市栄誉賞
- 勲四等旭日小綬章 2002年
出典[編集]
- ↑ 二上達也九段「お別れの会」 ~関係者・ファン250人が故人の遺徳を偲ぶ~将棋ニュース,日本将棋連盟,2016年12月22日
- ↑ 王将戦棋戦一覧,日本将棋連盟
- ↑ 訃報 二上達也さん84歳=元日本将棋連盟会長毎日新聞,2016-11-04
- ↑ [『二上達也九段「お別れの会」 ~関係者・ファン250人が故人の遺徳を偲ぶ~』,日本将棋連盟,2016年12月22日
- ↑ 将棋連盟元会長・二上達也九段死去 羽生三冠の師匠朝日新聞,2016年11月4日
- ↑ 二上達也氏が死去 元将棋連盟会長、羽生王座の師 日本経済新聞,2016-11-04
- ↑ 二上達也さん 棋士として貫いた美学と矜持 羽生善治棋聖産経新聞,2016-11-09
- ↑ 『弟子の羽生三冠が追悼の言葉で手を震わせる 将棋棋士・二上達也九段お別れの会』,スポーツ報知,2016-12-19