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中国の爵位は隋代以降基本的には'''王・公・侯・伯・子・男'''をベースにしたものとなり[[唐]]・[[宋 (王朝)|宋]]代に完成した。その後[[金]]・[[元]]を経て、徐々に簡素化し[[明]]代には殷や周のころのように五等や三等であった。[[清]]代も基本的に五等爵を基本としていたが等級を設けていた。 | 中国の爵位は隋代以降基本的には'''王・公・侯・伯・子・男'''をベースにしたものとなり[[唐]]・[[宋 (王朝)|宋]]代に完成した。その後[[金]]・[[元]]を経て、徐々に簡素化し[[明]]代には殷や周のころのように五等や三等であった。[[清]]代も基本的に五等爵を基本としていたが等級を設けていた。 | ||
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|開国県公 | |開国県公 | ||
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|散県侯・開国県伯 | |散県侯・開国県伯 | ||
|開国伯 | |開国伯 | ||
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|rowspan="2"|郡侯 | |rowspan="2"|郡侯 | ||
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下の表は功臣・外戚の爵位の変遷である。 | 下の表は功臣・外戚の爵位の変遷である。 | ||
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!官品 | !官品 | ||
!nowrap|[[天命 (後金)|天命]]5年([[1620年|1620]]) | !nowrap|[[天命 (後金)|天命]]5年([[1620年|1620]]) | ||
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|一等-三等公 | |一等-三等公 | ||
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|正五品 | |正五品 | ||
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|拖沙喇哈番 | |拖沙喇哈番 | ||
|雲騎尉 | |雲騎尉 | ||
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|恩騎尉 | |恩騎尉 | ||
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和訳に際しては中国や日本の爵位と相当した名称を当てているがヨーロッパの爵位の場合、東洋の爵位と厳密には対応するとはいい難い。但し、東洋の爵位の上下の序列をヨーロッパの爵位におおよその順番を踏襲して当てはめた訳語が伝統的に当てられている。この対比表はあくまで一例を挙げた物で、実際にある国の爵位が別の国のどの爵位と同じかということは時代と共に変化しているので一概には言えない。[[プリンス]]、[[公]]、[[侯]]も参照のこと。なお、古代[[ローマ帝国]]や[[東ローマ帝国]]などではこれと全く違う体系の爵位が用いられていた。[[:en:Royal and noble ranks]]を参照のこと。 | 和訳に際しては中国や日本の爵位と相当した名称を当てているがヨーロッパの爵位の場合、東洋の爵位と厳密には対応するとはいい難い。但し、東洋の爵位の上下の序列をヨーロッパの爵位におおよその順番を踏襲して当てはめた訳語が伝統的に当てられている。この対比表はあくまで一例を挙げた物で、実際にある国の爵位が別の国のどの爵位と同じかということは時代と共に変化しているので一概には言えない。[[プリンス]]、[[公]]、[[侯]]も参照のこと。なお、古代[[ローマ帝国]]や[[東ローマ帝国]]などではこれと全く違う体系の爵位が用いられていた。[[:en:Royal and noble ranks]]を参照のこと。 | ||
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|[[公爵]] | |[[公爵]] | ||
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− | |Prince<sup><small>1</small></sup>|| | + | |Prince<sup><small>1</small></sup>|| ||Principe||Príncipe|| ||Furst<sup><small>3</small></sup>||Furste<sup><small>3</small></sup>||Ruhtinas<sup><small>3</small></sup> |
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|[[ナイト|勲功爵]]<br/>勲爵士<br/>[[騎士]] | |[[ナイト|勲功爵]]<br/>勲爵士<br/>[[騎士]] | ||
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:4) ロシア国内の貴族向けに2つの公(Kniaz)と伯(Boyar)のみが用いられた。 | :4) ロシア国内の貴族向けに2つの公(Kniaz)と伯(Boyar)のみが用いられた。 | ||
:5) イギリスでは貴族に含めない。 | :5) イギリスでは貴族に含めない。 | ||
− | :6) ドイツではErzherzog([[英語|英]] | + | :6) ドイツではErzherzog([[英語|英]]:Archduke)という爵位もある。Erzherzogは[[ハプスブルク家]]の[[ルドルフ4世 (オーストリア公)|ルドルフ4世]]が勝手に「オーストリア大公」と自称したのが始まり。ハプスブルク家の成員のみがErzherzogを名乗れるとされた。現在のハプスブルク家の当主[[オットー・フォン・ハプスブルク]]もErzherzogと称している。 |
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自由民を表す言葉で後に領主一般を指す言葉となり、最終的にViscount以上の爵位を持たない領主の爵位([[男爵]])となった。ドイツ語圏やスコットランドでは男爵に相当するものにFreiherrやLord of parliamentが使われ、Baronはそれより低い称号になっている。スコットランド語でBaronyは荘園を意味し、荘園領主・小規模領主にBaronが用いられた。 | 自由民を表す言葉で後に領主一般を指す言葉となり、最終的にViscount以上の爵位を持たない領主の爵位([[男爵]])となった。ドイツ語圏やスコットランドでは男爵に相当するものにFreiherrやLord of parliamentが使われ、Baronはそれより低い称号になっている。スコットランド語でBaronyは荘園を意味し、荘園領主・小規模領主にBaronが用いられた。 | ||
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2008年5月14日 (水) 15:30時点における最新版
爵位(しゃくい、Title)とは主に古代から中世にかけての国家や現代における立憲君主制に基づく国家において貴族や国家功労者に対して血統または功労に基づき授与または世襲により継承される階級別の栄誉称号のことである。別称として爵号など。官職と爵位を相称して官爵ということもある。
目次
爵位概説[編集]
中国及びその影響圏に於ける爵位は古くは中国の周にさかのぼり諸侯の封号として爵位が授けられ、その慣行は清代まで続いた。また近代の日本の華族でも用いられ、あるいは西欧の貴族称号の訳語としてヨーロッパ・ロシアの貴族についても用いられた。五爵(ごしゃく)或いは五等爵(ごとうしゃく)、公・侯・伯・子・男(こう・こう・はく・し・だん)などともいう。なおタイの爵位制度に関してはラーチャウォンを参照。有爵者への敬称は「閣下」または「卿」。天から授かった徳を天爵というのに対して爵位や位階官禄のことを人爵という。
なお「王爵」「帝爵」という言葉もあり、また隋の九等爵の筆頭が「国王」である事からもわかる通り「王」や「皇帝」といった君主の称号即ち君主号も広義の意味では爵位の一種とされることもある。或いはヨーロッパにおいては有爵者を君主、国家元首とする国家も存在し、爵位が君主号の役割を果たしている場合も少なくない。
今日君主制ではない、いわゆる共和国ではもちろんのことであるが君主国の系譜を引くフランスや日本などでは貴族制度や華族制度が廃止となり、公式に爵位を定めない国もある。その場合においても特にフランスなどに代表されるように一部では慣習として爵位を私称し続けたり、その私称を継承し続けている旧貴族層も存在している。なお、君主制或いは自国に爵位制度が存在するかに関わらず外国の爵位が贈呈されることも少なくなく、国際親善や特定の国に利益をもたらした人物にその国から爵位が贈呈される場合もある。また一部には寄付により爵位を贈呈する国や自称国家もあるが、それらの中には詐欺まがいのものもあるのが現状である。
中国における爵位[編集]
秦以前の爵位[編集]
儒教の経典の主張するところによると、夏王朝には公・侯・伯・子・男の五等があり、それが殷代には公・侯・伯の三等となり、周代には再び五等となったとされる。ただし甲骨文、金文等の同時代資料を用いた歴史学の実証的な研究により、これらの時代に実在した都市国家支配層の称号はこのようにきれいに序列化され整理されたものではなかったことが明らかになっている。こうした五等爵の序列は戦国時代に過去の時代のありかたをもって当時の政権に正当性を与えるために諸子百家により整理され、序列化されたものではないかとする説が有力になってきている。
秦・漢の爵位[編集]
秦では商鞅の第一次変法により軍功褒賞制と爵位制が設けられ、二十等爵制として軍功により爵位を与えた。その爵位により土地の保有量や奴婢数など生活水準が決められていた。
前漢には秦の軍功爵制を改め、軍功に限らず身分に応じて爵位を与えた。更に二十等爵の他に王爵を設けたが、これは次第に皇族に限られることとなった。また、爵位を持つ者は土地の保有を許可された。
二十等爵とは第二十級の徹侯(後に武帝の避諱から通侯・列侯と呼ばれた)を筆頭に第十九級の関内侯、第十八級の大庶長、第十七級の駟車庶長、第十六級の大上造と続き、以下少上造、右更、中更、左更、右庶長、左庶長、五大夫と続いた。ここまでが官爵であり十二等に分かれることから十二等爵ともいい、官吏に与えられた。第八級の公乗以下、公大夫、官大夫、大夫、不更、簪裊、上造、公士までを民爵といい、民に与えられた。
漢武帝の代には軍事費調達のために売爵が行われ爵位の価値が低くなったため、軍功による爵位として別に武功爵が設定された。これは第十一級の軍衛を筆頭に第十級の政戻庶長、第九級の執戎、第八級の楽卿と続き、以下千夫、秉鐸、官首、元戎士、良士、閒輿衛、造士といった。しかしこれらの武功爵も後に売爵の対象となった。
後漢代に入ると爵位の価値は更に軽くなり列侯、関内侯のみが爵とされ、県侯、郷侯、亭侯などに細分された。
魏晋南北朝の爵位[編集]
曹魏に至ると秦・漢以来の十二等爵を廃止して、儒教経典の公・侯・伯・子・男を擬古的に復活させた。文帝の黄初年間に王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯(最初郷侯の下に亭侯が置かれていたが後に省かれる)・関内侯の九等の爵制が定められた。黄初3年(222年)には皇子を王に封じ、王子を郷公に封じ、王世子の子を郷侯に封じ、公子を亭伯に封じていた。その後黄初5年(224年)に緒王を皆県王と改められ、明帝の太和6年(232年)に再調整されて郡王となった。以上の九等の外に庶民や兵士に対しての賜爵もあり、関内侯の下には名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯が創立された。
晋の武帝の咸寧3年(275年)に王・公・侯・伯・子・男・開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯の爵制が定められた。皇子でない者には王は封じらず、宗室には公・侯・伯・子・男(郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)があり、功臣には開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯等があった。五等爵の上に「開国」の2字を加えるケースは西晋では少なかったが、東晋になると多く用いられるようになり、常に古来からの五等爵と混称されることもあった。
南朝の梁ではおおよそ魏晋代に倣った爵制を定めていた。陳では郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公・侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯・関中関外侯の十二等があった。
北魏の道武帝の皇始元年(396年)に五等爵が定められたが、天賜元年(404年)に五等から王・公・侯・子の四等に減らされた。王は大郡を、公は小郡、侯は大県、子は小県が与えられた。その後、再び伯・男の二等が加えられた。皇子と功臣には王が封ぜられた。景明元年(500年)には王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯・子・散子・男・散男の十一等の爵制が定められた。官品との対応は下の表を参照。なお王には官品は適用されていない。
北斉では王・公・侯・伯・子・男の六等に分けられた。官品との対応は下の表を参照。なお王には北魏の場合と同様に官品は適用されていない。
北周の爵位には全て「開国」が加えられている。爵位は王・郡王・県王・国公・郡公・県公・県侯・県伯・県子・県男・郷男の十一等が定められた。
隋・唐・宋・遼・金・元の爵位[編集]
隋の文帝の開皇年間(581年~600年)に国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男の九等爵が設けられた(但し「国王」については、従属国・朝貢貿易の相手国の君主に対して与える封号としてのみ用いられ、本稿で述べる君主が臣下に与える爵位とは異なる)。この他文献には郡王・嗣王・藩王・開国郡県公・開国郡・県侯・開国県伯・開国子・開国男・湯沐食侯・郷侯・亭侯・関中・関外侯なども見られる。
中国の爵位は隋代以降基本的には王・公・侯・伯・子・男をベースにしたものとなり唐・宋代に完成した。その後金・元を経て、徐々に簡素化し明代には殷や周のころのように五等や三等であった。清代も基本的に五等爵を基本としていたが等級を設けていた。
官品 | 日本1 | 北魏 | 北斉 | 隋2 | 唐・遼3 | 宋4 | 金 | 元 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
正一品 | 開国郡公 | 王 | 王 | 王 | 王 | 王 | ||
従一品 | 公 | 開国県公・散公 | 開国郡公 | 郡王・国公・開国郡公・開国県公 | 嗣王・郡王・国公 | 嗣王・郡王・国公 | 郡王・国公 | 郡王 |
正二品 | 侯 | 開国県侯 | 散郡公・開国県公 | 開国侯 | 開国郡公 | 郡公・開国郡公 | 郡公 | 国公 |
従二品 | 伯 | 散侯 | 散県公・開国県侯 | 開国県公・開国県侯 | 開国県公 | 郡公 | ||
正三品 | 子 | 開国県伯 | 散県侯・開国県伯 | 開国伯 | 郡侯 | 郡侯 | ||
従三品 | 散伯 | 散県伯 | 開国侯 | |||||
正四品 | 男 | 開国県子 | 開国県子 | 開国子 | 開国県伯 | 開国伯 | 郡伯・県伯 | 郡伯 |
従四品 | 散子 | 散県子 | ||||||
正五品 | 開国県男 | 開国県男 | 開国男 | 開国県子 | 開国子 | 県子 | 県子 | |
従五品 | 散男 | 開国郷男・散県男 | 開国県男 | 開国男 | 県男 | 県男 | ||
|
明代の爵位[編集]
明代になると皇族たる宗室と功臣や外戚との爵位が異なるようになった。宗室以外の者に与えられる爵位は当初古来からの五等であったが、後に子・男は保留されて公・侯・伯の三等となった。
一方、宗室に与えられた爵位はより複雑なものとなっている。太祖の時代に襲封の制度が定められた。皇子は親王に封ぜられ親王の嫡長子で10歳に達した者は王世子に立てられ、嫡長孫は王世孫に立てられ均しく一品が与えられた。10歳に達した諸子は郡王に封ぜられ郡王の嫡長子は郡王世子に、嫡長孫には郡王長孫に立てられ均しく二品が与えられた。諸子には鎮国将軍が授けられ従一品が与えられ孫には輔国将軍と従二品、曾孫には奉国将軍と従二品、玄孫には鎮国中尉と従四品、来孫には輔国中尉と従五品、六世以下には皆奉国中尉と従六品が授けられた。
清代の爵位[編集]
清代の爵位も明代と同様に宗室のものとモンゴル貴族のものと功臣・外戚のもとと分かれていた。宗室のものは和碩親王(ほしょしんのう)・多羅郡王(どろぐんおう)・多羅貝勒(どろべいれ)・固山貝子(ぐーさべいせ)・奉恩鎮国公(ほうおんちんこくこう)・奉恩輔国公(ほうおんほこくこう)・不入八分鎮国公(ふにゅうはちぶんちんこくこう)・不入八分輔国公(ふにゅうはちぶんほこくこう)・鎮国将軍・輔国将軍・奉国将軍・奉恩将軍があった。一般に爵位は世襲であるが、父の爵位より一級下のものとなる。ただし功勲などにより例外もあった。
ハーンやモンゴル貴族には親王・郡王・貝勒・貝子・公・一等-四等台吉(タイジ)・一等-四等塔布嚢(タブナン)が授けられていた。タイジは本来は太子の意でチンギス・ハーンの子孫の称号であった。タブナンはカラチン三旗とトメット左翼旗でタイジに相当する地位として用いられていた。
下の表は功臣・外戚の爵位の変遷である。
官品 | 天命5年(1620) | 天聡8年(1634) | 順治元年(1643) | 乾隆元年(1736) | 乾隆16年(1751) |
---|---|---|---|---|---|
超品 | 五備御之総兵官 | 一等公 | 一等-三等公 | 一等-三等公 | 一等-三等公 |
一等-三等侯 | 一等侯兼一雲騎尉・一等-三等侯 | 一等侯兼一雲騎尉・一等-三等侯 | |||
一等-三等伯 | 一等伯兼一雲騎尉・一等-三等伯 | 一等伯兼一雲騎尉・一等-三等伯 | |||
正一品 | 一等-三等総兵 | 一等-三等昂邦章京 | 一等-三等精奇尼哈番 | 一等子兼雲騎尉・一等-三等子 | 一等子兼雲騎尉・一等子-三等子 |
正二品 | 一等-三等副将 | 一等-三等梅勒章京 | 一等-三等阿思哈尼哈番 | 一等男兼一雲騎尉・一等-三等男 | 一等男兼一雲騎尉・一等-三等男 |
正三品 | 一等-二等参将 | 一等-三等甲喇章京 | 一等-三等阿達哈哈番 | 一等軽車都尉兼一雲騎尉・一等-三等軽車都尉 | 一等軽車都尉兼一雲騎尉・一等-三等軽車都尉 |
游撃 | |||||
正四品 | 備御 | 一等-二等牛録章京 | 一等-二等拜他喇布勒哈番 | 一等騎都尉兼一雲騎尉・一等-二等騎都尉 | 一等騎都尉兼一雲騎尉・一等-二等騎都尉 |
正五品 | 拖沙喇哈番 | 雲騎尉 | 雲騎尉 | ||
正七品 | 恩騎尉 |
外命婦の封号(女性の爵位)[編集]
女性に与えられる爵位に順ずる封号は古来から存在したが、基本的に皇族女子や夫・子によって授けられることが多かった。
唐代には皇伯叔母に大長公主、皇姉妹には長公主、皇女には公主、皇太子の娘には郡主、王の娘には県主、王の母や妻には妃が授けられた。皇室以外では夫や子の品階や爵位によって授けられた。一品及び国公の母・妻には国夫人が、三品以上の母・妻には郡夫人が、四品以上の母・妻には郡君が、五品以上の母・妻には県君が、散官や同職事には郷君がそれぞれ封ぜられた。
宋代では当初は唐とほぼ同様の制度が用いられていたが、公主から帝姫に一時期変更されていたことがあった。また郡君を淑人・碩人・令人・恭人に、県君を室人(後更に宜人)・安人・孺人に分けるようになった。
明代では公の母・妻は国夫人、侯の母・妻は侯夫人、伯の母・妻は伯夫人が授けられた。また、一品は夫人が授けられていたが、後には一品夫人と呼ぶようになった。二品は夫人、三品は淑人、四品は恭人、五品は宜人、六品は安人、七品は孺人がそれぞれ授けられた。
なお、母・祖母などには「太」の字が加えられた(国太夫人や郡太君、伯太夫人など)。これは皇太后・太皇太后などの用例と同じものだと考えられる。
琉球王国の爵位[編集]
琉球王国には身分序列に応じて王子(おーじ)・按司(あじ・あんじ)・親方(うぇーかた)・親雲上(ぺーちん・ぺーくみー)・里之子(さとぅぬし)・筑登之(ちくどぅん)など爵位に準じた称号がある。
女性については王妃を佐敷按司加那志(さしきあじがなし)、側室を阿護母志良礼(あぐんしたり・あごもしられ)、王の乳母などの女官を阿母志良礼(あんしたり・あもしられ)などと称した。また、臣下に嫁した王女および王子の妃は翁主(おうしゅ)と呼んだ。
琉球王国の称号および位階については、詳しくは琉球の位階を参照されたい。
日本における爵位[編集]
日本での爵位制度は明治17年(1884年)7月7日の「華族授爵ノ詔勅」が下され、公卿・諸侯と国家功労者に公・侯・伯・子・男の五爵を授けられたことに始まる。その後、朝鮮貴族令(明治43年皇室令第14号)により朝鮮貴族にも爵位が授けられるようになった。昭和22年(1947年)5月3日、日本国憲法施行に伴い、華族廃止と共に廃止となる。
なお、古代にも爵位ではないが八色の姓(やくさのかばね)のような姓(かばね)という類似する制度があった。
ヨーロッパにおける爵位[編集]
ヨーロッパの爵位は総じて一定の行政区域を支配した官職より発祥したものである。すなわち爵位はある家系そのものに対して与えられているのではなく所領(公爵領、侯爵領、伯爵領など)に対して与えられているのであって、爵位の継承とは言い換えればこうした所領の継承のことである。こうした点において、家系そのものに与えられている日本の爵位とは著しくその意味合いが異なることに注意が必要である。例えばある一つの家が複数の爵位を保持している状況は日本においては考えられないがヨーロッパの場合はその爵位の根拠となる所領を保持していることが爵位の保持であるから、ある家が7つも8つも爵位を保持していることは決して珍しくはない。こうした複数の爵位を保持する家の場合、もっとも重要な爵位以外を切り離して嫡男以外に分け与えることもある。
和訳に際しては中国や日本の爵位と相当した名称を当てているがヨーロッパの爵位の場合、東洋の爵位と厳密には対応するとはいい難い。但し、東洋の爵位の上下の序列をヨーロッパの爵位におおよその順番を踏襲して当てはめた訳語が伝統的に当てられている。この対比表はあくまで一例を挙げた物で、実際にある国の爵位が別の国のどの爵位と同じかということは時代と共に変化しているので一概には言えない。プリンス、公、侯も参照のこと。なお、古代ローマ帝国や東ローマ帝国などではこれと全く違う体系の爵位が用いられていた。en:Royal and noble ranksを参照のこと。
日本語 | 英語 | フランス語 | イタリア語 | スペイン語 | ドイツ語 | ノルウェー語 | スウェーデン語 | フィンランド語 | ロシア語 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
大公 | Grand Duke | Grand duc Prince |
Granduca | Grossherzog6 | ||||||
公爵 | Duke | Duc | Duca | Duque | Herzog | Hertug | Hertig | Herttua3 | князь | Kniaz4 |
(公爵) | Prince1 | Principe | Príncipe | Furst3 | Furste3 | Ruhtinas3 | ||||
侯爵 辺境伯 |
Marquess Margrave |
Marquis | Marchese | Marques | Fürst Markgraf2 |
Marki | Markis3 | Markiisi3 | Боярин | Boyar4 |
伯爵 | Earl Count |
Comte | Conte | Conde | Graf | Greve | Greve | Kreivi | ||
子爵 副伯 |
Viscount | Vicomte | Visconte | Vizconde | Visegreve | |||||
男爵 | Baron | Baron | Barone | Freiherr | Baron | Friherre | Paroni | |||
準男爵 | Baronet5 | Baronetto | ||||||||
勲功爵 勲爵士 騎士 |
Knight5 | Chevalier | Cavalliere | Caballero | Ritter | Ridder | Riddare3 | Ritari | ||
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Duke[編集]
語源であるラテン語Duxは古代ローマの最高司令官を意味する。しだいにローマ帝国は異民族の首長にDuxの称号を与えるようになった。4世紀には文官と武官が分かれ、duxはそれぞれの軍団の司令官の職名に使われた。同様のComes mei militarisはDuxの部下であり、のちCountとなる。フランク人はローマの影響を受けてDux/Duces(将軍)が用いられた。Duxは軍団の司令官であり、同時に郡の執政となった。シャルルマーニュが辺境を平定したのち諸氏族の氏族長にもDux/Ducesの称号が与えられ、フランク王国の宗主権を認めさせた。これらの称号は世襲され、公爵領となった。いっぽうでDux/Ducesは王子にも用いられる習慣も広がった。この制度はフランク以外の地域にも広がり、イングランドではエドワード黒太子が初の公爵(コーンウォール公)となった。
Marquess[編集]
Marquessはゲルマン人の称号Markgraf(marka境界線+Graf伯)に由来し、しばしば「辺境伯」と訳される。英語ではMargraveと綴る。はじめはカロリング朝フランクで辺境を守る武将の役職名でフランク王国東部のローマ帝国との国境線に多く配された。しだいに貴族の称号となってゆき、Dukeの次、CountないしEarlの上という序列がつくられた。その後ヨーロッパ各国もこれを導入し、13世紀から14世紀にかけてMargrave/Marquessは貴族の称号として一般的に定着していった。
Earl[編集]
9世紀、スカンジナビアのデーン人が非王族軍指揮官として任命したのが始まりである。石碑や出土した武器などからHerul/Jarlの文字が見つかっているが、そもそもは北欧神話の神・Rígの伝説に端を発する。
Rígは旅の途中で農民の老夫婦の家に泊まり、老夫婦はRígに粗末な食事を出した。9ヶ月後、夫婦の間に子ができ、褐色の肌を持つ子はThrall/Serfと名付けられた。これが奴隷(slave)の祖先である。次に辿りついたのは工芸職人の家で、彼らはRígにより上質な食事を提供した。やはり9ヶ月後に職人夫婦の間に子が生まれ、Karlと呼ばれるようになった。赤毛で赤ら顔のKarlは農民・職人の始祖となった。最後に泊まったのは豪邸で、豪邸の若夫婦はすばらしい食事を出した。その後同様に子ができた。その赤子は金髪碧眼でJarlと名付けられ、貴族の祖先とされた。
デーン人はイングランドに移住してからもEarlを用いた。「太守」もしくは「伯」と訳され、各州に配置されて州の統治が任務だった。当初は一代かぎりの役職だったが、すぐに世襲されるようになった。のちにヨーロッパ各国のCountと同じように用いられるようになり、12世紀以降は役職名ではなく称号として用いられた。
Count[編集]
ローマ帝国のComesは廷臣の階級のひとつであった。文官のComesと武官のComesがあり、Duxが部下として指名した。中世のフランク王国やゲルマン地域ではCount Palatine(パラティンとよばれる自治州を領有し、そのなかではほぼ完全な自治権を有していた)、Comes Sacrarum Largitionum(王室財政を管掌する職)などがあった。当初は任命制だったがその強大な権力により次第に世襲されるようになった。中世になると伯爵領はCountyと呼ばれるようになり、これが現在の州「カウンティ」に受け継がれている。領主としての伯爵の地位は近世以降しだいに称号化し、他の爵位をあわせて社会の序列をあらわす名称へと変化していった。
Viscount[編集]
「副伯」と言うニュアンスでフランス、スペイン等で使われていた。イングランドではシェリフ相当の爵位として14世紀に創設された。ドイツ語圏では都市伯(Burgrave)がこれに相当すると言える。
Baron[編集]
自由民を表す言葉で後に領主一般を指す言葉となり、最終的にViscount以上の爵位を持たない領主の爵位(男爵)となった。ドイツ語圏やスコットランドでは男爵に相当するものにFreiherrやLord of parliamentが使われ、Baronはそれより低い称号になっている。スコットランド語でBaronyは荘園を意味し、荘園領主・小規模領主にBaronが用いられた。
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