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ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ(1906年9月17日 - 1996年11月1日)は、かつて1978年から1989年までスリランカ大統領を勤めた。彼は英国統治下のセイロンで頭角を現し、独立後、内閣で要職を務めた。1977年から1978年まで首相だった。
目次
経歴[編集]
J.R.ジャヤワルダナは11人兄弟の長男としてセイロンの最高裁判所判事の息子として生まれた。ロイヤル・カレッジ・コロンボで学んだ。1925年、クリケットの選手としてロイヤル-トミアンに出場した。
ジャヤワルダナはキリスト教から仏教に改宗した。コロンボ法科大学で優秀な成績を修め、法律家となった。
法曹界には長くは留まらなかった。1938年、セイロン国家機構 (CNC) の活動家となった。
1946年、国民連帯同盟へ加入、1947年、初代蔵相として入閣、1951年、国連に蔵相として参加。同年、サンフランシスコ講和会議にセイロン代表として出席。
「日本の掲げた理想に独立を望むアジアの人々が共感を覚えたことを忘れないで欲しい」と述べ、「憎悪は憎悪によって止むことはなく、慈愛によって止む」という仏陀の言葉を引用して日本に対する賠償請求を放棄する演説を行い、日本が国際社会に復帰する道筋を作った。1977年、スリランカ建国に貢献した。
姓のジャヤワルダナは「勝利をもたらす」を意味する。1983年、スリランカの首都をコロンボから古都コッテへ遷都するに当たり、コッテがかつてジャヤワルダナと呼ばれていたことに加え、彼自身の姓をも絡めてスリジャヤワルダナプラコッテ(輝ける勝利をもたらす町・コッテ)と改称の上、遷都させた。
「アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊敬のため」[編集]
1951(昭和26)年9月6日午前11時、スリランカ代表のJ ・R・ジャヤワルダナの演説が始まった。舞台は米国サンフランシスコ講和会議である。51カ国からの代表が集まって、日本との講和条約を結び、 日本の独立を認めるかどうかを議論する場であった。
米国が中心となって、日本の独立を認める講和条約案がまとめられていたが、ソ連は日本の主権を制限する対案を提出し、さらに中国共産党の出席を求めたりして、審議引き延ばしを図っていた。
ジャヤワルダナ代表は、自らはスリランカ代表ではあるが、 「日本の将来に対するアジアの人々の全般的態度における彼ら の感情をも述べうる」として、こう語った。
アジアの諸国、セイロン、インド及びパキスタンの日本に対する態度を活気づけた主要な理念は日本は自由であるべきであるということであります。 「自由であるべき」とは、日本の占領を解いて、独立を回復させるべき、という意味である。
講和条約への賛成を表明した後、ジャヤワルダナ代表はその理由を述べた。
それは日本とわれわれの長年の関係のためであり、そしてまたアジアの諸国民の中で、アジア隷従人民が日本に対して抱いていた高い尊敬のためであります。 私は、アジアに対する共栄のスローガンが隷従人民に魅力のあったこと、そしてビルマ、インド及びインドネシアの指導者のあるものが、 国々が解放されるかも知れないという希望によって、日本人と同調したという前大戦中に起こった出来事を思い出すことができるのであります。 「共栄のスローガン」とは、日本が大戦中に唱えた「[[大東亜共栄圏]]」のことであり、 実際に欧米諸国の植民地支配からの独立を目指す国々の代表が東京に集まって、「大東亜会議」が開催されている。 さらにビルマ、インド、インドネシアでは、日本が支援して設立された独立軍が、これらの国々の独立戦争に大きな役割を果たした。
ジャヤワルダナ代表は、「日本に対する賠償請求権を放棄する」と続け、その理由として、 仏陀の「憎悪は憎悪によって消え去るものではなく、ただ愛によってのみ消え去るものである」を引いた。
ジャヤワルダナの演説が終わると、賞賛の声の嵐で会場の窓のガラスが震えるほどであったと『サンフランシスコ・ニュース』は報じている。
また米紙は「褐色のハンサムな外交官が、国家間の礼節と寛容を声高く説き、鋭い理論でソ連の策略を打ち破った」と評した。
この後、ソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く49カ国が講和条約に署名し、翌年4月28日、日本はついに独立を回復したのだった。
皇太子のお召し艦を一目見ようと胸を弾ませて港に赴いた少年[編集]
1921(大正10)年3月、日本の巡洋艦『香取』がスリランカを訪れた。当時、皇太子であった昭和天皇をお乗せして、ヨーロッパに向かう途上であった。
皇太子のお召し艦を一目見ようと港に集まった人々の中に、 一人の少年がいた。15歳のジャヤワルダナであった。ジャヤワルダナは、昭和54(1979)年、国賓として来日した際に、宮中の歓迎晩餐会にて次のように語っている。
外国の統治の下では、人々の信仰や言葉、慣習などはほとんど消え去りそうになっていました。 このことから、私達だけではなく、西欧の帝国主義の下で同じような運命によって苦しんでいる全てのアジアの国民達は日本を称賛し、尊敬していたのです。 先の80年の間、日本はアジアにおいて独立国として立ち上がっていたのです。 西欧の列強が、その軍事力と貿易力によって世界を支配していた時に、あなた達は彼等と競い、匹敵し、時には打ち負かしていました。 陛下が1920年代に皇太子としてスリランカを訪れた際には、私は気持ちを高ぶらせて陛下が乗船されている艦を一目見ようと港に行ったものでした。
当時の日本は、日英同盟のもと、第一次大戦をイギリスと共に戦って勝利し、世界の強国として頭角を現しつつあった。
自分たちと同じアジア民族で、かつ共に仏教を信奉する日本の皇太子が、自国の巡洋艦で対等の同盟国であるイギリスに赴くという出来事は、 「自分たちもいつかは独立を」という希望をスリランカの人々に抱かせたに違いない。
政治家としての経歴[編集]
蔵相をはじめとして、首相、大統領と要職を務めた。 ジャヤワルダナは1977年、無投票で首相に選ばれ精力的に活動した。1978年、初代大統領になった。
日本との関係[編集]
閣僚・首相・大統領としてたびたび訪日、更に政界引退後も日本を訪れている。
また日本の仏教関係者をスリランカに招待するなど日本とスリランカの交流に尽力した。
1989年、昭和天皇の大喪の礼に本人の希望により夫人とともにプレマダーサ大統領に代わって参列。既に肩書きは「前大統領」だったが、元首級参列者・大統領同格の国賓として待遇された。
1991年には日本の仏教関係者の招待で広島市を訪れ、広島平和記念資料館を見学している。1996年、死去に際し献眼、角膜提供。「右目はスリランカ人に、左目は日本人に」との遺言により、片目は日本に贈られた。
参考文献[編集]
- De Silva, K. M., & Wriggins, W. H. (1988), J.R. Jayewardene of Sri Lanka: a political biography, University of Hawaii Press ISBN 0824811836
- Jayewardene, J. R. (1988), My quest for peace: a collection of speeches on international affairs, テンプレート:OCLC
- Dissanayaka, T. D. S. A. (1977), J.R. Jayewardene of Sri Lanka: the inside story of how the Prime Minister led the UNP to victory in 1977, Swastika Press テンプレート:OCLC