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− | [[Image:水野遼.jpg|300px|thumb| | + | * [[1984年]]卒の[[中元哲也]] - 駿台東大模試で3回連続1位。[[東大理Ⅲ]]トップ入学。現在は[[医科歯科大]]の特任教授(非常勤) |
+ | * [[1987年]]卒の[[岡田康志]] - 高2で駿台東大模試1位。理Ⅲトップ入学。現在は東大の教授 | ||
+ | * [[1988年]]卒の[[久野慎司]] - 高2で駿台東大模試1位。理Ⅲを蹴って[[京大]]医学科トップ入学。現代は松戸で開業医 | ||
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+ | * [[1998年]]卒の[[立川裕二]] - 中3で[[日本数学五輪]]銀、[[世界数学五輪]]銀2回、東大模試1位。[[東大理I]]から[[物理学]]科に進み、現在は[[数物連携宇宙研究機構]]助教授 | ||
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* 2009年3月 - 灘高校卒 (2008年第2回東大実戦模試全国1位 総合偏差値91) | * 2009年3月 - 灘高校卒 (2008年第2回東大実戦模試全国1位 総合偏差値91) | ||
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* 2009年12月 - 大学1年 [[公認会計士]] 短答式試験合格(学習期間約3ヶ月) | * 2009年12月 - 大学1年 [[公認会計士]] 短答式試験合格(学習期間約3ヶ月) | ||
* 2010年8月 - 大学2年 公認会計士 論文式試験合格 | * 2010年8月 - 大学2年 公認会計士 論文式試験合格 | ||
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* [http://nada-sc.mine.nu/ 灘校生徒会公式ウェブサイト] | * [http://nada-sc.mine.nu/ 灘校生徒会公式ウェブサイト] | ||
* [http://nada-sc.mine.nu/nadanewsnet/ 灘校Web新聞] | * [http://nada-sc.mine.nu/nadanewsnet/ 灘校Web新聞] | ||
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灘中学校・高等学校(なだちゅうがっこう・こうとうがっこう)は、兵庫県神戸市東灘区にある私立の中高一貫制男子校である。
学力日本一の高校である。
『灘』となっているが、神戸市灘区にはなく東灘区に所在する。
概要[編集]
1928年(昭和3年)開校。設置者は学校法人灘育英会。校舎のうち、事務棟として現在も使用中の本館は国の登録有形文化財に登録されている。
アクセス[編集]
沿革[編集]
灘地方で酒造業を営む、嘉納治郎右衛門(菊正宗)、嘉納治兵衛(白鶴)、山邑太左衛門(櫻正宗)によって設立された。同様に酒造業者が設立した学校として甲陽学院がある。
設立にあたっては白鶴嘉納家の縁戚で、講道館柔道の創始者であり、東京高等師範学校(現・筑波大学)やその附属校(現・筑波大附属中・高)などの学校長職を25年間ほど務めた嘉納治五郎が顧問として参画。治五郎が柔道の精神として唱えた「精力善用」「自他共栄」が校是となった。(この嘉納治五郎の影響で柔道の時間が体育とは別に週1時間ある。)
初代校長は東京高師の数物化学科を卒業後各地で教職を歴任していた眞田範衞が治五郎からの要請で就任。眞田は灘校の「教育の方針」を定め、自ら校歌・生徒歌も作詞した。1927年(昭和2年)10月24日に設置認可を受け、この日を創立記念日とする。その翌年に開校。
当時は神戸一中や二中に入学できなかった者が入学してきたが、当初から公立中学を抜かすことを考えていた様で、学力向上に力を入れ、学力別にA・B・C・Dに学級分けにした。第二次世界大戦前は柔道部の活躍の方が有名であった。
第二次世界大戦後、公立高校の学区制度が実施された為、戦後から昭和40年代にかけて徐々に東京大学への進学校として台頭してきた。1968年(昭和43年)度東大入試において、それまでトップの座に君臨してきた東京の日比谷高校を抜き去り、私学では初めて単独での東大合格者数首位の座を掴む。以来、東大合格者数トップ校の一角を占める学校として知られる。
1995年1月17日早朝に発生した阪神・淡路大震災(兵庫県南部地震)では、当校も被災した。学校の保健室が臨時の診療所として使用され、体育館は緊急の遺体安置所として使用された。
校風[編集]
制服の着用義務が無い他、明文化された校則を有せず、風紀について大部分を生徒の良識に委ねるなど、自由な校風を特徴とする。遠足など、校外行事においては現地集合、現地解散が慣習となっており、この事からも校風の自由さを見いだせる。生徒をできるだけ紳士として扱おうとしており、サンダル、半ズボン、ランニングシャツなどによる登校は禁止されている。
また、設立の経緯から、現在でも中学校及び、高校1年次では、柔道が全員必修になっている。
灘・甲南定期戦[編集]
毎年6月に甲南中学校・高等学校と灘・甲南定期親善試合を催している。
甲南学園は戦前、主に帝国大学入学を志す生徒が集まる旧制七年制高等学校であったが、学制改革により、新制の甲南大学と甲南中高に改組する。同じくして新制高等学校となった灘校から多数の生徒が甲南大に入学した。その事が縁で甲南と灘校の間で交流戦が始まり、現在に至る。1年ごとに開催場所を交代(奇数年は甲南、偶数年は灘)している。
灘高トップのその後[編集]
- 1984年卒の中元哲也 - 駿台東大模試で3回連続1位。東大理Ⅲトップ入学。現在は医科歯科大の特任教授(非常勤)
- 1987年卒の岡田康志 - 高2で駿台東大模試1位。理Ⅲトップ入学。現在は東大の教授
- 1988年卒の久野慎司 - 高2で駿台東大模試1位。理Ⅲを蹴って京大医学科トップ入学。現代は松戸で開業医
- 1991年卒の北上田敦 - 1990年、国際数学オリンピック北京大会日本代表。京大理学部生物学科トップ入学。京大在学中に病死
- 1998年卒の立川裕二 - 中3で日本数学五輪銀、世界数学五輪銀2回、東大模試1位。東大理Iから物理学科に進み、現在は数物連携宇宙研究機構助教授
- 2001年卒の籠谷勇紀 - 東大実戦で偏差値105オーバーでダントツ1位。現在は勤務医
水野遼[編集]
詳しくは、水野遼を参照。
水野遼は、当校の卒業生で、東京大学卒業の人物である。
- 2009年3月 - 灘高校卒 (2008年第2回東大実戦模試全国1位 総合偏差値91)
- 2009年4月 - 大学1年 東京大学理科三類入学
- 2009年12月 - 大学1年 公認会計士 短答式試験合格(学習期間約3ヶ月)
- 2010年8月 - 大学2年 公認会計士 論文式試験合格
- 2011年1月 - 大学2年 大学受験参考書発売 「東大理三生が教える「満点を取る!!!」アルバトロス現代文」 (YELL books)
- 2011年5月 - 大学3年 司法試験予備試験合格(論文式試験2位合格)
- 2012年9月 - 大学4年 司法試験合格