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+ | *{{Harvtxt|シンガポール日本人会|2004|p=167}}は、大平源四を、シンガポールでゴム園を経営していた人物、としている。{{Harvtxt|シンガポール日本人会|2004|p=30}}は、{{仮リンク|ブラス・バサー路|en|Bras Basah Road}}の[[ラッフルズ・ホテル]]近くで「大平洋服店」を経営していた、としており、ゴム園を所有していたかには言及していない。 | ||
+ | *{{Harvtxt|許|1986|p=230}}は、1938年頃、[[シンガポール日本人会]]が、島の北部、市区から5.5マイル離れた{{仮リンク|トムソン路|en|Thomson Road, Singapore}}の丘の上、[[永福虎]](えいふく とら)所有のゴム園の中に「照南神社」を建立した、としている。 | ||
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+ | 祭神は[[天照大神]]で、名目上の神官として永田重彦が管理していた{{Sfn|シンガポール日本人会|2004|p=167}}{{Sfn|許|1986|p=230}}{{Sfn|篠崎|1978|p=62}}。 | ||
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== 拡張計画 == | == 拡張計画 == | ||
− | + | 1942年2月の日本軍のシンガポール占領直後、[[第25軍 (日本軍)|第25軍]]参謀・[[林忠彦 (軍人)|林忠彦]]少佐は、当時在留日本人の家庭で使用人をしていて、戦乱の中で家の裏にあった祠の御神体を安全な場所に移していたという2人の[[マレー人]]を表彰すると発表し、更に市の職員に「戦前からシンガポールにあった神社や祠の管理はどうなっているか」と尋ねた{{Sfn|津吉|1953|p=111}}{{Sfn|篠崎|1978|p=62は、1人のマレー人が、照南神社のご神体である御幣とお札を保管して{{仮リンク|フォート・カニング|en|Fort Canning}}にあった警備隊司令部に出頭し、[[シンガポール華僑粛清事件|華僑粛清]]のため軍司令部から警備隊司令部に派遣されてきていた林少佐に感謝されていた、としている。}}。 | |
− | + | 職員が「今は占領直後で、電気・水道の修理や混乱した市内の秩序回復に忙しく、神社まではとても手が回らない」と答えると、林は「狂信者に特有の、物凄い憤怒の形相」をあらわし、「貴様等のそういう根性が腐っているのだ。神社にまで手が回らないとはなにごとだ。何のための秩序回復か。さっそく皆と相談して具体策を立てて持って来い」と怒鳴った{{Sfn|津吉|1953|p=111-112}}。 | |
− | [[ジョホール王国|ジョホール]]の[[スルターン|スルタン]]は神社建立のため[[マライ軍政監部|軍政監部]]財務部に5, | + | 間もなく照南神社を拡張し{{Sfn|許|1986|p=230}}、シンガポール郊外の{{仮リンク|マクリッチ水源地|en|MacRitchie Reservoir}}西端の{{仮リンク|シンガポール・アイランド・カントリークラブ・ゴルフ場|label=シンガポール・アイランド・クラブ・ゴルフ場|nl|Singapore Island Country Club#The Island Club}}にかかる一帯に、新たに「昭南神社」を建立する計画が発表された{{Sfn|津吉|1953|p=111-112}}{{Sfn|篠崎|1976|p=212は、神社の設営にあたり後述の横山部隊が昭南島内の景勝地で[[伊勢神宮]]の地形に似た場所を物色して場所を選定した、としているが、{{Harvtxt|津吉|1953|p=112}}は、建設予定地も含めた計画が発表された、としている。}}。 |
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+ | [[ジョホール王国|ジョホール]]の[[スルターン|スルタン]]は神社建立のため[[マライ軍政監部|軍政監部]]財務部に5,000ドルの寄付をした{{Sfn|許|1986|p=230}}。 | ||
+ | *{{Harvtxt|小田部|1988|p=149}}によると、ジョホールのスルタンは、1942年9月13日に「忠霊塔記念寄附」として[[マライ軍政監部#軍政顧問|軍政顧問]]だった[[徳川義親]]に5,000円を渡している。 | ||
== 造営 == | == 造営 == | ||
− | + | 軍司令部は、横山部隊(第15独立工兵連隊{{Sfn|二松|1987|pp=78-81。[[マレー作戦]]で英軍が破壊した橋梁の復旧工事に携わった{{Harv|篠崎|1976|p=212}}。}})に神社造営を命令し、工事は1942年5月頃から同年10月までの間{{Sfn|二松|1987|pp=77-78,80}}、連合軍の捕虜2万人を使役して行われた{{Sfn|篠崎|1976|pp=212-213}}。 | |
− | + | 建設途中、乾季が終わろうとする頃に、横山部隊は[[インパール作戦]]参加のため[[ビルマ]]へ転進し、田村部隊(工兵第5連隊)が工事を引き継いだ{{Sfn|二松|1987|p=79}}{{Sfn|篠崎|1976|p=213は、神社の完成後、横山工兵大佐は「造園の天才」と称賛された、としている。}}。 | |
+ | *横山部隊の兵士は捕虜に対して高圧的に接し日常的に平手打ちなどの暴力を振るったため評判が悪く、田村部隊の将兵は捕虜に対して対等に接したため、捕虜に感謝された{{Sfn|二松|1987|pp=78-81}}{{Sfn|エドワーズ|1992|pp=70-71}}。特に田村部隊の態度は他の日本軍部隊の態度とは大きく異なっていたという{{Sfn|エドワーズ|1992|pp=70-71}}。 | ||
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+ | 1942年10月かそれ以降に昭南神社は竣工した{{Sfn|二松|1987|p=80}}{{Sfn|津吉|1953|p=112}}。 | ||
+ | *竣工時期について、{{Harvtxt|二松|1987|p=80}}は、1942年10月に[[昭南忠霊塔|忠霊塔]]と同時に竣工したとしており、式典が挙行されて、神社建設に使役されていた捕虜は同年11月に[[泰緬鉄道建設捕虜虐待事件|泰緬鉄道の建設現場]]に移された、としている。 | ||
+ | *{{Harvtxt|津吉|1953|p=112}}は、1943年の正月には大部分が完成していた(がまだ未完成だった)としている。 | ||
+ | *{{Harvtxt|篠崎|1976|p=213}}は、遷宮祭の開催を1942年11月の佳日としているが、{{Harvtxt|篠崎|1978|p=63}}は1943年初の佳日としている。 | ||
+ | *なお忠霊塔は、徳川義親の日記によると同年9月10日に除幕式が行なわれており{{Sfn|小田部|1988|p=149}}、昭南神社より先に竣工したことが確からしい。 | ||
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+ | ゴルフ場のクラブハウスの横からコースを横切って参道が作られ、西から水源地に注ぐ小川を[[五十鈴川]]に見立てて、その上に朱塗りの[[太鼓橋]]が架けられ、橋の前後に鳥居が立てられ、玉砂利を敷き、橋を渡ったところから石段を造成、拝殿と神殿は日本から運んだ檜材を使い、総檜造りで建てられた{{Sfn|篠崎|1976|pp=212-213}}{{Sfn|津吉|1953|pp=112}}。 | ||
== 遷宮祭 == | == 遷宮祭 == | ||
− | 竣工後、神社の管理は[[昭南特別市]] | + | 竣工後、神社の管理は[[昭南特別市]]に移され、日本から中村宮司とその助手として本田神官が着任して、1942年11月{{Sfn|篠崎|1976|p=213}}または1943年初{{Sfn|篠崎|1978|p=63}}の[[佳日]]に「昭南神社遷宮祭」が行われた{{Sfn|篠崎|1978|p=63}}{{Sfn|篠崎|1976|p=213}}。 |
− | + | 遷宮祭では、[[大達茂雄|大達]]市長が祭主となり、[[寺内寿一|寺内]][[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総司令官以下が[[玉串奉奠]]をし、その後現地人各団体代表が礼拝した{{Sfn|篠崎|1978|p=63}}{{Sfn|篠崎|1976|p=213}}。 | |
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+ | *{{Harvtxt|シンガポール日本人会|2004|p=167}}は、建立した軍自らによって爆破された、としている。 | ||
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+ | *{{Harvtxt|リー|2007|p=102}}は、解放軍によって取り壊された、としている。 | ||
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− | * {{ | + | *{{Aya|リー|year=2007}} リー・ギョクボイ(著)シンガポール・ヘリテージ・ソサイエティ(編)越田稜(訳)『日本のシンガポール占領-証言=「昭南島」の3年半』凱風社、ISBN 9784773631029 |
− | * {{ | + | *{{Aya|シンガポール日本人会|year=2004}} シンガポール日本人会・史蹟史料部『戦前シンガポールの日本人社会 - 写真と記録 改訂版』シンガポール日本人会、{{JPNO|21162150}} |
− | * {{ | + | *{{Aya|エドワーズ|year=1992}} ジャック・エドワーズ(著)薙野慎二・川島めぐみ(訳)『くたばれ、ジャップ野郎! - 日本軍の捕虜になったイギリス兵の記録』径書房、ISBN 4770501102 |
− | * {{ | + | *{{Aya|小田部|year=1988}} 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、ISBN 4250880192 |
− | * {{ | + | *{{Aya|サイレンバーグ|year=1988}} ジョン・バートラム・ヴァン・サイレンバーグ(著)幸節みゆき(訳)『思い出のシンガポール - 光の日々と影の日々』幻想社、ISBN 4874680550 |
− | * {{ | + | *{{Aya|二松|year=1987}} 二松慶彦「昭南島の頃」シンガポール日本人会(編)『「南十字星」創刊20周年記念復刻版』{{JPNO|88090020}}、pp.74-82 |
− | ** | + | **Geoffrey Pharaoh Adams, ''No time for geishas'' Leo Cooper London, 1976 からの抄訳{{Harv|二松|1987|p=75}} |
− | * {{ | + | *{{Aya|許|year=1986}} 許雲樵「5 昭南時代の新聞事業」許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、ISBN 4250860280、pp.227-235 |
− | * {{ | + | *{{Aya|篠崎|year=1978}} [[篠崎護]]「シンガポール占領と『昭南』時代 - 私の戦中史」{{Harv|シンガポール日本人会|1978|pp=57-79}} |
− | * {{ | + | *{{Aya|シンガポール日本人会|year=1978}} シンガポール日本人会(編)『「南十字星」10周年記念復刻版 - シンガポール日本人社会の歩み』シンガポール日本人会、{{JPNO|79090009}} |
− | * {{ | + | *{{Aya|篠崎|year=1976}} 篠崎護『シンガポール占領秘録‐戦争とその人間像』原書房、{{JPNO|73016313}} |
+ | *{{Aya|津吉|year=1953}} 津吉英男「乱れた軍政」田村吉雄(編)『秘録大東亜戦史 6. マレー・太平洋島嶼編』富士書苑、pp.108-121、{{NDLJP|2991801/57}}{{閉}} | ||
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2020年8月17日 (月) 23:12時点における最新版
完成間近の昭南神社 昭南神社(しょうなんじんじゃ)は、第2次世界大戦中、シンガポールを占領した日本軍が、1942年10月かそれ以降に市内のマクリッチ水源地 に建立した神社。泰緬鉄道建設以前に、連合軍の捕虜約2万人を使役して建設された。竣工後に「昭南神社遷宮祭」が催され、1943年1月20日にはイスラム教徒であるマラヤ・スマトラ各州のスルタンに参拝を強要した。1945年8月の日本軍降服後に取り壊された。
照南神社[編集]
1922年(大正11)2月11日、大平源四が、トムソン路 がアッパー・トムソン・ロードに名を変える辺りの小高い丘の上にあった自己のゴム園内に「照南神社」を建立した[1]。
- シンガポール日本人会 (2004 167)は、大平源四を、シンガポールでゴム園を経営していた人物、としている。シンガポール日本人会 (2004 30)は、ブラス・バサー路 のラッフルズ・ホテル近くで「大平洋服店」を経営していた、としており、ゴム園を所有していたかには言及していない。
- 許 (1986 230)は、1938年頃、シンガポール日本人会が、島の北部、市区から5.5マイル離れたトムソン路 の丘の上、永福虎(えいふく とら)所有のゴム園の中に「照南神社」を建立した、としている。
祭神は天照大神で、名目上の神官として永田重彦が管理していた[2][3][4]。
シンガポール日本人会 (2004 167)および篠崎 (1978 62)は、戦前の在留日本人からは「大神宮」として親しまれ、正月や七五三、結婚式などに参拝していた、としている。
拡張計画[編集]
1942年2月の日本軍のシンガポール占領直後、第25軍参謀・林忠彦少佐は、当時在留日本人の家庭で使用人をしていて、戦乱の中で家の裏にあった祠の御神体を安全な場所に移していたという2人のマレー人を表彰すると発表し、更に市の職員に「戦前からシンガポールにあった神社や祠の管理はどうなっているか」と尋ねた[5][6]。
職員が「今は占領直後で、電気・水道の修理や混乱した市内の秩序回復に忙しく、神社まではとても手が回らない」と答えると、林は「狂信者に特有の、物凄い憤怒の形相」をあらわし、「貴様等のそういう根性が腐っているのだ。神社にまで手が回らないとはなにごとだ。何のための秩序回復か。さっそく皆と相談して具体策を立てて持って来い」と怒鳴った[7]。
間もなく照南神社を拡張し[3]、シンガポール郊外のマクリッチ水源地 西端のシンガポール・アイランド・クラブ・ゴルフ場 にかかる一帯に、新たに「昭南神社」を建立する計画が発表された[7][8]。
ジョホールのスルタンは神社建立のため軍政監部財務部に5,000ドルの寄付をした[3]。
造営[編集]
軍司令部は、横山部隊(第15独立工兵連隊[9])に神社造営を命令し、工事は1942年5月頃から同年10月までの間[10]、連合軍の捕虜2万人を使役して行われた[11]。
建設途中、乾季が終わろうとする頃に、横山部隊はインパール作戦参加のためビルマへ転進し、田村部隊(工兵第5連隊)が工事を引き継いだ[12][13]。
- 横山部隊の兵士は捕虜に対して高圧的に接し日常的に平手打ちなどの暴力を振るったため評判が悪く、田村部隊の将兵は捕虜に対して対等に接したため、捕虜に感謝された[14][15]。特に田村部隊の態度は他の日本軍部隊の態度とは大きく異なっていたという[15]。
1942年10月かそれ以降に昭南神社は竣工した[16][17]。
- 竣工時期について、二松 (1987 80)は、1942年10月に忠霊塔と同時に竣工したとしており、式典が挙行されて、神社建設に使役されていた捕虜は同年11月に泰緬鉄道の建設現場に移された、としている。
- 津吉 (1953 112)は、1943年の正月には大部分が完成していた(がまだ未完成だった)としている。
- 篠崎 (1976 213)は、遷宮祭の開催を1942年11月の佳日としているが、篠崎 (1978 63)は1943年初の佳日としている。
- なお忠霊塔は、徳川義親の日記によると同年9月10日に除幕式が行なわれており[18]、昭南神社より先に竣工したことが確からしい。
ゴルフ場のクラブハウスの横からコースを横切って参道が作られ、西から水源地に注ぐ小川を五十鈴川に見立てて、その上に朱塗りの太鼓橋が架けられ、橋の前後に鳥居が立てられ、玉砂利を敷き、橋を渡ったところから石段を造成、拝殿と神殿は日本から運んだ檜材を使い、総檜造りで建てられた[11][17]。
遷宮祭[編集]
竣工後、神社の管理は昭南特別市に移され、日本から中村宮司とその助手として本田神官が着任して、1942年11月[19]または1943年初[20]の佳日に「昭南神社遷宮祭」が行われた[20][19]。
遷宮祭では、大達市長が祭主となり、寺内南方軍総司令官以下が玉串奉奠をし、その後現地人各団体代表が礼拝した[20][19]。
式典後、神社は一般に開放され、山下・パーシバル会見が行われたフォード工場 などとともに戦跡見学のルートとなって、日本人のほか現地人の多くが訪れた[21][22][23]。
参拝の強要[編集]
1943年1月20日に開催された「サルタン会同」[24]の前には、マラヤ・スマトラ各州のスルタンによる昭南神社の訪問が行事に組み込まれ[25]、第25軍司令官・斎藤弥平太中将は、イスラム教徒であるスルタンを昭南神社に参拝させた[22]。
鎮座祭[編集]
1943年2月15日には、シンガポール陥落1周年記念に併せて鎮座祭が盛大に行われた[2]。
破却[編集]
篠崎 (1976 205)は、1945年8月18日に第7方面軍司令官板垣征四郎大将から麾下の部隊長、軍政監部・市政庁の幹部に降伏が告げられると、翌日以降、忠霊塔や昭南神社の爆破、破壊が行われたとしている。
- シンガポール日本人会 (2004 167)は、建立した軍自らによって爆破された、としている。
サイレンバーグ (1988 212-213)は、昭南神社は解放時に(連合軍の)グルカ兵によって取り壊された、としている。
- リー (2007 102)は、解放軍によって取り壊された、としている。
跡地[編集]
日本の降伏後、サイム路[map 1]沿いあった連合国人の抑留所も解放されて、閉鎖されていたゴルフ場が再開された[22]。
2004年現在、シンガポール・アイランド・カントリー・クラブのブキット・コース3番ホール地点に、そこから対岸に渡るかつての太鼓橋の跡と、拝殿に至る石段、その途中にある手水鉢が残っている[2]。
付録[編集]
地図[編集]
- ↑ Sime road, Singapore 2016-04-11
脚注[編集]
- ↑ シンガポール日本人会 2004 167- シンガポール日本人会 (1978 )による。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 シンガポール日本人会 2004 167
- ↑ 3.0 3.1 3.2 許 1986 230
- ↑ 篠崎 1978 62
- ↑ 津吉 1953 111
- ↑ 篠崎 1978 62は、1人のマレー人が、照南神社のご神体である御幣とお札を保管してフォート・カニング にあった警備隊司令部に出頭し、華僑粛清のため軍司令部から警備隊司令部に派遣されてきていた林少佐に感謝されていた、としている。
- ↑ 7.0 7.1 津吉 1953 111-112
- ↑ 篠崎 1976 212は、神社の設営にあたり後述の横山部隊が昭南島内の景勝地で伊勢神宮の地形に似た場所を物色して場所を選定した、としているが、津吉 (1953 112)は、建設予定地も含めた計画が発表された、としている。
- ↑ 二松 1987 78-81。マレー作戦で英軍が破壊した橋梁の復旧工事に携わった(篠崎 1976 212)。
- ↑ 二松 1987 77-78,80
- ↑ 11.0 11.1 篠崎 1976 212-213
- ↑ 二松 1987 79
- ↑ 篠崎 1976 213は、神社の完成後、横山工兵大佐は「造園の天才」と称賛された、としている。
- ↑ 二松 1987 78-81
- ↑ 15.0 15.1 エドワーズ 1992 70-71
- ↑ 二松 1987 80
- ↑ 17.0 17.1 津吉 1953 112
- ↑ 小田部 1988 149
- ↑ 19.0 19.1 19.2 篠崎 1976 213
- ↑ 20.0 20.1 20.2 篠崎 1978 63
- ↑ 篠崎 1978 64
- ↑ 22.0 22.1 22.2 篠崎 1976 214
- ↑ 津吉 1953 113
- ↑ 第25軍軍政監部がマラヤ・スマトラ各州のスルタンをシンガポールに招いて会議を開き、スルタンの回教の首長としての地位・尊厳と財産所有権を公式に承認した(小田部 1988 150-151)。
- ↑ 小田部 1988 151
参考文献[編集]
- リー (2007) リー・ギョクボイ(著)シンガポール・ヘリテージ・ソサイエティ(編)越田稜(訳)『日本のシンガポール占領-証言=「昭南島」の3年半』凱風社、ISBN 9784773631029
- シンガポール日本人会 (2004) シンガポール日本人会・史蹟史料部『戦前シンガポールの日本人社会 - 写真と記録 改訂版』シンガポール日本人会、JPNO 21162150
- エドワーズ (1992) ジャック・エドワーズ(著)薙野慎二・川島めぐみ(訳)『くたばれ、ジャップ野郎! - 日本軍の捕虜になったイギリス兵の記録』径書房、ISBN 4770501102
- 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、ISBN 4250880192
- サイレンバーグ (1988) ジョン・バートラム・ヴァン・サイレンバーグ(著)幸節みゆき(訳)『思い出のシンガポール - 光の日々と影の日々』幻想社、ISBN 4874680550
- 二松 (1987) 二松慶彦「昭南島の頃」シンガポール日本人会(編)『「南十字星」創刊20周年記念復刻版』JPNO 88090020、pp.74-82
- Geoffrey Pharaoh Adams, No time for geishas Leo Cooper London, 1976 からの抄訳(二松 1987 75)
- 許 (1986) 許雲樵「5 昭南時代の新聞事業」許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳)『日本軍占領下のシンガポール』青木書店、ISBN 4250860280、pp.227-235
- 篠崎 (1978) 篠崎護「シンガポール占領と『昭南』時代 - 私の戦中史」(シンガポール日本人会 1978 57-79)
- シンガポール日本人会 (1978) シンガポール日本人会(編)『「南十字星」10周年記念復刻版 - シンガポール日本人社会の歩み』シンガポール日本人会、JPNO 79090009
- 篠崎 (1976) 篠崎護『シンガポール占領秘録‐戦争とその人間像』原書房、JPNO 73016313
- 津吉 (1953) 津吉英男「乱れた軍政」田村吉雄(編)『秘録大東亜戦史 6. マレー・太平洋島嶼編』富士書苑、pp.108-121、NDLJP 2991801/57