「聖マリア・ゴレッティ」の版間の差分
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2020年5月14日 (木) 11:45時点における最新版
マリア・ゴレッティ(Maria Goretti, 1890年10月16日 - 1902年7月6日)は、殺人被害者となったイタリアの少女。カトリック教会の殉教者、聖人。
生涯[編集]
マリアはイタリア王国アンコーナ県(旧教皇領)のコリナルドで、敬虔なカトリック信者の家庭に生まれた。7人兄弟(4男3女、そのうち1男は夭折)の長女で、「マリエッタ」の愛称[1]で呼ばれた。父アロイジオは貧しい日雇い労働者であったが、信仰を怠ることなく、日曜日には家族そろってミサに与かり、彼女は両親から愛情を受けて信仰深く育った。
しかし、父はまだ幼いマリアたちを残してマラリアで他界し、母アスンタ・カルリーニは6人の子供を抱えて、以前から同じ家に住むセレネッリ一家を頼るようになる。10歳を迎えたマリアは待望の初聖体(カトリック教会の習慣)を受け、敬虔な生涯を送る決心をする。
セレネッリ家の息子の|アレッサンドロ・セレネッリは、マリアにただならぬ思いを寄せていた。セレネッリ父子はゴレッティ一家とは違い、キリスト教の信仰から程遠い生活を送っていた。特にアレッサンドロは幼少の頃に母を亡くし、性格が気難しく、周囲に冷淡な態度をとっていた。
1902年7月5日、マリアの母が留守中に悲劇が起こった。当時、妹の子守をしていたマリアは、アレッサンドロに襲われそうになった。体をよこせと脅迫されると、マリアは必死に抵抗し、「純潔は神様からいただいたもの、汚してはいけません」と叫んだ。しかし、それに逆上したアレッサンドロはナイフでマリアの腹部の数箇所を刺し、彼女は血まみれとなって倒れた。
惨劇から間もなくして、マリアの母が仕事から帰ってきた。彼女は娘を呼んだが一向に声が聞こえず、不審に感じて家に上がると、娘の無残な姿を発見した。母は驚愕し、騒ぎに近所の住民が駆けつけた。マリアは病院に移されて手当てを施されたが、すでに手遅れであった。彼女はかすかな声で「彼を許します」と言い、それから「アレッサンドロ、そんなことをしては地獄に行くわ」と朦朧とした様子で口にすると、死亡した。
この事件はやがて世間に知られ、純潔を守るために命を落とした少女の噂を聞きつけ、彼女の葬儀に数百人が参列した。
その後の出来事[編集]
殺人罪で逮捕されたアレッサンドロは、罪状からすれば死刑に相当するところであったが、未成年(犯行当時19歳)であるという理由で酌量され、30年の懲役を受けた。ある日、彼の夢の中にマリアが現れ、彼女から百合の花1本を渡された。アレッサンドロはマリアが自分を許してくれたと確信し、改心した。その後、27年目に出所して家族と和解、カプチン・フランシスコ会の修道院で園丁として働き、1970年に生涯を閉じるまで模範的な人生を全うした。
マリアはカトリック教会から正式に殉教者と認められて列聖調査が始まり、1947年にローマ教皇ピウス12世によって列福され、1950年に列聖された。
参考文献[編集]
脚注[編集]
- ↑ 竹下節子『聖女の条件』(中央公論新社)より