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'''西村 琢磨'''(にしむら たくま、[[1889年]][[9月12日]] - [[1951年]][[6月11日]])は、[[日本陸軍]][[軍人]]。最終階級は陸軍[[中将]]。[[陸軍大学校]]32期卒で、[[砲兵科]]を専門とした。[[陸軍省#軍務局|陸軍省軍務局]]勤務が長く、1933年に[[五・一五事件]]の[[軍法会議]]判士長を務めた。1940年に[[印度支那派遣軍]]司令官として[[仏印進駐|仏印に進駐]]、1941年には[[近衛師団]]長として[[マレー作戦]]に参加。1942年の[[予備役]]編入後は陸軍[[司政長官]]として[[ビルマ]]・[[シャン州]]政庁長官などを務めた。1947年に[[イギリス軍シンガポール裁判]]([[シンガポール華僑粛清事件]])で終身刑、1950年に[[オーストラリア軍マヌス裁判]]([[パリットスロン事件]])で死刑の判決を受け、翌1951年に[[マヌス島]]で刑死。
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==経歴==
 
==経歴==
[[福岡県]]出身。[[熊本陸軍地方幼年学校]]、[[陸軍幼年学校|中央幼年学校]]を経て、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](22期)卒業。同期に、[[松井太久郎]]、[[牟田口廉也]]がいる。
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[[福岡県]]出身。[[熊本陸軍地方幼年学校]]、[[陸軍幼年学校|中央幼年学校]]を経て、[[陸軍士官学校]]22期卒業。同期に、[[松井太久郎]]、[[牟田口廉也]]がいる。<ref>出典?</ref>
  
1910年 [[砲兵科|砲兵]]少尉野砲6附、1913年 同中尉、1919年 同大尉。
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1910年(明治43)[[砲兵科|砲兵]]少尉野砲6附、1913年(大正2)同中尉、1919年(大正8)同大尉{{Sfn|大西|1977|p=123}}。
  
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1920年(大正9)[[陸軍大学校]](32期<ref>出典?</ref>)卒{{Sfn|大西|1977|p=123}}。
  
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1944年2月 [[蘭印]][[スマトラ島|スマトラ州]]知事<ref>{{Harvtxt|篠崎|1978|p=50}}では、[[ジャワ]]の[[マドラ州]]長官に転じて終戦となった、としている。</ref>
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辞世の句「責めに生き 責めに死すのは 長(おさ)たらむ 人の途なり 憾(うらみ)やはする」
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== 家族 ==
 
== 家族 ==
 
* 西村誠・[[東洋大学]]文学部教授は子{{Sfn|篠崎|1978|p=53}}。
 
* 西村誠・[[東洋大学]]文学部教授は子{{Sfn|篠崎|1978|p=53}}。
  
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== 参考文献 ==
 
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<!-- 「評伝」として区分する意味が分かりません。記事を書くにあたって参考にしたのなら参考文献、参考にしていないなら「関連図書」とかにした方がいいと思います。とりあえず参考文献に入れておきます。 -->
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*{{Aya|中田|year=2011}} 中田整一『最後の戦犯死刑囚 - 西村琢磨中将 とある[[教誨師]]の記録』〈平凡社新書〉平凡社、ISBN 978-4582855852
* {{Cite book|和書|last = 中田|year = 2011|first = 整一|authorlink= 中田整一 |title = 最後の戦犯死刑囚‐西村琢磨中将とある[[教誨師]]の記録|publisher = 平凡社 |series= 平凡社新書 |date = 2011-5 |ref= harv}}
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*{{Aya|ウォード|year=2005}} イアン・ウォード(著)鈴木正徳(訳)『将軍はなぜ殺されたか - 豪州戦犯裁判・西村琢磨中将の悲劇』原書房、ISBN 4562038799
* {{Cite book|和書|last = ウォード|year = 2005|first = イアン|translator = 鈴木正徳|title = 将軍はなぜ殺されたか-豪州戦犯裁判・西村琢磨中将の悲劇|publisher = 原書房|date = 2005-3|isbn = 4562038799 |ref= harv}}
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*{{Aya|篠崎|year=1978}} 篠崎護「西村中将の責任感 - 戦犯裁判の陰に』現代史懇話会『史』no.36、1978年4月、pp.48-53、{{NDLJP|7925913/26}}{{閉}}
* {{Cite journal|和書|last = 篠崎|year = 1978|first = 護|authorlink = 篠崎護|title = 西村中将の責任感‐戦犯裁判の陰に‐|editor = 現代史懇話会|journal = 史|volume = 36|date = 1978-4|pages = 48-53|ref= harv}}
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*{{Aya|大西|year=1977}} 大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、{{JPNO|77032906}}
* {{Cite book|和書|last = 大西|year = 1977|first = 覚|title = 秘録昭南華僑粛清事件|publisher = 金剛出版|date = 1977-4 |ref= harv}}
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2020年4月29日 (水) 18:34時点における最新版

西村 琢磨(にしむら たくま、1889年9月12日 - 1951年6月11日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将陸軍大学校32期卒で、砲兵科を専門とした。陸軍省軍務局勤務が長く、1933年に五・一五事件軍法会議判士長を務めた。1940年に印度支那派遣軍司令官として仏印に進駐、1941年には近衛師団長としてマレー作戦に参加。1942年の予備役編入後は陸軍司政長官としてビルマシャン州政庁長官などを務めた。1947年にイギリス軍シンガポール裁判シンガポール華僑粛清事件)で終身刑、1950年にオーストラリア軍マヌス裁判パリットスロン事件)で死刑の判決を受け、翌1951年にマヌス島で刑死。

経歴[編集]

福岡県出身。熊本陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、陸軍士官学校22期卒業。同期に、松井太久郎牟田口廉也がいる。[1]

1910年(明治43)砲兵少尉野砲6附、1913年(大正2)同中尉、1919年(大正8)同大尉[2]

1920年(大正9)陸軍大学校(32期[3])卒[2]

1921年(大正10)陸軍省軍務局付、1922年(大正11)軍務局課員[2]

1923年(大正12)関東戒厳司令部[2]

1925年(大正14)砲兵少佐[2]

1926年(大正15)兵本付[2]

1927年(昭和2)野砲3大隊長[2]

1929年(昭和4)由良要塞参謀[2]

1930年(昭和5)砲中佐、重砲校教官[2]

1932年(昭和7)兵本付兵務課員[2]

1933年(昭和8)参本課長。五・一五事件の時には、第一師団特設軍法会議判士長を務めた。[2]

1935年(昭和10)兵務課長[2]

1936年8月(昭和11)野戦重砲兵第9連隊長[2]

1938年3月(昭和13)少将、野戦重砲兵第1旅団長[2]

1939年3月(昭和14)東部防衛参謀長[2]

1940年9月(昭和15)印度支那派遣軍司令官として仏印に進駐[2]

同年12月2日[4]陸軍中将[2]

1941年(昭和16)6月24日、独立混成第21旅団長、同月28日 近衛師団[5]

同年12月、第25軍の指揮下でマレー作戦参加[6]

1942年(昭和17)2-3月 シンガポール占領後、市郊外の掃討作戦を指揮[7]

同年、スマトラ作戦参加[2]

同年、兵器本廠[2]

除隊後[編集]

1942年(昭和17)7月15日[8]予備役編入[2]

1943年(昭和18)4月15日[9]、陸軍司政長官に任命。同年6月20日[10] ビルマシャン州政庁長官[11]

1944年(昭和19)2月 蘭印スマトラ州知事[12][13]

軍事裁判[編集]

1947年(昭和22)、イギリス軍シンガポール裁判において、シンガポール華僑粛清事件で、市郊外の掃討作戦を指揮したとして英軍シンガポール裁判(第118号)で終身刑の判決を受ける[14]

1950年(昭和25)、オーストラリア軍マヌス裁判(第2号)において、マレー作戦中のムアルの戦いEnglish版後のパリットスロンEnglish版での連合軍捕虜虐殺事件(パリットスロン事件English版)の責任を問われ、死刑判決を受ける[14]

1951年6月11日マヌス島で刑死[14]

辞世の句「責めに生き 責めに死すのは 長(おさ)たらむ 人の途なり 憾(うらみ)やはする」[14]

家族[編集]

付録[編集]

脚注[編集]

  1. 出典?
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 2.15 2.16 2.17 2.18 2.19 大西 1977 123
  3. 出典?
  4. 出典?
  5. 出典?
  6. 大西 1977 36,123
  7. 大西 1977 68
  8. 出典?
  9. 出典?
  10. 出典?
  11. 大西 1977 123-124
  12. 出典?
  13. 篠崎 (1978 50)は、ジャワマドラ州長官に転じて終戦となった、としている。
  14. 14.0 14.1 14.2 14.3 大西 1977 124
  15. 篠崎 1978 53

参考文献[編集]

  • 中田 (2011) 中田整一『最後の戦犯死刑囚 - 西村琢磨中将 とある教誨師の記録』〈平凡社新書〉平凡社、ISBN 978-4582855852
  • ウォード (2005) イアン・ウォード(著)鈴木正徳(訳)『将軍はなぜ殺されたか - 豪州戦犯裁判・西村琢磨中将の悲劇』原書房、ISBN 4562038799
  • 篠崎 (1978) 篠崎護「西村中将の責任感 - 戦犯裁判の陰に』現代史懇話会『史』no.36、1978年4月、pp.48-53、NDLJP 7925913/26 (閉)
  • 大西 (1977) 大西覚『秘録昭南華僑粛清事件』金剛出版、JPNO 77032906